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東京湾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東京湾(とうきょうわん)は、日本関東地方にある、太平洋に開けたである。

現代行政上、広義では、千葉県館山市洲埼から神奈川県三浦市剱崎まで引いた線および陸岸によって囲まれた海域を指す[1]

江戸時代の前までは単に内海(うちつうみ)などと呼ばれており、江戸時代には江戸城の目の前に開けている(実際は、湾の最奥部に築城した)ことなどから江戸前、あるいは、従来どおりに呼ばれていた。なお、江戸湾(えどわん)という呼称は文献にほとんど出てこない。現在の呼称は、明治時代になって江戸東京と改称されたのに伴って、その後に定着したものと考えられる。詳しくは節「呼称」と別項「江戸前」を参照のこと。

目次

呼称

ファイル:Tsukada Island in the Musashi province.jpg
葛飾北斎名所絵揃物『冨嶽三十六景』の内「武陽 佃嶌」
江戸時代後期、廻船で賑わう江戸前佃島(現・東京都中央区)より、遥か富士山を望む。

この湾の呼称について、一般に「東京湾」の旧称とされている「江戸湾(えどわん)」などの「江戸」を冠した呼称は、徳川家康が当地域の拠点として江戸城を築いた17世紀以後のものと考えられ、「江戸湾」の使用時期については江戸時代後期以後と言われている[2]。それ以前の東京湾は、単に「内海(うちつうみ)」もしくは「内湾」と呼ばれていたようであるが、同時に「内海」という言葉は古代中世期に江戸湾の北東に存在していた香取海(古くは「古鬼怒湾」とも。現在は消滅)に対しても用いられているため、現代では古代以前の東京湾のことを「古東京湾」や「奥東京湾」、中世から近世までの湾を「江戸湾」「江戸内海」などと呼称する場合が多い[2]。なお、江戸後期から明治前期の記録文献類に登場する現在の東京湾に相当する湾の名称のほとんどが「内海」となっていることから、江戸時代を通じて「江戸湾」という名称は存在せず、明治になって「内海」から「東京湾」に改称されたとする説もある[2]

地理

基本データ

国際エメックスセンターによる、東京湾の基本データ(2009年時)[1]

概説

ファイル:Tokyobay area.png
東京湾の範囲
ピンク色の範囲が狭義の東京湾であり、それに水色の範囲(浦賀水道)を加えたものが広義の東京湾である。ピンク色の海域は比較的浅いが、水色の海域には急激に深い「海底谷」がある。

狭義には三浦半島観音崎房総半島富津岬を結んだ線の北側(図のピンク色の範囲)、広義には三浦半島の剱崎と房総半島の洲崎を結んだ線より北側、すなわち浦賀水道(図の水色の範囲)を含んだ海域を指す。狭義の海域について気象庁の津波予報区としては「東京湾内湾」と称する[3][1]。 狭義の東京湾の面積は922 km²。広義の面積は、1,320 km² である。千葉県東京都神奈川県に面する。

多摩川鶴見川荒川江戸川などが注いでいるが、湾口が狭く外海との海水の交換は行われにくい。そのためたびたびプランクトンの異常発生である赤潮が発生してきた。外海に面している浦賀水道の水質は良く、加えて黒潮の影響を受けるため温かい水を好む南方系の魚やサンゴも生息している。特に、夏には沖縄近海で見られるような魚(死滅回遊魚)の姿を見ることも出来る。湾内には、明治・大正期に造られた海堡(かいほ)を始め、多くの人工島がある。対して、自然島は現在横須賀市沖の猿島のみ。

元々遠浅で砂地の海岸が多かったため、各所で埋め立てが進められてきた。埋立地の大部分は、工業地帯もしくはベッドタウンとして利用されている。現在残されている自然の砂浜は、千葉県の木更津以南のみとなっている。横浜港東京港千葉港川崎港横須賀港木更津港があり、横須賀港には米軍横須賀基地海上自衛隊横須賀地方隊の基地がある。京浜工業地帯京葉工業地域は、加工貿易で国を富ませてきた日本の心臓部である。バブル景気の頃から、オフィス街臨海副都心幕張新都心)も開発され、バブル崩壊後は、超高層マンションの建設ラッシュや大型ショッピングセンターの新規オープンなどが相次ぐ。

東京湾海底谷

東京湾内の水深は比較的浅く富津岬沖には「中の洲」と呼ばれる台地が広がる。一方、水深が浅いのは観音崎の北までで隣接する久里浜の南沖の海底は急激に深くなっており、水深500m以上に達する海底谷が認められている[4]。海底谷は相模トラフに合流する。この「東京海底谷」には河川を通じて東京湾に流れ込んだ有機物が沈殿しており栄養が豊富な深海という特異な環境が、東京(江戸)の都市化とともに形成されてきた。そのためメガマウスミツクリザメなど世界的に希少な深海魚が捕獲されることがある[5]

歴史

今から6000年前の縄文時代、日本では縄文海進と呼ばれる海水面の上昇があり、海水面は現在より13mほど高かった。東京湾は現在の群馬県栃木県に至るほどに広域であった。この頃の東京湾を指して奥東京湾と呼ぶ。また、12万年前にはさらに海水面が高く、房総半島は島であった。この頃の内海を指して古東京湾と呼ぶ。 また、2万年前頃をピークに、現在より100m近く水位が低かった時代もある。この氷河期には観音崎付近以北迄が陸地となっており、今の東京湾をなす海域の中央やや西寄りを利根川(利根川は江戸期初期迄中川筋、以降明治迄は江戸川筋が本流)、多摩川入間川(江戸期迄荒川綾瀬川筋で越谷で利根川に合流)等の現在東京湾に注ぐ川を集めて古東京川が流れていた。現在でも水深30 - 80mの海底にその蛇行する痕跡を見ることが出来る。

ファイル:Kuniyoshi Utagawa, View of Mt Fuji 2.jpg
一勇斎国芳(歌川国芳)の名所絵揃物『東都富士見三十六景』の内「佃沖 晴天の不二
江戸時代末期、江戸前佃島沖にて漁師が行う網漁の様子を描いた一図。

かつては武蔵国下総国の間は広大な低湿地帯で通行に適さなかったため日本書紀古事記ヤマトタケルが、また律令時代東海道相模国三浦半島より湾を渡って上総国房総半島へ至っている。鎌倉時代にも交通路として利用されていた資料が残る。中世には海賊衆も活動し、戦国時代には後北条氏里見氏水軍の争いの舞台にもなった。

江戸時代には菱垣廻船樽廻船などの和船による水運が行われ、後期には外国船来航に対する湾岸防備のために品川沖に台場が築かれている。

長らく鎖国状態にあったが、黒船来航の後に日米修好通商条約が結ばれた結果横浜港が開港された。

1945年昭和20年)9月2日には、東京湾(浦賀水道の城ヶ島と館山の間あたり)に停泊中のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」甲板上で連合国各国代表が見守る中、日本政府代表が降伏文書に署名して第二次世界大戦が終結している。

環境保全

沿岸地域や流入河川の流域における都市化・工業化の進展に伴い、環境汚染が問題となっている。

干潟再生

沿岸の埋め立てに伴い干潟面積は大きく減少しているが、海水の浄化作用があること、海生生物や野鳥の生息に欠かせない自然環境であることから、残された天然の干潟に対する保護運動が起きている。現在東京湾に残る干潟は以下の通り。

干潟は東京湾に生息するスズキやタイ、貝類など日本固有種で漁業価値の高い魚介類の稚魚の生息地となっており、これを保護・拡張することは環境面のみならず東京湾の漁業や観光(遊魚事業)などの事業価値を高めることにもつながるため、その価値は大変高いものである。

家庭排水対策

近年、東京湾に流入する家庭排水とくに米のとぎ汁の直接的な流出による海底面の被覆による魚介類の死滅が大変問題になっている。下水処理場の処理能力は降雨でのオーバーフロー時にはゼロとなるため、家庭排水が直接流出することが原因と考えられている。対策としては下水と雨水の分流工事や、すでに事業者サイドで米とぎ作業を終えた無洗米の利用などがあげられる。

交通

脚注・出典

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参考文献

  • 盛本昌広 『日本中世の贈与と負担』 校倉書房〈歴史科学叢書〉、1997年9月、275頁。ISBN 978-4-7517-2750-8

関連項目

外部リンク