東京ヤクルトスワローズ
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| 東京ヤクルトスワローズ | |
| 会社名 | 株式会社ヤクルト球団 |
|---|---|
| 創設年度 | 1950年 |
| 所属リーグ | |
| セントラル・リーグ | |
| 歴代チーム名 | |
| 本拠地 | |
| 明治神宮野球場(東京都新宿区) | |
| 収容人員 | 35,650人(明治神宮野球場) |
| フランチャイズの遍歴 | |
| 東京都(1952年 - 現在) | |
| 永久欠番 | |
| なし | |
| 獲得タイトル | |
| 日本一(5回) | |
| 1978 | 1993 | 1995 | 1997 | 2001 | |
| リーグ優勝(6回) | |
| 1978 | 1992 | 1993 | 1995 | 1997 | 2001 | |
| 成績(タイトル以外) | |
| 日本シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年) | |
| 1978 | 1992 | 1993 | 1995 | 1997 | 2001 | |
| クライマックスシリーズ(1回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
| 1敗 2009 | |
| 球団組織 | |
| オーナー | 堀澄也(代行:鈴木正) |
| 運営母体 | ヤクルト本社 |
| 監督 | 小川淳司 |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 市場情報 |
|
| 本社所在地 | 東京都港区新橋5丁目13番5号 新橋MCVビル5階 |
| 事業内容 | プロ野球興業 |
| 代表者 | 衣笠剛(代表取締役社長兼オーナー代行) |
| 資本金 | 4憶95百万円 |
| 主要株主 |
株式会社ヤクルト本社 80% 株式会社ニッポン放送 20% |
| 外部リンク | http://www.yakult-swallows.co.jp/ |
| 特記事項:旧商号・株式会社国鉄球団→株式会社サンケイアトムズ→株式会社アトムズ→株式会社ヤクルトアトムズ | |
東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、Tokyo Yakult Swallows)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。
東京都を保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場である。
目次 |
球団の歴史
国鉄・サンケイ時代
1949年シーズンオフ、リーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立の煽りを受け、各地の国鉄鉄道局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係が悪化していることもあり、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立を発案した。当時の加賀山之雄総裁が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。
しかし、日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることは出来ず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会が主体となり、1950年1月12日に財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現JTB)などの企業により株式会社国鉄球団を設立。球団名を国鉄スワローズとした(#球団名も参照のこと)。国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元逓信省総裁松前重義の尽力で、武蔵境の旧中島飛行機工場跡地に新しい野球場「武蔵野グリーンパーク野球場」が建設された(諸事情により1956年閉鎖。実質上は7試合しか行われなかった)。
しかし、参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、松竹ロビンスの二軍監督・森谷良平と、かつて奉天満鉄倶楽部に在籍していた宇佐美一夫を追加補強してクリーンアップに据えたものの、その後も貧打に悩まされ、1950年8月に高校を中退して入団していきなりエースとなった金田正一の投球がチーム成績を左右した。1951年〜1964年の14年連続20勝をあげた金田の活躍で最下位こそ少なかったが、常に4位・5位が定位置で成績は振るわなかった。
しかしながら、1954年に巨人からトレードで宇野光雄が加入すると、宇野の活躍で同年の対巨人戦8連勝、さらに1956年に宇野が監督に就任すると、巨人を徹底的にマークしてカードで11勝(13敗)を記録するなど、対巨人戦では互角の試合を見せ、後楽園の国鉄・巨人戦は当時の関東で最も人気のある対戦だった。この間、1955年に町田行彦が31本塁打でチーム初の打撃タイトルとなる本塁打王を獲得、1957年には金田正一が28勝・防御率1.63で最多勝利と最優秀防御率、佐藤孝夫が22本塁打で本塁打王のタイトルを獲得している。しかし、1960年は最下位に転落し、宇野は監督を辞任した。
1961年には初めて3位になりAクラス入り。翌年の1962年、年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政だった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。そして、1963年8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社、フジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送と結び、フジサンケイグループとの関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイグループに移る。
1964年、主催試合を系列のフジテレビジョンで中継するために、本拠地を後楽園球場から神宮球場へ移転する。同年オフ、林義一監督の更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エースの金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞、朝日新聞、毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。
これに伴い1965年5月10日、産経新聞とフジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送が親会社となり、サンケイスワローズに改称。さらに1966年、少年野球ファン開拓のためという理由に加え、手塚治虫が当時球団後援会副会長(会長は徳川夢声)だったという経緯もあって鉄腕アトムをペットマークに使い、チーム名をサンケイアトムズに、運営会社名を株式会社サンケイアトムズに改称。同年ヤクルト本社が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。
1969年には産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった南喜一が代表者を務めていた。表面上は共同経営とし球団名をアトムズと、運営会社名を株式会社アトムズ球団としたが、実質経営権はヤクルト本社が握った。1970年1月7日にはヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち球団名をヤクルトアトムズに、運営会社名を株式会社ヤクルトアトムズに改称となり、球団旗もヤクルト本社の社色である赤・白・緑のものとなった。
ヤクルト時代
1970年、92敗と歴史的大敗を喫し、ダントツの最下位に終わった。8月には1936年の大東京軍と並ぶ16連敗を喫した。この連敗記録は2リーグ分裂後、当時のワースト記録となり、現在もセ・リーグと、間に引き分けを挟まない連敗のワースト記録である(パ・リーグでは千葉ロッテマリーンズが1998年に18連敗(引き分け1を挟む)を喫した)。なお、セ・リーグでは2003年に横浜ベイスターズが94敗を喫すまではシーズン90敗達成球団が出なかった。
1971年に三原脩を監督に招聘するが、3年連続Bクラス。当時ではヤクルトの優勝はあり得ないものとされていた事象として、当時連載中だった天才バカボンで1972年に発表された「20年後のバカボンなのだ」では、20年後の出来事として「ヤクルト59連勝して優勝、巨人最下位」と記載されていた[注 1]。その間、1972年には中西太打撃コーチのマンツーマン指導を受けた若松勉が首位打者、安田猛も1972年・1973年と2年連続で防御率1位となって頭角を現す。
1973年11月26日、虫プロダクションの倒産に伴い、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止。チーム名を「ヤクルトスワローズ」に変更。1974年、荒川博が監督に就任、松岡弘が17勝、浅野啓司も防御率2位と活躍し13年ぶりのAクラスに押し上げる。 1975年、日本ハムとの交換トレードで大杉勝男を獲得。シーズン終了後に武上四郎が引退。
1976年、荒川が成績不振を理由に休養し、ヘッドコーチの広岡達朗が5月13日に監督に就任。結局5位に終わり、国鉄時代の1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越しを記録し、セ・リーグワースト記録となる[注 2]。1977年、若松が2度目の首位打者、入団2年目のチャーリー・マニエルが42本塁打を放ち、チームは球団創設以来初の2位に躍進。
1978年、初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、失速した巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日のダブルヘッダー第2試合、さらに杉浦亨が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日に創立29年目の初優勝を決める。日本シリーズでも圧倒的不利の前評判を覆して阪急ブレーブスを4勝3敗で下し初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で大野豊に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。
1979年、マニエルの放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人ジョン・スコットがサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月にヘッドコーチの森昌彦が解任され、これに激怒した広岡が途中休養(指揮権放棄)し辞任。
1980年、武上が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで広島以外の4球団から15勝以上挙げるも、その広島に大きく負け越し、広島に大差をつけられての2位。1981年、マニエルが復帰し優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的な衰えで12本塁打止まり、さらに若松、スコットが相次いで負傷し外野陣が崩壊、出番が大幅に増えた代走・守備固め専門の青木実の盗塁王という副産物はあったが4位に終わる。その後2年間は最下位と低迷。1983年は巨人との抽選の末入団交渉権を獲得した荒木大輔が入団するが、シーズン終了後に大杉が現役引退。
1984年、武上がシーズン途中で休養し、中西太が代理監督に就任するが中西も休養し、投手コーチだった土橋正幸が就任して5位に浮上。しかし1985年・1986年と2年連続最下位に終わり土橋も辞任。1985年のシーズン終了後に優勝バッテリーの松岡と大矢明彦が揃って引退。1985年、日本プロ野球選手会は労働組合の資格を得たが、オーナーの松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させている。1986年オフ、関根潤三を監督に招聘。
1987年はシーズン途中に入団した現役大リーガーボブ・ホーナーが「ホーナー旋風」を起こしチームは4位に浮上。この年のドラフト会議で、長嶋一茂を大洋との抽選の末、交渉権を獲得。1988年は5位に終わるが、広沢克己と池山隆寛が30本塁打以上を放ち台頭、巨人戦も8年ぶりに勝ち越し。1989年、ラリー・パリッシュが本塁打王に輝くも広沢・池山と共に100三振を記録。4位に終わり、シーズン終了後関根が勇退、若松が現役を引退。このオフ、ヤクルト選手会は労組選手会に復帰している。
1990年、野村克也が監督に就任。野村は新人の古田敦也を正捕手に起用、また飯田哲也や柳田浩一をレギュラーに抜擢する。1991年は6月に12連勝を飾り一時期首位に立つ。その後失速したが、最終戦に勝利し11年ぶりのAクラス。広沢克が打点王、古田は捕手としては野村以来26年ぶりの首位打者となる。
1992年は広島・巨人・阪神との熾烈な優勝争いとなる。西村龍次と岡林洋一以外の先発陣が手薄だった投手陣は4月に高野光、5月に伊東昭光と、故障で離脱していたベテランが復活。前半戦を3位で折り返すも、後半に入ると前半戦わずか8本塁打のジャック・ハウエルが本塁打を量産し首位に返り咲く。しかしチームは9月に入り9連敗[注 3]を喫した。9月11日には阪神戦で一度は八木裕のサヨナラ本塁打で敗戦となるものの、ヤクルトの抗議を受けてエンタイトル二塁打と判定が覆り、阪神側の抗議で37分間中断するものの、試合は15回引き分け、試合時間は6時間26分という記録となった。一時は3位にまで下がるが、9月24日に荒木が1541日ぶりの復活登板を果たし息を吹き返す。このように混戦となった為、「プレーオフ委員会」が開かれ、「2勝したほうが優勝とし、第1戦を甲子園、2戦目を神宮、3戦目を東京ドームでおこなう」プレーオフを実施するとあらかじめ決定していた。10月、阪神との首位決戦に連勝し王手をかけると、10月10日の甲子園での直接対決でハウエルが2打席連続本塁打、先発荒木の好投を受けて最後は伊東が締めくくり14年ぶりのペナント制覇。日本シリーズも岡林の熱投で当時過去6年で5度の日本一となっている王者西武ライオンズ相手に大健闘するが3勝4敗で惜しくも日本一は逃す。
1993年、高津臣吾が前年不在だったストッパーの座に座り、新人の伊藤智仁も故障で離脱するまで7勝、防御率0.91の活躍。打撃陣も広沢克が2度目の打点王、ハウエルがサヨナラ本塁打5本と勝負強さを発揮しリーグ2連覇。日本シリーズでも4勝3敗で西武に雪辱し15年ぶりの日本一。
1994年は古田が右手負傷で戦線離脱したのが響き、一転して4位。シーズン終了後、広沢克がFAを宣言し巨人へ移籍、自由契約のハウエルも巨人に入団する。
1995年、広沢とハウエルが入団した巨人相手に不利が予想されたが、開幕第2戦で桑田真澄の危険球退場をきっかけに逆転勝ちし流れが一変。阪神を解雇された新加入のトーマス・オマリーが狭い神宮で本塁打を量産、新外国人のテリー・ブロスも9月9日の巨人戦でノーヒットノーランを達成するなど活躍し、9月30日に巨人を下し2年ぶりのリーグ優勝。オリックス・ブルーウェーブとの対戦となった日本シリーズでもオマリーが活躍、古田を中心とするバッテリーもイチロー封じに成功し4勝1敗で2年ぶりに日本一を奪回。
1996年はまたも4位に転落。田畑一也が移籍1年目で12勝を挙げる。5月16日の広島戦ではには17-16で勝利し、一点差勝利試合の記録を作っている。
1997年、広島を自由契約となり入団した小早川毅彦が開幕戦の巨人戦で斎藤雅樹から3打席連続本塁打を放ちチームを勢いづけた。開幕前は低評価だったドゥエイン・ホージーが松井秀喜を抑え本塁打王、投手では田畑が15勝、伊藤智も高津とのダブルストッパーで復活した。終盤、横浜ベイスターズに3.5ゲーム差まで迫られるが、9月2日の直接対決で石井一久がノーヒットノーランを達成するとその後は横浜を突き放し2年ぶりの優勝。日本シリーズでも西武を4勝1敗で退け4度目の日本一。
1998年開幕直前に日本ハムとの交換トレードで野口寿浩を放出し、のちに選手会長となる城石憲之を獲得。同年、高卒新人の五十嵐亮太を擁し、球団史上初のファーム日本選手権制覇を達成した。しかし1軍は4位に低迷し野村は同年限りで勇退、若松勉が監督就任。
2001年、投手陣は川崎憲次郎のFA移籍、伊藤智らの故障離脱で先発投手が不足する中、2年目の藤井秀悟が14勝を挙げ最多勝、入来智・前田浩継の「リストラ組」もそれぞれ10勝、7勝とローテーションを支えた。打線も、本塁打・打点の2冠のロベルト・ペタジーニ、打率2位の古田を筆頭にレギュラー8人が全て規定打席到達という安定ぶりで、この年のみ採用の「勝利数優先」の順位決定方式を逆手に取り、巨人を振り切り4年ぶりのリーグ優勝。若松は球団生え抜きとして初の優勝監督となり「ファンの皆様、おめでとうございます」の名言を残す。日本シリーズでは大阪近鉄バファローズ自慢の「いてまえ打線」を封じ込めて4勝1敗で4年ぶりの日本一を達成。
- この年、セ・リーグは勝数で順位を決定した。ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。
- ドーム球場をフランチャイズとして順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べてさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続き、ヤクルトはその間首位の重圧から解放され、巨人は首位にも関わらず追いつめられた状況に陥るなど、順位決定制度が精神的にヤクルト側へ有利に働くこととなったといわれている。
- このような経緯があったためか、2002年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、2007年のクライマックスシリーズ導入までは勝率が最も高い球団と勝数が最も多い球団とが異なる場合はプレーオフで優勝決定する事は変わらなかった。
2002年 - 2004年も3位以上を保ち、4年連続でAクラスになった。4年連続でAクラスを確保したのは、球団史上初の出来事である。ただし2003年は前年順位でヤクルトを上回る巨人と同率3位だったため開幕権を得られず、2005年の開幕はビジターで行われた。2004年は年間の総得失点差が-73点と大幅にマイナスであったにもかかわらず、最終戦で巨人を追い抜き72勝64敗の2位でシーズンを終えた[1]。
東京ヤクルト時代
2006年シーズンからは古田敦也が選手兼任監督として指揮を執る。2005年12月19日のプロ野球実行委員会で、古田の悲願だった地元密着型として「東京ヤクルトスワローズ」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄以来となる「Tokyo」の文字が復活した。2006年も前年同様、リック・ガトームソンがノーヒットノーランを達成するなどの活躍で交流戦2位になるが、交流戦終了後はほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果3位となり2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。
2007年は怪我に泣かされ続けた1年となった。五十嵐、石井弘寿の「ロケットボーイズ」が手術の影響でシーズンを棒に振ったのを皮切りに、ディッキー・ゴンザレス、アダム・リグス、高津臣吾などの主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。最終的に青木宣親が首位打者、アレックス・ラミレスが打点王、セス・グライシンガーが最多勝投手になるが、シーズン143試合目で1986年以来21年ぶりの最下位を確定させてしまう。8月から、東京のUHF、東京メトロポリタンTV(TOKYO MX)で2007年度初のテレビ中継が開始[注 4]。以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。9月、古田の現役引退・退団が発表された。なお、伊東昭光も辞意を表明したため、チーム最年長コーチの八重樫幸雄がヘッドコーチ代理を兼任していた。10月25日、日本ハムゼネラルマネージャーを退任した高田繁が監督に就任し、26日には西武ライオンズの投手コーチを退任した荒木が1軍投手コーチとして復帰することが決定した。一方選手では、打点王のラミレスとこの年16勝を挙げたグライシンガーが巨人へ、石井一久がFAで西武へ移籍した。年明けには藤井秀悟を交換要員とする3対3のトレードを日本ハムと行ったが、藤井の放出で先発投手が駒不足となった。
2008年は巨人に開幕3連勝をするなど4月終了時は3位に立ったが、石川雅規、館山昌平に続く先発が不在となる。野手では福地寿樹や飯原誉士をはじめとする俊足の選手が中心となったが、アーロン・ガイエルの離脱などで長打力に欠けた。夏場には北京オリンピックで青木と宮本が離脱したため戦力が安定せず、シーズン終盤に8連敗(そのうち2試合がサヨナラ)を喫し、CS争いを繰り広げる中日、広島に引き離され5位に終わった。しかし、前年まで完全に崩壊していたリリーフ陣が、怪我で苦しんでいる最中に入団した林昌勇と、前年登板が無かった五十嵐の復活、押本健彦の加入、先発で結果が出ない松岡健一が転向して結果を残したため完全に整備され、由規の登場や、新しくレギュラーとなった若手野手の台頭など、2009年以降の足がかりを掴んだ1年だった。
2009年、横浜からFA権を行使した相川亮二を獲得。FA権が導入されてから初めてのFA補強を行い、長打補強のためジェイミー・デントナを獲得した。このシーズンは序盤から2位をキープして前半戦で貯金を最大14まで伸ばしたが、後半戦に入った途端に急失速、8月には1971年8月以来となる月間18敗(7勝)、9月にも1992年以来の9連敗を喫し、さらにはチームを支えてきた田中浩康や飯原、宮本、川島慶三といった主力が怪我で離脱、宮本が強行出場するなど厳しい状態が続き、一時は阪神や広島に抜かれ5位に転落した。しかし、高木啓充や鬼崎裕司の登場で息を吹き返し、10月9日の対阪神戦との直接対決に勝利して3位が確定し、3年ぶりのAクラス入りで初のCS進出を決めたが、結果的に後半戦の大失速が響いて史上初の勝率5割未満のCS出場となった。
2位・中日とのクライマックス・シリーズ第1ステージでは、石川の好投とデントナの逆転本塁打で勝利したが、新型インフルエンザにより選手が離脱したことも響いて中日に2連敗し、敗退した。
2010年は、阪神からFAで獲得した藤本敦士の活躍で開幕3連戦で鬼門の東京ドームで勝ち越すなど好調な滑り出しだったが、4月中旬以降は失速。交流戦で9連敗を喫するなど、一時は最下位に転落した。5月26日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦を以って高田が辞任[2]、ヘッドコーチの小川淳司が監督代行として指揮をとることになった。6月に打線の補強としてジョシュ・ホワイトセルを獲得し、トレードではリリーフ陣の強化のため渡辺恒樹や山岸穣を獲得。小川体制になってからのヤクルトは、野手陣と投手陣共に奮起し徐々にチーム状況が好転していく。6月に14勝8敗、7月に11勝8敗、8月には10連勝を含む18勝8敗と大きく勝ち越す。8月24日の対横浜ベイスターズ戦で勝率を5割に復帰させ、その後も勝率5割前後を維持しながら、3位とのゲーム差を徐々に詰め、最小で3.5ゲームまで3位との差を詰める。しかし、最終的には前半戦の不振が響いた形となり、4位となりCS進出はならなかったが、72勝68敗4分けとシーズン成績は6年ぶりの勝ち越し、2011年への希望をつかむ1年であった。また、ツイッターやSNS上などで「メークミルミル」という言葉も生まれた。このシーズンはリーグ優勝した中日に相性が良く、セ・リーグ他球団が苦手としたナゴヤドームでリーグ唯一の勝ち越し(シーズン通算で7勝4敗1分け。小川体制移行後に限れば5勝1敗)、シーズン対戦成績も15勝8敗1分けと唯一勝ち越し、特に小川体制移行後は12勝3敗と圧倒した。高田監督時代に非常に苦手にしていた巨人に対しても、後半戦は同一カード3連勝を含む対巨人戦5連勝などもあり、小川体制に代わってからは8勝7敗1分けと勝ち越した。選手では村中恭兵・由規・中沢雅人などの若手投手陣が飛躍、チームから2桁勝利投手を4人輩出し、セ・リーグ2位の防御率を記録するなど投手陣の安定感が目立った1年だった。
2011年は東日本大震災の影響により、開幕日を当初の3月25日から4月12日に延期された。開幕直後はバレンティンや畠山和洋などが好調で4月下旬にはセ・リーグの首位に立った。その後も首位をキープし続け、8月には阪神に一時詰め寄られるも9月に9連勝して阪神の追撃をかわした。しかし躍進の動因であるバレンティンや畠山ら主軸打者がシーズン終盤から相次いで打撃不振に陥ったことに加え、由規・館山・石川・宮本などの先発投手がケガや肺炎などで離脱が相次ぎ、最大10ゲーム差をつけていた中日に終盤での猛烈な追い上げを食らい、優勝が懸った敵地ナゴヤドームでの直接対決では9月以降1勝8敗、5連敗するなどして逆転を許しV逸、2位に終わった。対巨人戦は12勝8敗4分と11年ぶりに勝ち越し、連続負け越し年数を10でストップさせた。CSファーストステージで3位の巨人に2勝1敗で勝ち越して球団初のファイナルステージに進出したが、リーグ連覇を果たした中日に2勝4敗(アドバンテージ1勝を含む)で敗退し、10年ぶりの日本シリーズ進出を逃した。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 6回 -(1978年、1992年 - 1993年、1995年、1997年、2001年)
- 日本一 5回 -(1978年、1993年、1995年、1997年、2001年)
- Aクラス 17回 -(1961年、1974年、1977年 - 1978年、1980年、1991年 - 1993年、1995年、1997年、2001年 - 2004年、2006年、2009年、2011年)※
- Bクラス 45回 -(1950年 - 1960年、1962年 - 1973年、1975年 - 1976年、1979年、1981年 - 1990年、1994年、1996年、1998年 - 2000年、2005年、2007年 - 2008年、2010年)
- 連続Aクラス入り最長記録 4年 -(2001年 - 2004年)
- 連続Bクラス最長記録 12年 -(1962年 - 1973年)
- 最多勝 83勝(1997年)
- 最多敗 94敗(1950年)
- 最多引分 16分(1978年、1981年)
- 最高勝率 .631(1995年)
- 最低勝率 .264(1970年)
- ゲーム最多得点 22(1955年7月13日・対広島)
- ゲーム最多失点 22(1999年7月22日・対横浜)
※2003年は巨人と同率の3位であり、2002年は巨人は優勝・ヤクルトは2位のため、2005年の開幕権を得られず。
チーム個人記録
- 投手
- ノーヒットノーラン最年少記録:金田正一(1951年、18歳1ヶ月)
- 交流戦ノーヒットノーラン:リック・ガトームソン(2006年)
- 野手
- シーズン200本安打達成:青木宣親(2005年、2010年。史上2人目、複数回の達成はNPB史上初)
- 同:アレックス・ラミレス(2007年。史上3人目、右打者の達成はNPB史上初)
その他の記録
- 年間最多併殺打 140個(1996年、セ・リーグ記録)
- 最小ゲーム差 4.5ゲーム(1973年)
- 最大ゲーム差 57.5ゲーム(1950年)
- 最高連勝数 12連勝(1991年)
- 最低連敗数 16連敗(1970年)
- 間に引き分けを挟んでいない連敗としてはプロ野球最低記録(引き分けを挟んだ場合の記録は1998年ロッテの18連敗)
- 最多本塁打 181本(2004年)
- 最少本塁打 36本(1951年)
- 最高打率 .283(2003年)
- 最低打率 .201(1962年)
- 最高防御率 2.29(1961年)
- 最低防御率 4.76(1984年)
- 連続安打打席数 11(2009年、プロ野球記録&ギネス世界記録)
歴代本拠地
- 1950年:後楽園球場
- 1951年:後楽園球場、武蔵野グリーンパーク野球場
(フランチャイズ制度の実施は1952年から)
チーム特徴
球団名
「スワローズ」の名称は、当時の国鉄では唯一の特急列車、かつ日本最速だった「つばめ」号に由来する。球団旗には列車に使われていたつばめマークを採用し、「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使っている。
- ニックネーム決定の際、国鉄職員を対象とした公募を行ったところ、「サービス」「ホイッスル」「弁慶」などの名前も挙がったが、最終案として残ったのが「スワローズ」と「キリバース[注 5]」の2つである。しかし「動輪に桐」は一般にそれほど知られておらず、国鉄内部向けの印象が強かった。一方、ツバメは古来よりスピードの象徴で、スピードを重視する野球チームの愛称にふさわしく、人の生活圏に営巣する習性があるので、人に愛される球団名として適切であることが考慮され、「スワローズ」で決定した、という経緯がある(徳永喜男「ヤクルトスワローズ球団史」参照)。
- 元来「燕」は国鉄の象徴的な存在だった。1950年に国鉄自動車局がシンボルマークに「燕」を一般公募で採用しており、現在のJRバス各社がツバメをマスコットキャラクターとして継承しているのもその名残である。旧・丸善石油がツバメのマークを使っていたのも、開業当初に鉄道省との繋がりが深かったからである。
- 「国鉄は当初『コンドルズ』にしようとしたが、本業の鉄道が『“混んどる”ず』ではマイナスイメージだから取り止めた」「『“座ろう”ず』にすれば鉄道業としては快適なイメージだから採用した」という俗説が有名だが、これは漫才のジョークが元ネタである[3]。なお、南海ホークスにも「コンドル」をチーム名候補とした話があるが、こちらは球団史にも記載されており、根拠のないジョークではない(『スポーツに関する都市伝説』の該当項目参照)。
- 「アトムズ」は親会社だったフジテレビでアニメが放映され、改名後産経新聞の日曜版にも漫画原作が連載されていた手塚治虫原作の『鉄腕アトム』からとった。なお広島東洋カープが創設された当初、アトムズも球団名の候補に挙がっていたといわれている(広島東洋カープ#チーム特徴を参照。由来は当球団とは異なる)。なお前述の経緯から、1969年だけは球団名・法人名を純粋にニックネームのみの「アトムズ(球団)」とした。
マスコット
現在
- つば九郎 - 1994年登場。スワローズのヘルメットをかぶったツバメ。
詳細は「つば九郎」を参照
- つばみ - つば九郎の妹。1999年に登場。
詳細は「つばみ」を参照
- 燕太郎(えんたろう) - 2005年から登場した新顔。
詳細は「燕太郎」を参照
つば九郎・つばみは2001年のフジテレビのイメージCMに出演したことがある。内容は、つば九郎(の役者)がつばみ(の役者)に「結婚してくれ」と愛を告白するが、それをたまたま盗み聞きした石井一久が「兄妹だろ、こいつら!」と何故か兄妹の立場からツッコミをいれるという内容。
過去
- アトム - 愛称がアトムズだった、1966年から1973年まで使用。漫画「鉄腕アトム」の主人公。
- ボールの顔をしたマスコット - 1978年登場。つば九郎の前のペットマークに使われたキャラクター。神宮球場にはボールをモチーフにした絵・キャラクターが多く、かなり神宮を意識したものと思われる。通称「ボール坊や」、正式名称はなし。
- ヤー坊 - 1978年〜1979年頃には登場し[注 6]、つば九郎登場まで存在したツバメのキャラクター。神宮球場での着ぐるみのみだったようで、ペットマーク等に起用されなかった。
- スーちゃん - ヤー坊と同時期に存在したツバメのキャラクター。
応援スタイル
「チャンステーマ」も参照
応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入るとビニール傘を振りながら東京音頭を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使ったのは東京オリオンズであるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。
- 東京音頭の前奏・間奏部分で以前は「くたばれ○○(相手球団)」であったが現在は相手球団とは無関係に一部のファンが「くたばれ読売」と歌詞を付ける。これは応援団主導で行っているのでは無く、2010年から応援団は「東京ヤクルト」と連呼するようにと呼びかけられている[4]。
- 近年はチャンステーマにJITTERIN'JINNの「夏祭り」や「ルパン三世のテーマ」が使われる。また青木宣親限定で「必殺仕事人のテーマ」も使われる[注 7]。
- 球団イメージカラーの明るい緑色は、ヤクルトの球団旗とアトムズ当時のユニフォームのアクセント色に由来する。ユニフォームの配色を赤と紺に変更して以降も、メガホンなどのグッズは依然として緑色のものが継続して売られている。
- 東京音頭で振る傘は、緑(または青)のビニール傘もしくは球団が発売している小さいマスコット傘が一般的であるが、特に決まっているわけではない。もともと「傘を振る」という応援方法自体が「応援グッズを買わずとも、家にあるもので応援に参加してもらえる」という趣旨で始まった、ということもあり、他の色のビニール傘や普通の傘を振っても、いっこうにかまわない。この傘を使った応援スタイルは、当時のツバメ軍団団長だった岡田正泰が「少しでもファンが多くいるように見せるために」考え出した苦肉の策だった。
- 傘応援については危ないという意見があり、横浜スタジアムでは一時期傘を使った応援が禁止されていた。球場で販売されている応援用の傘は、危なくないように露先を柔らかい素材にしているとされている。また、現在発売している応援用の傘は骨の長さが30cm前後とかなり小さなものとなっており(石突には別売のつば九郎やつばみのマスコットが取り付けられるようになっている)、通常の雨傘としての使用は不適であるが、急な雨等の場合は使用するファンも多数見受けられる。
- 他球団ファンは、7回や勝利時にジェット風船を飛ばしているが、2009年6月から神宮球場がジェット風船を禁止にしたことや、上記の傘を使った応援が浸透していることなどから、多くのヤクルトファンは「ゴミになるだけ」「神宮外苑の自然環境が悪化する」としての理由でジェット風船を使っていない。
- 本拠地とする神宮球場では、夜10時以降のナイトゲームでの太鼓を使っての応援は禁止されている。詳しくは、明治神宮野球場の項目を参照のこと。そのためにホームの神宮球場でのナイトゲームではリズムが取りづらく、全体的にテンポが速くなりやすい。なお、2009年まではデーゲームでも太鼓の使用は禁止されていた。
- 2006年より、選手紹介の場内アナウンスは2人体制となった。ビジターチームについては通常のウグイス嬢、ヤクルトチームについては男性DJが担当している。2009年現在、公式DJとしてパトリック・ユウを起用している。
近年の戦績
- 近年、Aクラスを維持する一方で試合消化の遅さが影響してマジック対象チームになることが多く、2002年から「ヤクルトの敗北で優勝球団のマジックが0となって優勝が決定する」ケースが3年続く珍事が発生した。
- 一昔前は常に最下位争いをしていたが、野村監督以降チーム力が格段と上がり1987年から20シーズンにわたり最下位に落ちることがなかった。1991年以降は2006年まで4位以上と安定した成績を保っていた。それに伴って監督在任期間も長くなり、2010年11月現在の平成年間で監督を務めたのは関根:1年、野村:9年、若松:7年、古田:2年、高田:2年の計5名である。一時期に常に最下位争いしていた大洋の10人、阪神の7人に比べると非常に少ない。
- Bクラスに低迷していた武上・土橋・関根政権時代は、優勝チームの胴上げ試合が対ヤクルト戦となることが多かった[注 8]。広沢克己は「目の前で何度も胴上げを決められて、いつか俺たちが優勝してやると誓った」と後に語っている。また、星野仙一が監督だった中日での2度の優勝と阪神での優勝は、全てヤクルト戦に絡んだ試合である[注 9]。ちなみに、1978年のヤクルト初優勝決定試合の対戦は、同じく神宮球場での対中日ドラゴンズ戦である。
- ヤクルトは日本選手権シリーズに強く、6回出場して5回優勝している。日本一を逃した1992年も西武ライオンズ相手に3勝4敗だった。しかも最終戦は延長に入っての敗退で、当時の評論家からも「大健闘した」と讃えられた。また、日本一になった時は、1993年を除いては本拠地で胴上げを行っている(1978年のみ後楽園球場)。神宮での最後の敗戦は1995年の第4戦で、翌戦から1997年、2001年の第5戦まで7連勝中、日本シリーズで出場経験のない楽天と日本シリーズで敗退経験のない横浜(ちなみにシリーズ出場回数は前身の大洋を含め2回)を除く全10球団で、日本シリーズの敗退経験が1回しかないのはヤクルトだけである。日本シリーズ出場回数6回はNPB史上6位と決して多くはないものの、上記の通りシリーズでの勝率の良さのおかげで、日本一回数5回は巨人、西武に次ぐ通算3位に位置している。
- 1990年代は、日本一(奇数年)になった次の年(偶数年)に、その反動で成績を落として(1994・96・98年に4位)、その次の年に日本一に返り咲くパターンを繰り返したため、球団史上5度の日本一の中で、4度が奇数年で記録されている。
- 交流戦が始まった2005年以降、対オリックス・バファローズ戦での相性が非常に良い。2009年までは負け越した年がなかったが、2010年は1勝3敗と負け越した。しかし、通算では18勝10敗と勝ち越しており(2010年交流戦終了時点)、前身のブレーブス・ブルーウェーブ時代の日本シリーズの対戦成績も含めると通算26勝13敗になる。2008年から2010年まで6連勝を記録していた。
その他
- 同じ東京都を本拠地としているだけに、ファンの間では昔から巨人への対抗心は強い。球団も国鉄時代は「巨人にだけは勝ち越せ」がスローガンだった。しかし松園尚巳オーナー時代は、オーナー自身が巨人ファンであることを明言するなど、後の桑原潤オーナー・野村監督体制まで、フロントの対抗心が比較的希薄だった点は否めない。松園は球団に愛情を持ってはいたが、いわゆる「出来の悪い子」が好きだったらしく、「(ヤクルトの販路はオフィスでの手売りが大きな割合を占めているので)ヤクルトが巨人に勝つと売り上げが下がるから、巨人には勝たなくていい」と公言していた。1978年のシーズン終盤に広岡と面会した際も、「ここまでよく頑張った」と暗に優勝を巨人に譲れと言わんばかりの発言をし、これに監督、コーチ、選手が反発して初優勝を遂げたという話も伝えられている。
- 松園尚巳が長崎県出身だったため、1970年代から2002年までのほぼ毎年、長崎県での公式試合が開催されていた。1997年に開場した長崎県営野球場で初めて公式戦(対広島東洋カープ戦)を行った際、9月6日の1戦目が雨で中止、翌日の試合では7回途中・降雨コールド勝ちとなった。その後も長崎での公式戦を開催していたが、松園が1994年に死去、また本社の事業再編による長崎工場の閉鎖もあったためか、2002年を最後にヤクルト主催の公式戦は開催されていない(2009年に巨人主催で7年ぶりに長崎で試合を行った)。このため、長崎はヤクルトファンが多い街だと言われている。[要出典]松園尚巳は1977年に長崎新聞社の社長に就任。1988年まで務める。1989年、長崎文化放送会長に就任している。長崎県営野球場は現在、楽天がミニキャンプ地として利用している。
- 1990年代以前は、スワローズでプレーしたことのない外部招請監督がほとんどで、特に松園オーナー時代は一貫して巨人軍の大物OBを監督に据えている。このため、生え抜き監督は国鉄時代の藤田宗一、ヤクルト以降は武上四郎・若松勉・古田敦也・小川淳司の5人しかいない。すなわち古田の監督就任は、球団史上初の「生え抜き同士の監督交代」だった。
- 国鉄時代には金田、サンケイ→ヤクルトになってからも若松や松岡弘など球史に残る大選手を擁しながらも人気の面では一貫して低迷を続け、本拠地の主催試合でもスタンドの大半は対戦チームのファンで埋まることが常だった。1978年の初優勝の際にも巨人戦ではジャイアンツファンに囲まれる中でのプレーを余儀なくされたが、1980年代に荒木大輔、ボブ・ホーナー、長島一茂などのスター選手を獲得してからは徐々に人気を伸ばし、90年代の飛躍へと繋がっていった。
- 神宮球場の他に、主催試合を行う地方球場として秋田県立野球場(こまちスタジアム)、福島県営あづま球場、静岡県草薙総合運動場硬式野球場、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等がある。以前は日本各地といって良いほど各地で試合を行っていたが、近年は交流戦等の影響もあり他球団同様減少傾向にある(交流試合が地方球場で行われた試合もある)。詳細は東京ヤクルトスワローズ主催試合の地方球場一覧参照の事。
- 巨人をビジターで扱う試合は地方球場での開催は無かったが、2009年は福島県営あづま球場で1試合、2010年は坊っちゃんスタジアムで2試合、2011年はあづま球場で1試合[注 10]と静岡県草薙総合運動場硬式野球場で4試合の計5試合[注 11]地方開催が行われている。[注 12]
- 千葉マリンスタジアムでも、毎年5月末の東京六大学野球(早慶戦)の際に主催試合が開催されていたが、セ・パ交流戦開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年以降は実施されていない。
- 帽子マーク“Ys”の原型は、1969年 - 1970年のアトムズ時代に遡る(当時は“Ya”マーク)。当初は大フォントの小文字で「ys」だったが1994年から現行型に変更されている。
- 帽子マークは、左に大きく「Y」・右に小さく「S」だが、チームのアルファベットでの略称はスワローズの頭文字である「S」としていることが多い。週刊ベースボールの2軍戦日程表では一時球団略称をYsとし、湘南シーレックスをSとしていたが、「Sが1軍と2軍で異なるチームを表すのはおかしいのではないか」という意見もあり、ヤクルトをS、湘南をSRに変更した。
- 引退・自由契約後の選手が親会社のヤクルト本社や、ヤクルトグループ系列会社に再雇用される事がある。多い年は自由契約選手を全て再雇用した年もある。[要出典]主な選手は杉浦享・萩原多賀彦・花田真人など多数。
- 2011年東北地方太平洋沖地震後にて、セ・リーグの3月25日開幕決定時、ヤクルト球団事務所にはファンからの苦情電話が殺到した。9割が25日開幕に批判的な内容であったが、多くの企業が計画停電で損失を出している中で、デイゲームやドームを使わない、東北や関東での試合開催をしないという選択肢もありながら、新球団常務は「ヤクルト本社の損失も大きい」という理由から開幕を決断をした[5]。その後、文部科学省からの要請を受けると、一転してナイターを自粛し開催地を地方球場に変更する可能性があることを示唆した[6]。その後神宮を主会場とする東京六大学・東都の両大学生野球連盟の協力を得て、草薙に球場を変えた4月26日-4月28日の巨人戦以外の4月の主管試合については神宮でのデーゲーム開催が実現(学生野球は午前9時から1試合のみ開催)した。
ファンクラブ
- 年会費
- プレミアム会員15,000円(1500名限定)
- 大人会員5,000円
- 子供会員3,500円(中学3年まで)
- 特典
- プレミアム会員(2000名限定)
- 2007年度
- 自分で背ネームと背番号(当初後ろのみだったが、現在は前と後ろの両方)が決められるホーム用ユニフォーム(通常のレプリカには付いてこないユニデンのマーク付き)
- 2008年度
- 限定ナイキ製プロ選手仕様ジャンパー(プロコレクションでは今後販売しない)
- 2007年度
- 球場特典
- 全会員共通
- 球場で期間中にバッジプレゼント
- 神宮球場開催のオープン戦が会員証提示で無料
- プレミアム会員、大人会員共通
- 5試合の外野自由席無料券(ただしオールスターゲーム、プレーオフ、日本シリーズ、東京ドームのアジアシリーズには適用されない)
- 子供会員(中学3年まで)
- 全試合外野自由席が無料で試合観戦(ただしオールスターゲーム、プレーオフ、日本シリーズ、東京ドームのアジアシリーズには適用されない)
- 全会員共通
- その他特典
- 戸田球場は元々無料である為、誰でも試合観戦は無料である。その他、大田スタジアム、スワローズ主催の地方球場、東京ドーム(ビジター)、神宮球場の東京ヤクルトの2軍戦が無料で試合観戦が可能。
- 東京ドームにある野球体育博物館、福岡ヤフードームにある王貞治ベースボールミュージアムが割引価格で入場可能
- スワローズオンラインショップ及びグッズカタログ通販で購入時に10%割引特典
- オフシーズン、マスターズリーグの試合観戦が当初提示すれば指定席以外内外野自由席が無料で見られたが、観戦割引が適用。
ファンクラブの歴史
- 2007年度のファンクラブ会員にプレミアム会員が誕生
- 2008年度のファンクラブ会員では子供会員以外長年続けていたファンクラブ用の帽子が打ち切りとなった。
ユニフォームの変遷
- 1950年 - 1954年 帽子・アンダーシャツ・レター(胸ロゴ・番号)は濃紺を基調とした(レターは白の縁取り入り。1954年ホーム用除く)。また、上着とパンツは白のものとグレーのものが存在(1952年のフランチャイズ制導入に伴い、白=ホーム・グレー=ビジターの概念生まれる)。
- 1955年 - 1960年 レターから白の縁取りが消える。袖・パンツに線が入る。また、ストッキングに赤が入った。1960年から胸番号が装着され、同時にビジター用の「Tokyo」の書体が変更。帽子マークは「K」。
- 1961年 - 1965年5月 縁取りに赤が使われてストッキングの線が廃止。1963年から「Tokyo」の書体を変更。1965年のみ線がW線となり、国鉄最後のユニフォームとなった。なお帽子マークはこの間、「K」と「S」の組み合わせや「S」など毎年の様に変更されていた。5月10日より、国鉄から産経新聞社へ経営母体が変わり球団名「サンケイスワローズ」に変更されたが、しばらくこのユニフォームが使われた。
- 1965年6月 - 閉幕 先述の経営母体変更に伴い、チームカラーが濃紺・赤から黒・朱色(産経のコーポレートカラー)に変更される。胸ロゴはホームが濃紺・赤→朱・黒縁に色変更、ビジター用は「SANKEI」(朱・黒縁)に変更された。そして、ホーム用の左袖にカタカナで「サンケイ」のロゴ(黒一色)が入り、ビジター用の左袖には「TOKYO」のロゴが入る(時期により、朱・黒縁、黒・朱縁のロゴが存在した)。帽子マークは国鉄時代最末期の「S」をそのまま使用。
- 1966年 - 1968年 球団名がサンケイアトムズとなり、レターのスペルが全て小文字(斜体文字)の「atoms」が登場。チームカラーが赤と青に変更され、アンダーシャツ・ストッキングも青に変更される。夏からビジター用も全て小文字(同じく斜体文字)の「sankei」となる(それまでは「SANKEI」)。帽子は青地で飾り紐が付き、マークは赤で「a」。背番号も斜体文字が採用される。左袖には『鉄腕アトム』のキャラクター・ワッペンが付く。斜体文字フォントは亀倉雄策が作成(以来、フォント自体は1993年のユニフォームまで残る)。人気ブランド「VAN」が作成。
- 1969年 - 1970年 チーム名がニックネームのみの「アトムズ」(アトムズは1969年のみ、この年からヤクルト本社と業務提携。翌1970年、ヤクルトが正式に親会社となり「ヤクルトアトムズ」となる)になり、レターは赤に白の縁取り・線が赤と白と青の組み合わせとなる。背番号の上に選手名が入る。帽子のマークが「a」から「Ya」(「Y」は赤、「a」はライトブルー)に変更。ホーム用の左袖に「Yakult」のマーク(文字の両脇をコバルトグリーンの左カッコと赤の右カッコで囲ったもの)が入る。
- ビジター用はスカイブルー地。胸ロゴが「Yakult」となる(サンケイ時代と同じフォント。以来、配色を変えながらも1993年までこのロゴを使用)。
- シーズン途中からレターが濃紺色に変更。
- 1971年 - 1973年 三原脩監督就任により、読売ジャイアンツと同じ黒とオレンジを基調としたものへと大幅変更される。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黒、胸ロゴ・背番号・胸番号・選手名が黒にオレンジの縁取り。左袖の「鉄腕アトム」のキャラクター・ワッペンが廃止され「atoms」のマークになり、帽子のマークがYとAを重ねた形になる(色は白)。
- ビジター用はグレー地になる。
- 1974年 - 1977年 スワローズの愛称が復活し、球団名が「ヤクルトスワローズ」となる。同時に荒川博監督就任に伴い、ニット素材の丸首ブルオーバー・ベルトレスになり、基本色が濃紺と赤へ変更。背中の選手名が消え、番号フォントはゴシック体になる。
- 帽子、アンダーシャツ、ストッキングは紺、帽子のマークはYとSとを繋げた白になり、帽子のツバは赤。
- ホーム用は、2005年までの31年間に渡り使われた赤のストライプを採用、「Swallows」ロゴは1965年までのものがそのまま採用。ロゴ・背番号・胸番号は濃紺地に赤の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・赤・濃紺の線。
- ビジター用は、スカイブルー地に白のストライプ。ロゴ・背番号・胸番号は赤地に濃紺の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・白・濃紺の線が入る。
- 帽子、アンダーシャツ、ストッキングは紺、帽子のマークはYとSとを繋げた白になり、帽子のツバは赤。
- 1978年 - 1989年 基本デザインが当時のアトランタ・ブレーブスを意識したものに変更され、これまでの濃紺・赤から青・赤になり、帽子が青一色になる。さらに首、袖、パンツの線が赤一色、赤のVネックに、ベルトが赤になる。背番号の上には1973年以来の選手名が復活、背番号・胸番号の書体がオリジナルの角文字フォントに変わる。胸ロゴ・背番号は青に赤・白の縁取りになり、胸番号の縁取りは消える。また、スパイクの色が赤地に白線となる。
- 1990年 - 1998年 野村克也監督就任により、パンツの線・胸ロゴ・背番号の赤白の縁取りが消え、二桁の選手の背番号の間隔がやや狭くなる。
- ホーム用は、マイナーチェンジ。赤ストライプ、Vネックの幅がやや細くなる。
- ビジター用は大きく変更。光の加減でストライプに見える「シャドゥ・ストライプ」を採用。1977年のストライプメッシュ地のユニフォームを製造したデサント社の技術により実現。胸ロゴ・背番号には白いシャドゥがつき、シャドゥ・ストライプと併せてサッカーのユニフォームを意識したものになる。首、袖のラインは青・白・青となり、胸番号と左袖の「Swallows」ロゴが赤色になる。
- 1999年 - 2005年 若松勉監督就任に伴い、ホーム用が9年ぶりモデルチェンジ。青から紺に戻る。ホーム、ビジター用共ボタン式になり、背番号・選手名の書体が中日ドラゴンズに続いて、メジャー・リーグで採用されているタイプになる。左袖は「つば九郎」から「ボールと燕」を組み合わせたオリジナルエンブレムに変更(1999年のみ、球団創設50周年エンブレム)。
- ホーム用は首周りのラインが消え、赤ストライプがさらに細くなり、幅も狭くなる。
- ビジター用は、提携していたクリーブランド・インディアンスのロード用のデザインを踏襲したものに変更される。
- 1999年夏場からビジター用(紺ユニフォーム)のアンダーシャツ、キャップのツバが赤くなる。2000年には紺に戻るが、一時ビジター用でまた赤が採用される。赤いアンダーシャツ、キャップのツバは2002年に廃止された。2001年に1試合だけ若松監督のゲン担ぎでホームの試合(白ユニフォームとの組み合わせ)で使ったのが最後である。なお最後に着た先発投手は入来智元投手であり、対巨人戦だったが負け試合だった。ただし、2005年までユニフォームの登録はしていた模様[3]。
- ビジター用は、本来1998年から導入される予定だったが、前年日本一になったことからゲン担ぎのために当時の監督・野村克也が導入を止めさせた。
- 2006年 - 2008年 古田敦也選手兼任監督就任、球団あげての観客増員プロジェクト「F-PROJECT」の一環として、「BEAMS」が手がける。ホーム、ビジター共基本色は変わらないが、首周りと袖に赤線が入り、肩から袖・パンツの腰から足首にかけて細くなる太線が入る。ホーム・ビジター共に右肩に「Tokyo」のロゴが入り、さらに選手名の書体が変わり、背番号・胸番号の書体が角が丸い角型に変わる。
- ホーム用は、1974年より32年間採用されていた赤ストライプが消える。胸ロゴに赤・白・水色の縁取りが入る。Tokyoロゴは青色で、左袖のエンブレムの下に赤色のYakultロゴが配される。
- ビジター用は、背番号が赤地に白縁取りだったものが、白一色になる。Tokyoロゴは赤色、左袖のエンブレム下には白色でSwallowsロゴが入る。
- 2009年 - ヤクルト球団設立40周年を記念し、3年ぶりにホーム、ビジターのデザインを一新した(デザインは引き続きBEAMSによる)。選手名と背番号の書体が変更され、選手名は直線状に並ぶ。ワンポイントとして一番上のボタンのみ、赤色を使用(他はユニホーム同色の白)。スパイクは白から紺に変更。左袖はエンブレムからつば九郎とは異なるツバメの顔のイラストに変更。左右袖の「Tokyo」「Yakult(ホーム用)」「Swallows(ビジター用)」は赤色に統一。ホーム用はゼット製、ビジター用はミズノ製。なお、2009年のみ右胸部分に球団設立40周年記念ロゴが入っている。
- ホーム用は2006年使用モデルを基本に、太線を赤、ロゴマークを白基調、赤と紺の縁取りに変更。
- ビジター用はライトグレー地を基調に、太線の配置をホーム用とほぼ同じとしている。
限定版ユニフォーム
- 2008年3月31日、5月の神宮球場主催試合などで、『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』と題し、アトムズを名乗った1969年のビジターユニフォームを復刻(この時から袖に「Yakult」のロゴが入る)し、全一軍選手が着て試合に臨むことが発表され、手塚治虫の生誕80周年記念事業として、彼の個人事務所手塚プロダクション協賛で行われた。対象となるのは5月3-5日の対読売ジャイアンツ戦、9-11日の対広島東洋カープ戦、13-15日の対中日ドラゴンズ戦の神宮球場ホームゲーム3カード9試合と、交流戦開幕シリーズの5月21-22日の対埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)のビジターゲーム1カード2試合。なお、西武ドームでの対西武戦では、同じく手塚プロのレオとの共演となる[7]。
- 帽子・アンダーシャツの色は、2008年時点のチームカラー・濃紺になっており、必ずしも当時と同じものではない。
- 2009年 ホーム用交流戦ユニホームは、国鉄が1951年、本拠地構想があったとも言われている武蔵野グリーンパーク野球場開場当初だけ使った燕ロゴのユニホームが採用されている(背番号上の選手名のローマ字表記はない)。また、帽子の「S」マークはこのユニホームでは使われなかった、1960年代前半のマークをモチーフとしていた。
- 2010年 8月にセ・リーグが主催する「オールドユニホームシリーズ」で1994年〜98年仕様のユニホームを使用。なおセ・リーグ6球団中唯一、ホーム用・ビジター用それぞれを用意していた。
スポンサー
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニホームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。スワローズでは2005年まで掲載していなかったが、2006年のユニデンから広告が入る。
現在
- ユニフォーム左胸
- ゼット(2009年-2011年度オフィシャルサプライヤー契約)
- ヘルメット
- タフマン(ヤクルト本社、2011年度途中より)
- ユニフォーム腰部
- ミルミル(ヤクルト本社、2010年度より、2010-2011年度途中までヘルメットにも表示)
過去
歴代監督
- 1950年 - 1953年 : 西垣徳雄
- 1954年 - 1955年 : 藤田宗一
- 1956年 - 1960年 : 宇野光雄
- 1961年 - 1962年 : 砂押邦信(第1次)
- 1963年 : 浜崎真二
- 1964年 - 1965年 : 林義一
- 1965年 : 砂押邦信(第2次)※1
- 1966年 - 1967年 : 飯田徳治 ※2
- 1968年 - 1970年 : 別所毅彦 ※3 ※4
- 1970年 : 小川善治
- 1971年 - 1973年 : 三原脩
- 1974年 - 1976年 : 荒川博 ※5
- 1976年 - 1979年 : 広岡達朗 ※6
- 1980年 - 1984年 : 武上四郎 ※7
- 1984年 - 1986年 : 土橋正幸
- 1987年 - 1989年 : 関根潤三
- 1990年 - 1998年 : 野村克也
- 1999年 - 2005年 : 若松勉
- 2006年 - 2007年 : 古田敦也(選手兼任) ※8
- 2008年 - 2010年 : 高田繁 ※9
- 2011年 - : 小川淳司
※太字は優勝達成監督
- ※1 ここからサンケイスワローズ
- ※2 ここからサンケイアトムズ
- ※3 ここからアトムズ
- ※4 ここからヤクルトアトムズ
- ※5 ここからヤクルトスワローズ
- ※6 1979年は8月17日まで指揮、残り試合は佐藤孝夫が代行
- ※7 1984年は4月26日まで指揮、5月22日までは中西太が代行
- ※8 ここから東京ヤクルトスワローズ
- ※9 2010年は5月26日まで指揮、残り試合は小川淳司が代行
永久欠番
球団として公認された永久欠番は無い。欠番的な背番号には以下のものがある。 生え抜きで、かつ対象者が推薦が必要とされる。
- 1:若松勉
- 27:古田敦也
- 2007年限りで引退した古田の功績を称え、球団は同年10月11日に「27」を“名誉番号”とすると発表。「実績を積んだ捕手だけが使用できる番号」で、生え抜き・移籍を問わず着用に相応しい選手が現れるまでは欠番となる。 なお、2009年に横浜ベイスターズからフリーエージェントで移籍した相川亮二に打診したが、辞退された。古田敦也の前には、根来広光(1958年〜1966年)→加藤俊夫(1967年〜1970年)→大矢明彦(1971年〜1985年)と、1958年から1985年まで歴代の国鉄→サンケイ→ヤクルトの正捕手が着けていた(1986年から1989年の途中までは空き番だったが、1989年の途中から投手のロン・デービスが着用)。
歴代の球団歌・応援歌
- アトムズ〜ヤクルトアトムズ時代
- ヤクルトスワローズ〜東京ヤクルトスワローズ時代
- とびだせヤクルトスワローズ(歌:松岡弘) - 球団公式応援歌。
- 新とびだせヤクルトスワローズ(大洋ホエールズが横浜ベイスターズにチーム名を改めたのに伴い、関連する箇所の歌詞を変更したヴァージョン)
- とびだせ東京ヤクルトスワローズ - 新とびだせヤクルトスワローズの「ヤクルトスワローズ」の部分の歌詞に「東京」を加えた替え歌
- スワローズ賛歌(歌:坂上二郎)
- ビクトリーロード(歌:ILYS(アイリス)) - 神宮球場で勝った場合、最後に場内で流す曲。1980年代頃と、2000年前後に流されていた。現在は使われていない。1978年9月発売。
- ディスコ翔べスワローズ! - 1979年5月発売。当時のディスコブームに乗って発売された。
- スワローズ音頭 - 1983年4月発売。坂上二郎はじめ、荒木大輔・松岡弘・梶間健一・尾花高夫・大矢明彦・角富士夫・大杉勝男・若松勉らのスワローズ選手がコーラスを務めている。
- 君こそヒーロー - 「スワローズ・ビクトリー・マーチ」。球場では、ドリマトーンの演奏で使われたが、実際の曲は優勝セレモニーなど特別な場合以外は流されなかった。2006年以降、応援団によって四死球による出塁・盗塁成功時などのテーマとして使われている。
- 青春のダイヤモンド - スワローズの球団歌。
- ラッキー・セブンの歌 - 1995年9月1日発売。
- We Are The Swallows - 2009年 ヤクルト球団創設40周年を記念し、新しい応援ソングとして制作。作詞・作曲は林田健司。2009年より応援団によって安打による出塁のテーマとして使われている。
主なキャンプ地
- 沖縄県浦添市民球場(一軍春季キャンプ)
- 神宮球場
- 愛媛県松山坊っちゃんスタジアム(秋季キャンプ)
- 宮崎県西都原運動公園野球場(二軍春季キャンプ)
キーワード
フジサンケイグループ
1963年に国鉄球団と業務提携を結んだフジテレビジョンは、当時後楽園球場のテレビ放映権が日本テレビ放送網しか与えられていなかった[注 13]ため、当時東映フライヤーズがメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。
国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共にフジサンケイグループの企業。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した(以降、スタッフ社員も代替わりし、スタッフはほとんどフジサンケイグループの者が取り仕切り、資金面、管理はヤクルト本社系統、チームの運営等はフジサンケイ系統からヤクルト球団に転入したもので構成されているという)。
これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・ニッポン放送も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなったが、しかしながらそのニッポン放送は1979年以来横浜ベイスターズ(旧:大洋球団)の株式を保有し、同一企業とそのグループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっているが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあいTBSが筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーの楽天が、横浜ベイスターズのオーナー(約70%保有)のTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示している。
尚、フジテレビONE(フジテレビジョンのCS衛星放送)では、これまでの対巨人戦の地上波とのトップ&リレーナイターに加え、2005年から巨人戦以外の主催ゲーム全62試合(セ・パ交流戦18試合含む)を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』という題でCS衛星放送独占中継することになった。それ以前の1998年-2004年までは、当時フジテレビが資本参加していたスカイスポーツ→Jスカイスポーツ→J SPORTSで、フジテレビ・ニッポン放送とその関連法人である八峯テレビとの協力を得て、前述の巨人戦を除くヤクルト主管の全試合を「スカイ・スタジアム→Jスカイ・スタジアム→J SPORTS STADIUM野球好き」にて放送していた。
試合球到着遅延事件
サンケイアトムズ時代の1967年10月9日、横浜公園平和野球場[注 14]で行われた対中日戦ダブルヘッダーでの出来事。試合で使う予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受け、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。
その為公式記録員がセ・リーグの鈴木龍二会長に連絡を取ったところ、鈴木は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」と指示を出したものの、中日側はこれを拒否。結果的には公式球の到着を待って37分遅れで試合が始まった。当時セ・リーグのアグリーメントでは「ダブルヘッダーで試合を行う場合、第1試合は日没5時間前までに開始しなくてはならない」と定められていたことから、中日の西沢道夫監督は「このままでは第2試合は中止になってしまうのではないか」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。
初優勝決定の日
1978年10月4日、ヤクルトは地元・神宮で対中日戦を行った。ヤクルトの応援席のライト側外野席には「国鉄スワローズ→サンケイアトムズ→ヤクルトスワローズ初優勝!! 29年間のご支援ありがとう」という旨の横断幕が既に試合前から掲揚された。そして圧倒的な9-0のリードで迎えた9回1アウト1塁から谷沢健一の打球がセカンドゴロからのゲッツーとなり、念願の地元胴上げで初優勝を達成した。
決定の瞬間、選手らが1塁ベンチから飛び出して広岡達朗監督を胴上げすると、興奮の余りに客席からグラウンドに飛び出したファンからも祝福の胴上げや拍手をし、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。この模様はフジテレビから全国に放送された。
更にバックスクリーンのスコアボードにもセ・リーグ参加の他5チームに対するお礼のコメントを書いた垂れ幕が掲げられた。
- 読売ジャイアンツ「セ・リーグの繁栄を今日まで築いてくれた伝統の巨人軍ありがとう」
- 阪神タイガース「熱心な浪速気質の声援に大きな刺激を受けました。阪神球団ありがとう」
- 中日ドラゴンズ「ナゴヤ野球のしぶとさがやっと神宮に育ちました。中日球団ありがとう」
- 広島東洋カープ「赤ヘル軍団の活躍が初優勝のよき刺激になりました。広島球団ありがとう」
- 横浜大洋ホエールズ「新球場(横浜スタジアム)進出でセ・リーグのイメージが一段と上がりました。大洋球団ありがとう」
阪神はその年、球団創設初の最下位だった。この前年までセ・リーグ6球団中、最下位シーズンの経験がなかったのは阪神だけであり、1950年のわずか1年で消滅した西日本パイレーツ以外の全セ・リーグ球団が優勝と最下位を経験したことになる。
背番号17番
背番号17番は、スワローズのエースナンバーとして受け継がれている。現在までの着用者は以下の6名。
ロケットボーイズ
2人のリリーフ投手五十嵐亮太と石井弘寿のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158km/hの直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名を轟かせている。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募で決められた。
もともとリリーフエースの高津臣吾へ繋ぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津がFAでシカゴ・ホワイトソックスに移籍したことで2004年から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板して球団新記録となる42セーブポイントを挙げ、最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障とアテネオリンピック出場でチームを離れることが多かったが、後半戦での登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。
社会人野球大会出場
2005年、スワローズの2軍は社会人野球の公式戦の一つ「JABA日立市長杯争奪大会」に初出場した。社会人野球の大会にプロの2軍チームが出場するのは広島東洋カープがJABA広島大会に2002年から毎年恒常的に参加しているのと、2003年に福岡ダイエーホークスが1年限りでJABA九州大会に参加したが、それに次ぐ3例目である。チームは同年4月の大会で沖縄電力、明治安田生命、日立製作所と4チームによる総当り方式の予選リーグ戦を行ったが、1勝1敗1分けの成績で予選通過はならなかった。
2006年、スワローズ2軍は再び日立大会に参加。予選リーグではJR東日本東北、東京ガス、住友金属鹿島と同ブロックに振り分けられ、2勝1敗のブロック1位で予選を突破。決勝トーナメントに進出したが、同大会で優勝した富士重工業に1-6で完敗し、またも優勝を逃している。
2008年、2年ぶりに日立大会に参戦。予選リーグ初戦で鷺宮製作所に敗れるも、東海理化、日立製作所に連勝してブロック1位として決勝トーナメントに進出した。準決勝では日本通運と対戦したが、タイブレークが適用される延長戦で敗れて4強に終わっている。
2009年、予選リーグ初戦で住友金属鹿島に完敗したが、その後TDK、三菱重工横浜を零封し、ワイルドカード(予選リーグ2位チームのうち最高成績)で決勝トーナメントに進出した。準決勝では富士重工業に1-5で敗れ、参加した3大会連続で4強に終わった。
2010年、予選リーグでJR東日本東北、三菱自動車岡崎、東京ガスに3連勝し、大会出場5回目にして初めて予選リーグ全勝の成績を残したが、リーグ中雨天で2日順延となったことから、決勝トーナメントとイースタンリーグ公式戦の日程が重複した。スワローズは決勝トーナメント出場権を辞退し、予選リーグ2位の三菱自動車岡崎が決勝トーナメントに進出した。
F-Projectとヤクルトタウン
2005年秋に古田敦也が監督に就任し、日本プロ球界では29年ぶりとなる選手兼任監督が誕生した。日本プロ野球選手会の会長でもあった古田は、かねてから「ファンにとって、プロ野球をもっと身近な存在にしたい」という想いが強く、2004年の球界再編問題で自ら奔走した経験から、その想いをより強くした。そこで監督就任と共にファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「F-Project」の活動を同年11月1日に開始した。
F-Projectの「F」はFuruta(古田)の他、プロジェクトが目指すFan(ファン)、Fun(楽しむ)、Full(満員の球場)の3つの言葉を表しており「よりファンと選手・チームの距離を身近なものにして、本拠地の明治神宮野球場をスワローズファンで満員にし、且つ単に応援するだけでなく、ファン自らチームに参加してもらい、共に楽しみを分かち合いたい」という願いが込められていた。プロジェクトには古田の他、ヤクルト球団職員、外部からもカカクコム社長の穐田誉輝(当時。現相談役)や芸能・放送関係者を招聘し、IT産業やマスメディアを巻き込んだ球団の多角的経営を目指すことを打ち出した。同年11月23日に神宮で行われたファン感謝デーに合わせて、球団モバイルサイトのURLのQRコードが刷り込まれた名刺が作成され、当日は古田自らファンにこの名刺を配布するパフォーマンスが繰り広げられた。さらに、都内の企業ともオフィシャルパートナーシップを締結し、カカクコムの他、家電製造業のユニデンとも契約した(2006年からホーム用ユニフォーム左胸部分にロゴマークを掲出)。また、都民参加型のチームを作るという観点から東京都民銀行ともスポンサー契約を締結した。
さらに古田は球団に対し、当時の球団名「ヤクルトスワローズ」に「東京」を冠し、地域密着をアピールすることを提案した。古田は1990年代半ばから契約更改交渉の席などで球団幹部に対し「球団名に都市名か地域名を入れることはできないか」と提案を続けてきたものの実現には至らなかったが、球団もF-Projectの立ち上げを機に協力することを決定。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」と変更した(同年12月19日のプロ野球実行委員会で承認)。なお、球団名に「東京」を冠していた球団は過去に例があり、戦前の東京巨人軍、東京セネタース、大東京軍(いずれも消滅)、戦後の東京オリオンズの4球団。東京オリオンズは1969年を最後に「ロッテ」に改称したが、東京ヤクルトはそれ以来37年ぶりに「東京」を冠する球団となった。また、これを機に神宮球場がある明治神宮外苑周辺の新宿区、港区、渋谷区の3つの特別区をホームタウンと位置づけ、「スワローズタウン(ヤクルトタウン)」と銘打って地域密着活動を行う方針も決定した。もっとも、ヤクルト本社や全国のヤクルトの販売会社からは「東京偏重」と反対意見が出たという[8]。
このF-Projectが立ち上げられた背景には、ヤクルトの主催公式戦の観客動員数が慢性的に減少していたという事実がある。14年ぶりのリーグ優勝を果たした1992年には2,477,000人を集めたが、以後は徐々に減少。2005年から動員数は実数発表となったが、同年は130万人台にとどまった。本拠地の神宮球場ではスワローズファンの来場者減少が顕著な一方で、巨人の本拠地である東京ドームと比較してチケットが取りやすいことからビジター球団のファンの来場者が多く、ビジター側のファンがスワローズファンの数を上回ることがしばしばある。特に対巨人戦や対阪神戦ではビジター側の三塁・左翼側だけにとどまらず、あぶれた観客がホーム側の一塁・右翼側に入場するケースも多い。こうした現状に対し、選手会長の宮本慎也は「かなり複雑な気分。観客数が多くても自分たちを応援してくれる人が少ないのは寂しい」、五十嵐亮太も「神宮はヤクルトの本拠地だが、阪神ファンの方が多い」(実際神宮球場近隣には、阪神タイガースのグッズショップが存在している)と語るなど、選手の間からも現状を憂える声が挙がっており、スワローズのファン層を拡大し、来場者を増やすことが求められていた。
また、神宮球場でのデーゲーム開催数を増やす方針も打ち出された。神宮球場は学生野球(東京六大学野球連盟、東都大学野球連盟)公式戦のスケジュールが優先されているため、ヤクルト主催公式戦は4月初旬の週末を除き、ほとんどがナイター開催となっていた。だが2005年から球団は学生野球側と積極的に折衝を行うようになり、デーゲームの開催数が増加。学生野球がシーズンオフになっている6月にもデーゲームが開催されるようになった。さらにF-Projectの活動開始に伴って折衝が行われた結果、2006年には東都リーグに割り当てられていた5月3日・5月4日のデーゲーム枠を取得(代わって東都はナイター開催)、集客力の高いゴールデンウイークのデーゲーム開催を実現した(神宮球場の使用権については明治神宮野球場#優先使用権も併せて参照)。
この他、都内を本拠とする他のプロスポーツチームとの提携も積極的に進め、2006年7月にはJリーグのFC東京と「東京のスポーツ振興」に共同で取り組むと発表。双方のファンの取り込みを目指した共同キャンペーンなどを展開している。また、同年9月にはbjリーグの東京アパッチとも提携を結んだ。2009年からはヤクルト球団・FC東京・大井競馬場による3者共同キャンペーンも行なっている。
なお古田の引退・監督辞任により、F-Projectは2007年シーズンをもって活動を終えたが、球団は2008年以降もファンサービスの改善に取り組む意向を示しており、F-Projectで行われていた日替わりのデーイベントは同年以降も継続して実施している。
主な活動
- 2006年 - プロジェクト初年度は「チームとファンの新しい関係」をテーマに、ファンに親しまれる球団をアピールする活動を行った。
- 2007年 - 2年目は「ファンによる、ファンのための神宮」がテーマ。前年はファンの来場回数増加など一定の成果を挙げたが、ファンから寄せられた意見を反映して、より楽しめる環境づくりを目指した。
主な企画
- 応援メッセージボードデー
- 紙・または布に選手への応援メッセージを書いてもらう(手持ちのみ可。所定サイズあり)。
- 仮装応援デー
- ファンにコスプレをして応援してもらう。その出来栄えを審査し、優勝者に黄金の傘をプレゼント(傘振りコンテストという東京音頭などに乗って傘を持って応援する技術を競うコンテストもあり(優勝者には黄金傘のプレセントあり))。
- メガネデー
- 古田監督がメガネをトレードマークにしていることや、イワキ (メガネ)とCMキャラクター契約を結んでいる(古田のメガネはイワキの「アイメトリクス」)ことなどもあって企画されたものである。この日は球団関係者(選手含む)は皆メガネをかけて会場入りする。ファンもメガネ(伊達メガネもOK)をかけ、面白いものを審査して賞品をプレゼントする企画もある。詳細は古田敦也#野球に関する話題も併せて参照。
明治神宮外苑創建80年記念奉納試合
明治神宮外苑創建80年を記念して、2006年11月4日に東京六大学選抜とスワローズのアマ・プロ交流試合が実施された。「この一戦、球界史上初」と銘打たれたこの試合は、シーズンオフにも関わらず23,010人の観衆を集め、東京六大学合同応援団とスワローズ私設応援団とのエール交換など普段見られないシーンもあって盛り上がりを見せた。試合はスワローズが3-2と接戦を辛うじて制し、プロの意地を見せた。なお、記念試合は1度のみの予定であるが、古田監督は継続実施を希望するコメントを出しており、今後も継続して行われる可能性もある。
ベンチはクラブハウス位置の関係でスワローズが1塁側、代わりに東京六大学選抜が後攻となった。通常内野席に陣取る東京六大学の応援団も、この日は外野席での応援だった。スワローズのメンバーは、帰国済みの外国人選手とFA移籍を控えた岩村明憲が欠場したものの、出場選手はほぼ一軍に在籍した選手が出場している。なお、同日に東京ドームで実施されていた日米野球のメンバーに選ばれていた青木宣親が、早稲田大学出身ともあってこの試合に出場し、その後ナイター開催の日米野球にも出場するダブルヘッダーをこなした。
セ・リーグ1試合最多タイホームラン
2007年7月11日の対広島東洋カープ戦で、両チーム12本(ヤクルト8本、広島4本)のホームランを放ち、延長11回参考記録ではあるが1試合の合計本塁打数のセ・リーグ最多タイ記録を樹立した。また、1試合8チーム本塁打はスワローズの球団新記録である。試合は延長11回、ラミレスのサヨナラホームランでスワローズが12-10で勝利した。なお、この日は強い南風が吹いており、出場した宮本慎也等が「バックスクリーンから外野方向へのいわゆる『ホームラン風』がこの結果に影響した」と後に証言している。
11打数連続安打(ギネス世界記録に認定)
ヤクルトは2009年6月14日の対オリックス・バファローズ4回戦(京セラドーム大阪)の5回表、プロ野球新記録となる11打数連続安打を含む打者15人の猛攻で10点を挙げた。
2-2の同点で迎えたこの回、先頭の青木宣親が中前安打したのを皮切りに、アーロン・ガイエル、飯原誉士の連打で勝ち越しに成功。さらに宮本慎也の三塁線への犠打が内野安打となり、その後田中浩康まで9者連続で単打を放って計6点を挙げ、通算8回目となる1イニング最多連続打席安打のプロ野球タイ記録(9者連続)に並んだ。さらに再び打席が回った青木の四球を挟んで、続くガイエルが満塁本塁打を放ち、この段階で千葉ロッテマリーンズが3日前の同年6月11日に達成するなど、過去3回記録された1イニング最多連続打数安打のタイ記録(10打数連続)に並んだ後、飯原が二塁打を放って記録を11に更新した[注 15]。試合はヤクルトが計20安打を放ち、乱打戦の末に14-10で勝利した。またヤクルトは過去、1998年4月22日の対中日ドラゴンズ戦(明治神宮野球場)の1回裏にも1イニング10打数連続安打を達成しており(前述のタイ記録3回のうち2回目の達成)、NPB史上初めて1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したチームとなった。
6月16日、神宮での対ロッテ戦が中止となった際に行われたチーム全体練習で、1本目を放った青木が取材を受けた折、好調の相手打線について問われ「ロッテのマリンガン打線には負けませんよ。こっちは世界一。ツバメのギネス打線です。打ち勝ちますよ」と答えたのをきっかけに、ギネス・ワールド・レコーズ社の関係者がこれに着目し、調査した結果「MLBでも達成されていない、価値のある記録」としてヤクルト球団関係者に記録申請を勧めた。球団内部には当初「記録は破られるもの」など申請に消極的な意見もあったが、選手側から「なかなかできない記録だし、ぜひとも名前を残したい」と強い要望が寄せられたことから協議した結果、6月29日に申請を決定。7月13日付けでギネス世界記録に認定された。7月15日の対読売ジャイアンツ10回戦(神宮)の試合前に認定証の贈呈式が執り行われ、ナインはその時使ったバットを持って記念撮影に臨んだ。因みに当日の試合は青木が不振から先発を外れたものの、ヤクルトは奇しくも記録達成時と同じ20安打を放って巨人を圧倒し、13-7で快勝した。
なお前述の通り、ヤクルトはこの記録達成と同時に四死球を挟まない1イニング最多連続打席安打のタイ記録も達成しているが、こちらは翌2010年6月7日、千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズが共に10者連続安打を放って更新している。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ヤクルト | 2 | 0 | 0 | 0 | 10 | 1 | 1 | 0 | 0 | 14 |
| オリックス | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 | 2 | 10 |
5回表の詳細
| 打席 | 打者 | 結果 | 得点 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 青木宣親 | 中前安打 | ||
| 2 | ガイエル | 中前安打 | ||
| 3 | 飯原誉士 | 左前安打 | 1 | |
| 4 | 宮本慎也 | 投前安打 | ||
| 5 | デントナ | 左前安打 | 2 | |
| 6 | 相川亮二 | 左前安打 | 1 | |
| 7 | 川島慶三 | 左前安打 | ||
| 8 | 武内晋一 | 一塁安打 | 1 | |
| 9 | 田中浩康 | 中前安打 | 1 | 川島慶三は三本間で走塁死 |
| 10 | 青木宣親 | 四球 | ||
| 11 | ガイエル | 右越満塁本塁打 | 4 | |
| 12 | 飯原誉士 | 中越二塁打 | ||
| 13 | 宮本慎也 | 一邪飛 | ||
| 14 | デントナ | 四球 | ||
| 15 | 相川亮二 | 一直 |
本拠地移転に関するエピソード
後楽園球場から神宮球場移転の経緯
詳細は「明治神宮野球場#国鉄 - サンケイ - ヤクルトの本拠地」を参照
宮城球場移転誘致構想
2004年6月、宮城県の複数の市民団体がヤクルトスワローズを同県仙台市の宮城球場に誘致する活動を開始した。宮城球場は1973年から1977年までの5年間、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)が暫定的に本拠地とするなど多数のプロ公式戦が開催されていたが、近年は老朽化や狭隘化など設備の陳腐化が著しく、県の財政難などもあり改修・改築もままならない状況で、その打開策としてプロ球団を誘致する構想が浮上した。また、ヤクルト球団は神宮球場の使用契約更新を1年毎に行っているが、これが不安定要素であるとして「ヤクルトが本拠地移転を検討している可能性がある」との噂から、活動を活発化した。ただし当時、ヤクルト球団はその旨の意思表示は全く行っておらず、飽く迄も東京に本拠地を置き続けながら、空白地帯だった東北地方の仙台でも定期的に主催試合を行い、サブフランチャイズとして市場開拓する意向があったと一部夕刊紙等で報じられた。団体は非公式ながら署名などの誘致活動を行い「5年後を目途に誘致したい」という意向を見せていたが、直後にオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併問題に端を発する再編騒動が勃発し、その後は宮城県を保護地域とする新規参入球団の構想が浮上した事で、同県のヤクルト誘致構想はそれに引き継がれる形で消滅した。宮城県の球団誘致は、東北楽天ゴールデンイーグルスとして実現している。
新潟県・市による誘致構想
2009年9月から、新潟県と新潟市がNPB球団の本拠地、もしくは年間10試合以上の主催ゲームを開催する「準本拠地」の誘致活動を水面下で開始した。同年7月1日に開場した新潟県立野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)が、NPB関係者から設備面で高い評価を得たことが背景にある。2010年1月には「原則として球団を特定せずにNPB12球団を対象とし、拠点の一つとして年間数試合を開催する『準フランチャイズ』としての球団招致」という方向性が決まり、3月24日に県・市・県内財界関係者などから成る「プロ野球新潟招致委員会」が発足。当面は公式戦の開催数増加を目指し、その上で準本拠地を招致し、最終的には本拠地招致を目標として段階的に誘致活動を実施することになり、NPBとセ・パ12球団に対し働きかけを進めることになった。一部報道では、ある関係者がセ球団の誘致候補としてヤクルトの名を挙げていたが[注 16]、前述の通り現段階の方針はNPB全球団に対する活動が中心であり、県・市側からもヤクルト球団など各球団個別に対する公式な意思表示は行っていない(2010年9月現在)。
なお、新潟県は毎年9月に神宮球場でのヤクルト公式戦で日替わりのデーイベント「うまさぎっしり新潟Day」を開催しており、当日は泉田裕彦新潟県知事が観光PRを行っている他、始球式にも登板している。前述の経緯から泉田は2009年以降、新潟Day開催の折にヤクルト球団幹部に新潟での公式戦開催を要請しているが、球団側は2年連続で態度を留保している。
スワローズ戦の放送権事情
地上波ナイター中継での放送事情の歴史
※デーゲーム地上波中継は時々、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京、NHK、ビジターでTBSで放送される為、ここではヤクルト対巨人戦以外での地上波ナイター中継のみ表示する。
- 1953年 日本テレビが巨人主催試合と同じく放送権を保有。
- 1964年 国鉄スワローズからサンケイスワローズに改称し、球場も後楽園球場から神宮球場に変更した為、日本テレビから放送権が外れる(現在日テレはヤクルト球団と無関係の東京六大学野球中継と日米野球等のイベント時のみ神宮球場から中継することがある)。
- 1964年 フジテレビ、テレビ朝日、TBS、NHKでの放送権が拡大された。対巨人戦の全国中継を主体に放送。それまでは後楽園以外の主催ゲームを僅かに放送する程度だった。
- 1967年 東京12ch(現・テレビ東京)で地上波放送を開始。巨人戦以外が中心。当初はフジテレビに制作を委託し、その後自社制作に移行した。
- 1976年 TBSが放送権から外れる。
- 1978年 優勝マジック1になりかかった時に地上波放送が多くなる。
- 1981年 - 2001年 巨人戦以外の中継はテレビ朝日が放送時間延長なしで年数回全国ネットで実施した。時折西武ライオンズ主催ゲームとの二元中継も実施した。フジテレビは巨人戦以外は対戦相手の地元局向けの技術協力と、地方球場での週末のデーゲーム中継が主体となる。
- 1992年 サンテレビで神宮球場での対阪神戦ビジター放送開始。
- 1992年 優勝マジック1になりかかった時に12年ぶりに放送が見直され、フジテレビでは初めて番組を差し替えて放送。
- 1995年 東京MXテレビが開局し放送される事が期待されたが、神宮球場の対中日戦のみ中継が開始されるにとどまる(現在に至るまでヤクルト戦中継は年間数試合ほどしか放送しない)。
- 1997年 優勝マジック1になりかかった時の放送では『ダウンタウンのごっつええ感じ』を差し替えて放送し、スペシャル放送を1週遅れにした事による出演者とスタッフとの対立により、打ち切りに追いやった伝説がある。
- 2001年 東京MXテレビがサンテレビの阪神戦を取り扱う様になり、時々甲子園球場と大阪ドームでの中継で放送される様になる。
- 2001年10月4日 『世にも奇妙な物語』を中断して神宮球場での対阪神戦を緊急野球中継として生放送したが、引き分けに終わる。10月6日にはドラマ再放送枠を打ち切って放送された。
- 2003年 日テレ系列で放送中の広島市民球場での広島対巨人戦が雨でノーゲームとなり、残りの時間は甲子園球場で阪神対ヤクルト戦を放送した。
- 2003年9月11日 当時、放送権を対横浜戦しか取り扱わなくなっていたtvkで神宮球場の対阪神戦(サンテレビ製作)をネットした。
- 2005年 巨人戦の視聴率不振により、ヤクルト戦がCS送りになり、初めてフジテレビ地上波で深夜放送される。なおBSフジは未放送。
- 2006年 巨人戦の視聴率不振により、テレビ朝日でも東京ヤクルト戦の放送分がBS朝日に鞍替え放送が多くなった。
- 2007年 巨人戦の視聴率不振により、その中でも巨人戦中継を増やす考えを持っていたテレビ東京にも放映権が渡された。テレビ東京でヤクルト主催試合放送は久しぶりの事となった。(オープン戦・裏送りは除く)
- 2007年10月7日 古田敦也引退試合の模様を『新報道プレミアAスペシャル』内で放送(ただしアナウンサーとのからみなし)。
BS局での放送事情の歴史
- 2000年12月1日にBSフジが開局し翌年シーズンから開始。しかし横浜戦だけ優先させられ打ち切りとなり2002年〜2007年までの6年間、2006年のオールスター中継以外BSフジでは未放送だった。また、BS朝日とBSジャパンも開局したが、BS朝日はテレビ朝日の東京ヤクルト戦が放送できない場合はナイター中継をカバーをするが、BS朝日、BSジャパンは巨人戦以外の東京ヤクルト戦ナイター中継は1度も放送していない(セ・パ交流戦を含む)。
- 2006年当初テレビ朝日で放送予定だったヤクルト対巨人戦を急遽BS朝日で放送するという措置を取った。
- 2008年8月19日BSフジにて2001年の日本シリーズ以来(2006年のオールスター戦を除く)7年ぶりに神宮球場での東京ヤクルト主催の野球中継を放送、なお対巨人戦をBSフジ開局以来初中継を行う、なおCS放送フジテレビONE・フジテレビNEXTと同じ実況・解説陣を起用し、映像もCS放送の映像を19時〜20時55分まで中継(8月20日、9月6日、10月10日、10月11日も中継を行う)。
- 2008年10月10日、BSフジにてレギュラーシーズンの東京ヤクルト主催の野球中継初の延長放送を行う。ちなみに地上波では中継されず、BSフジとフジテレビONEのみによる巨人優勝決定試合を中継し、神宮球場内でパブリックビューイングで流されたTBSニュースバードの横浜対阪神戦の映像を一部流した。
CS局での放送事情の歴史
- 1996年パーフェクTV開局、しかし、放送数が少なかった。
- 1996年ディレクTV開局、パーフェクトチョイスで神宮球場の中継のみ一部テレビ神奈川運営の横浜ベイサイドTVでの放送があるものの、全試合放送カバーされる。ただし地上波とは違って有料放送。
- 1998年ディレクTVとパーフェクTVが合併し、スカパーが開局。ホーム&ビジター含め全試合視聴可能になる。
- 2002年CS日本開局により、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦が時々見られなくなる現象が起る。
- 2004年CS日本がスカパー2と合併し、スカパー!110(後のe2byスカパー!、現スカパー!e2)が誕生。G+がスカパーでも放送開始した為、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦が時々見られなくなる現象が解消される。
- 2005年フジテレビONEが巨人戦を除く主催全試合を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』として全試合放送する。2007年からは対読売ジャイアンツ戦を「プロ野球中継」枠で放送、2008年からはSWALLOWS BASEBALL L!VE枠で放送。また、2008年4月放送分からはフジテレビNEXTでもハイビジョン放送となる(F1が優先されるため、一部試合は従来通りONEのみ放送)
- 2007年9月27日、jsportsの編成が間に合わなかった為、e2byスカパープロモ100chとスカパーパーフェクトチョイスのスペシャル放送として広島市民球場の対東京ヤクルト戦のビジター中継を無料放送。
- 2007年9月30日、27日と同上、jsportsの編成が間に合わなかった為とjsportsでは1度もダブルヘッダーの中継をした事がない為、e2byスカパープロモ100chとスカパーパーフェクトチョイスのスペシャル放送として横浜スタジアムの対東京ヤクルト戦のビジター中継のダブルヘッダーを無料放送する予定だったが、9月30日の中継が雨で中止になり、予備日に放送される事となった為、10月8日と9日に分割され、ナイターで放送された。なお、10月9日が古田敦也の最後の出場試合となった。
関連書籍
- 交通新聞社新書「国鉄スワローズ 1950-1964 400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団」(堀哲 ISBN 978-4-330-15610-1)
関連項目
注釈
- ^ 現実にはこの1992年にヤクルトが優勝している(巨人は2位)。巨人の最下位も1975年に現実化している。
- ^ 日本記録は南海ホークス時代の1978年から福岡ダイエーホークス時代の1993年にかけて記録した16年連続
- ^ 優勝チームとしてのワースト記録。セ・リーグでは1950年から1991年までの42年間、シーズン中に8連敗以上を記録したチームが優勝したことはなかった。
- ^ ただし、MXテレビの親会社・東京新聞の関係で対中日戦のみ。
- ^ 国鉄の紋章「動輪に桐」に由来。球団設立当初はユニフォームの袖章にも使われた。
- ^ 1978年〜1979年に在籍したデイヴ・ヒルトンの本塁打を出迎える写真がベースボール・マガジン社に残っている(参考:「ベースボールマガジン1994年秋季号 一冊まるごと大特集 プロ野球の華 本塁打がすごい!」 - 23ページに写真掲載)。また、1979年12月発行の漫画単行本「がんばれ!!タブチくん!!」第3巻でツバメのマスコットがホームランを打った選手を出迎えるシーンの描かれた作品が掲載されている。
- ^ 元々若松勉の応援歌として使われていたものであり、青木が背番号1を継承した2010年より応援も継承した。
- ^ 1983年・巨人、1985年・阪神、1986年・広島、1988年・中日、1990年・巨人。
- ^ 1988年はナゴヤ球場で、1999年は神宮球場で、2003年は阪神甲子園球場での対広島戦で、この時のヤクルトの対戦相手は横浜ベイスターズである。
- ^ これとは別に、巨人主管の2試合(当初1試合だったが、宇都宮清原球場での1試合が球場施設損壊のため会場変更になった)が郡山総合運動場開成山野球場で行われ、福島県で3試合開催
- ^ 草薙の4月の3連戦のものは東日本大震災による関東地方(東京電力営業地域)のナイター開催自粛に伴う代替
- ^ 本来、2009年は秋田こまちスタジアムでの2連戦開催が計画されたが、こまちスタジアムでは全国高等学校野球選手権秋田大会の開催と重複するため開催できず、その振り替えとして福島で1試合、もう1試合は神宮で開催。
- ^ 1978年の日本シリーズ・阪急戦のヤクルト主管4試合も学生野球の都合で後楽園だったが、この時は後楽園開催の条件として日テレに1試合だけ(第2試合)放送権を譲渡することが盛り込まれていた。それ以外の3試合はフジテレビから放送された
- ^ 当時神宮球場で日中に大学野球が開催されており、それを優先させたため。当時、消化試合の多くはデーゲームだったこともあり、アトムズ・スワローズ主催試合の一部は横浜や、川崎球場<当時大洋ホエールズ本拠地>等を間借りして行ったことがあった。
- ^ 「1イニング連続打数安打」は、NPBでは四死球を挟む場合のみを連続記録として認めており、打数には含まれないが打者アウトとなる犠打・犠飛を挟む場合は参考記録となる。後者の例として1999年6月30日、横浜ベイスターズが対広島東洋カープ11回戦(富山市民)の5回裏に11打数連続安打を達成しているが、このケースでは犠飛が含まれるため参考記録として扱われている。
- ^ 2010年1月21日付・朝日新聞新潟版より。同紙上ではヤクルトの他、福岡ソフトバンクホークスも招致候補とされている。
脚注
- ^ 小野俊哉 2005年3月30日 データでは図れないヤクルトの強さ(1/2)ープロ野球12球団の戦力データ分析・ヤクルト編
- ^ 高田監督の休養について 東京ヤクルトスワローズ 2010年5月26日付
- ^ a b 綱島理友 『プロ野球ユニフォーム物語』 ベースボール・マガジン社、2005年3月。ISBN 9784583038070。OCLC 69245565。
- ^ sirguiel@ツバメ軍団(2009年7月17日) ツバメ軍団日誌!:7/16 東京音頭の前奏
- ^ ヤクルトに抗議電話殺到 セ開幕決定一夜明け デイリー 2011年3月18日
- ^ ナイター自粛…神宮のヤクルトは地方開催も スポニチ 2011年3月22日
- ^ 「ヤクルト、アトムズユニホームを復刻」 日刊スポーツ・2008年3月31日閲覧。
- ^ ヤクルト“転地”より“人” 新潟がプロ野球の球団誘致 2009.09.10付ZAKZAK
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