東久邇宮稔彦王
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| 東久邇宮 稔彦王 ひがしくにのみや なるひこおう | |
|---|---|
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ファイル:HIH Prince Naruhiko of Higashikuni.jpg 東久邇宮稔彦王の肖像写真 | |
| 生年月日 | 1887年 12月3日 |
| 出生地 | ファイル:Flag of Japan.svg 京都府 |
| 没年月日 | 1990年1月20日(満102歳没) |
| 出身校 | 陸軍大学校卒業 |
| 前職 | 防衛総司令官 |
| 称号 |
陸軍大将 従二位 大勲位菊花大綬章 功一級金鵄勲章 |
| 配偶者 | 稔彦王妃聡子内親王 |
| サイン | ファイル:HigashikuniN kao.png |
| 内閣 | 東久邇宮内閣 |
| 任期 | 1945年8月17日 - 1945年10月9日 |
| 天皇 | 昭和天皇 |
| 内閣 | 東久邇宮内閣 |
| 任期 | 1945年8月17日 - 1945年8月23日 |
| 選挙区 | 貴族院皇族議員 |
| 任期 | 1907年12月 - 1946年5月23日 |
東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。
貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。
目次 |
人物
日本の第43代内閣総理大臣(在任:1945年8月17日-1945年10月9日)。元皇族。陸軍軍人。日本史上唯一の皇族首相である。
戦前日本(大日本帝國)で最後の内閣総理大臣である。軍での階級は陸軍大将。位階は従二位、勲等功級は大勲位功一級。
第二次世界大戦後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱え国内の混乱を収めようとしたが、GHQによる内政干渉に抵抗の意思を表すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した[1]。
来歴
戦前
久邇宮朝彦親王の九男として1887年(明治20年)に誕生。1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。内親王の降嫁先確保のための特例措置であった。陸軍に入り、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業。1915年(大正4年)に予定通り明治天皇の第9皇女泰宮聡子内親王と結婚。1920年(大正9年)にフランスに留学し、フランス陸軍大学を卒業。卒業後もパリでの愛人との生活に耽溺し、[2]たびたびの帰国命令を拒み続けた。結局、大正天皇の崩御と大葬を契機に、おりからロンドンに留学中だった秩父宮がパリに乗り込んで直談判し、[要出典]ようやく帰国した。帰国した時には皇族のなかでも自由主義者として知られるようになっていた。
その後、第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任。日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留する。太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将であった。日米開戦直前の1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がる。皇族を首相にして内外の危機を押さえようとする構想で、近衛文麿、広田弘毅、東条英機をはじめ、海軍が支持したが皇室に累を及ぼさぬようにということで木戸幸一内大臣の反対によりこの構想は潰れ、東條英機が首相に抜擢された。大戦直後には悪化する日米関係、日英関係を好転するため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招きいれ、戦争回避の糸口を模索[3]したが開戦に至る。
留学の経験から欧米と日本の技術力差を感じた東久邇宮は、遅れをとっていたアジアの技術力の向上を目指して興亜工業大学(1942年(昭和17年)設置、のち千葉工業大学)等の教育機関の創設に携わった。特に同大学の航空工学科(戦後GHQにより閉科される)・機械工学科の設置に心血を注いだとされる。
宮城事件では私邸を焼き討ちされている。
戦後
1945年(昭和20年)8月17日に首相となり東久邇宮内閣を組閣。現役の陸軍大将として陸軍大臣を兼務し、9月2日のポツダム宣言(降伏文書)の調印を迎えた。
ポツダム宣言の調印、武装解除・軍部解体、民主化など、敗戦処理全般を主たる任務としてこなしたが、一方で旧来の政治体制の大規模な変革までは考えていなかった。
これに対して、10月4日GHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、窮した内閣は翌日総辞職した。
1947年(昭和22年)10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族のひとりとして皇籍を離脱し、以後は東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に新宿に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後喫茶店の営業や宮家所蔵の骨董品の販売などを行ったがいずれも長続きしなかった。
1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。その後もいろいろな事業を行なうものの、いずれも成功はしなかった。
1960年(昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山、片山哲とともに三元首相の連名で時の首相・岸信介に退陣を勧告。
1971年(昭和46年)には桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる。
晩年には「東久邇紫香」と名乗る女性(増田きぬ)に戸籍を乗っ取られる騒動が起きている。
1990年(平成2年)1月20日に102歳で死去。従二位に叙せられ、特例として豊島岡墓地に葬られる。
内閣総理大臣
ポツダム宣言受諾(降伏予告)の3日後に当たる1945年8月17日に、東久邇宮が内閣総理大臣に任命された。日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもある東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。
副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣には重光葵、大蔵大臣には津島寿一が任命された。また海軍大臣には米内光政元首相がみたび就任した。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日-23日)東久邇宮が兼任した。
新聞やニュース映画では、この皇族出身の首相を「東久邇総理大臣宮(ひがしくにそうりだいじんのみや)」あるいは「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」と呼んだ[4]。
日本の降伏が告知されたものの依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の求める日本軍の武装解除であった。この目的のため、東久邇宮は旧日本領や占領地に皇族を勅使として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。また、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。
在任中の東久邇宮の発言として特に有名なものは、9月5日に国会で行われた施政方針演説の以下のくだりである。
敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります
このいわゆる「一億総懺悔論」が東久邇宮首相の主要な政治理念とみなされた。ある意味では国家首脳部の戦争責任を曖昧にする論理と言える。すでに敗戦直前の時期に内務省情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない。」との通達がなされた。また、敗戦後、各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを防ぐため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。
一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを使い「一億総懺悔論」の伸張を抑え[5]、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判の準備にとりかかっている。
首相は、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。しかしながら内務省の反対により政治犯釈放は実現せず、その民主化を阻害する姿勢に対し、GHQから1945年10月4日に「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、治安維持法・特別高等警察等の廃止、政治犯・思想犯の釈放、自由化・民主化に抵抗する内務省幹部の更迭などを命じられた。内務大臣山崎巌は治安維持法なしでは治安維持に責任が持てないとして辞意を表明し、首相もこれを支持するかたちで内閣は翌日総辞職した。
評価
総理在任期間は54日と最短であるものの、終戦直後の混乱に満ちたこの一時期は、稔彦王以外の者が首相だったらあれほど穏かにはいかなかった可能性も十分にあった。十数日で国内を「降伏」で統一し、上陸してきたGHQに誰も危害を加えないようにし、速やかに日本の武装を解除したことは大きな事績といえる。
総懺悔に見られる東久邇宮の考え方は、過去の政治指導者こそが責任を負うべきとの重光外相の考え方とは対照的であった。重光はこうした意見の相違が理由のひとつとなって辞任している。
家族
- 父:久邇宮朝彦親王
- 母:寺尾宇多子
- 兄弟:男子 - 邦憲王 - 邦彦王 - 守正王 - 多嘉王 -暢王 - 鳩彦王 - 稔彦王
- 兄弟:女子:-- 智當宮 - 栄子女王 - 安喜子女王 - 飛呂子女王 - 絢子女王 - 素子女王 - 懐子女王 - 篶子女王 - 純子女王
- 妻:聰子内親王
- 子:
エピソード
- 陸軍士官学校では、「敵中横断三百里」で人気を呼ぶ小説家山中峯太郎が一級上にいて、その影響から内田魯庵訳のトルストイの『復活』を読んで物議をかもした。これが明治天皇の耳に達したため一時は臣籍降下まで検討された。
- 陸軍大学校在学中に明治天皇に陪食を命じられたが、下痢を理由にこれを断り、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)に叱責された。そこで明治天皇に臣籍降下を願い出たが、天皇は「年寄りを困らせるものではない」と取り合わなかった。
- フランス留学前に自動車の運転を覚えていたが、当時の日本では運転は匹夫野人のすることで、皇族がハンドルを握ることなどもってのほかとされていた。
- 1941年(昭和16年)夏、アジア主義の大御所である頭山満に対して、日中和平の実現のため蒋介石との間で、和平会談を依頼した。蒋の承諾を得て実行に移そうとするも、途中で東条英機首相に止められ、会談は実現に至らなかった。
- フランス留学中に、画家のクロード・モネについて絵筆をとった。モネに親友のジョルジュ・クレマンソーを紹介され親交を深めた。フィリップ・ペタン元帥やクレマンソーと会見した時に、両人より「アメリカが日本を撃つ用意をしている(オレンジ計画も参照)」との忠言を受け、帰国後、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ったが、西園寺公望以外は誰も耳を傾ける者はいなかった。日米交渉も大詰めを迎えた1941年(昭和16年)、近衛内閣で陸軍大臣の地位にあった東條英機に、稔彦王はこのクレマンソーの忠言を披露し、陸軍も日米交渉に協力すべきと説いたが、東條は「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」と応答した[6]。
- 米軍占領直後には「終戦」という語句を用いて敗戦の現実を有耶無耶にしようとする流れを批判し、敗戦の現実を認識してはじめて国土再建が成ると閣僚に説いたが、下村陸軍大臣が時局収拾を円滑にするため「終戦」という言葉を使ってほしいと説得され応じたという。また、当時は帝國内閣だったにも関わらず、敗戦で大混乱に直面していた国民に対し「私は皆さんから直接手紙をいただきたい。嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でもよろしい。参考としたい」と呼びかけ、国民から毎日数百通に上る手紙が舞い込んできたという。
- 皇族の手で、民主化を進めようと活発な言論と公正な世論に期待するとし、言論と結社の自由を宣言すると共に、閣議で全ての政治犯の釈放と、言論、集会、結社の自由を指示し、憲兵隊の政治活動を禁止する方針をだしたが、GHQと閣僚の対立により、日本政府の威信を保つため、自由化政策を実施する前に退陣してしまい実現に至らなかった。
脚注
参考文献
- 東久邇稔彦 『東久邇日記 日本激動期の秘録』 徳間書店, 1968
- 東久邇稔彦 『一皇族の戦争日記』 日本週報社, 1957
- 東久邇稔彦 『やんちゃ孤独』 読売新聞社, 1955
- 東久邇宮稔彦王 『私の記録』 東方書房, 1947
- 長谷川峻著 『東久邇政権・五十日 終戦内閣』行研出版局,1987
- 外務省編 『終戦史録(全6巻)』、解説江藤淳、北洋社 1978
- 外務省編 『日本の選択 第二次世界大戦終戦史録(上中下)』、山手書房新社,1990
- 江藤淳編 『占領史録』 波多野澄雄解題、講談社全4巻, 1982
- 講談社学術文庫全4巻, 1989、同文庫新版全2巻, 1995
- 江藤淳編 『もう一つの戦後史』講談社、1978年-インタビュー集
- 佐藤元英、黒沢文貴編 『GHQ歴史課陳述録 終戦史資料』
- 上.下 <明治百年史叢書> 原書房 2002
- 林茂、辻清明編 『日本内閣史録.5巻』 第一法規 ,1981
- 鈴木九萬一監修 『日本外交史.26巻 終戦から講和まで』 鹿島研究所出版会,1973
- 荒敬編 『日本占領・外交関係資料集 第1巻』 柏書房,1991
- 広岡裕児 『皇族』 読売新聞社, 1998 ISBN 4643980745、中公文庫, 2002 ISBN 4122039606
- 鹿島茂編 『宮家の時代』 朝日新聞社, 2006 ISBN 4-02-250226-6
- 大久保利謙監修 『日本の肖像.第12巻 旧皇族 閑院家 東久邇家 梨本家』
関連項目
外部リンク
- 第88回帝國議会(臨時会)戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説(1945年9月5日)
- 東久邇宮家御家族の写真アルバム
- 百年の遺産-日本近代外交史
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 鈴木貫太郎 | ファイル:Flag of Japan.svg 内閣総理大臣 第43代:1945年 | 次代: 幣原喜重郎 |
| 先代: 阿南惟幾 | ファイル:Flag of Japan.svg 陸軍大臣 第34代:1945年 | 次代: 下村定 |
| 軍職 | ||
| 先代: 山田乙三 | ファイル:Flag of Japan.svg 防衛総司令官 第2代:1941年 - 1945年 | 次代: 廃止 |
| 先代: 古荘幹郎 | ファイル:Flag of Japan.svg 陸軍航空本部長 第10代:1937年 - 1938年 | 次代: 寺本熊市 |
| 先代: 寺内寿一 | ファイル:Flag of Japan.svg 第四師団長 1934年 - 1935年 | 次代: 建川美次 |
| 先代: 多門二郎 | ファイル:Flag of Japan.svg 第二師団長 1933年 - 1934年 | 次代: 秦真次 |
| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第42代 鈴木貫太郎 |
第43代 1945年 |
第44代 幣原喜重郎 |
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