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松原誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松原 誠
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 埼玉県飯能市
生年月日 1944年1月13日(68歳)
身長
体重
184cm
81kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手
プロ入り 1962年
初出場 1962年4月15日
最終出場 1981年10月20日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴

松原 誠(まつばら まこと、1944年1月13日 - )は、埼玉県飯能市出身の元プロ野球選手内野手)。

目次

経歴

埼玉県立飯能高等学校から1962年大洋ホエールズ捕手として入団。2年目に一塁手へ転向。1966年からレギュラーに定着。1967年三塁手へ転向。

1970年に30本塁打を放ち、この年から8年連続20本塁打以上を記録し長打力のあるスラッガーとして、低迷していたチームの四番として活躍。1971年に一塁手へ再転向。「タコ足」と呼ばれた低い姿勢での捕球も高く評価された。1974年に初めて打率3割をマーク。打撃タイトルには縁がなかったが、永きに渡りチームリーダーとして選手を率いる。1980年には2000本安打達成(後年、横浜スタジアムの右中間スタンドの最前列には、球団で2000本安打の記念プレートが、同じく2000本安打達成の石井琢朗駒田徳広のもの、200勝達成の平松政次のもの、250セーブ達成の佐々木主浩のものと共に飾られている)。

日本プロ野球選手会を社団法人化させ、選手会長として選手の先陣に立ち球団と幾度と無く議論を重ねてきた。しかし、その活動が球団に忌避された為、1981年古賀正明との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。この際、「巨人に移籍しても嬉しくない、大洋で優勝するのが目標だった」と会見で涙した。

1981年、巨人で自身初、唯一のリーグ優勝、日本シリーズ優勝を経験した(その日本ハムとの日本シリーズの第1戦で9回裏に代打で登場、抑えの切り札である江夏豊より本塁打を放つ)。この年限りで現役引退。

引退後は、1982年1984年大洋一軍打撃コーチ。1985年1991年に巨人一軍打撃コーチ。巨人コーチ時代、指導した選手の調子を落としてしまったことから、「壊し屋」と呼ばれたが、実際は周囲が言うほど指導力は悪くないと言われている。ただ、選手個々にあまりにも高い理想を求めてしまったことが選手の混乱を招いたとされている。また1988年「アジアの大砲」と呼ばれ華々しくデビューしながらその後伸び悩んだ呂明賜が松原の指導を批判していたこと(但し呂自身88年の後半から既に伸び悩んでいた)や、当時巨人は投手陣のレベルが非常に高く「投高打低」のチームと見られていたことが打撃コーチとしての評価を下げる一因ともなった。巨人時代に松原の指導を受けた駒田徳広が楽天の打撃コーチに就任する際「理想の打撃コーチ像は松原誠さん」とコメントした。

巨人コーチ時代、1990年5月24日ナゴヤ球場での対中日戦で、バンス・ローへの槙原寛己の危険投球に抗議していた監督の星野仙一に向かい、ベンチから『あそこを狙うのは当り前だろが!!』と野次を飛ばし、星野がそれに激昂、制止する球審を押しのけて巨人ベンチに詰め寄り、乱闘騒ぎとなった。この時、水野雄仁が星野に平手打ちを食らっている。

その後、1993年2000年文化放送tvk野球解説者を経て、2001年に監督に就任した山本浩二に請われ2001年2003年広島東洋カープ一軍チーフ兼打撃コーチ、2004年横浜ベイスターズ一軍ヘッド兼打撃コーチを務めた。広島コーチ時代は監督の身代わりで退場になったこともある。

近年は回数が減ってはいるが、時々文化放送のライオンズナイターの解説を務めている。また同じく時たまtvkのベイスターズナイターでもマイクに向かう(特に年に一度の相模原球場での試合の解説は恒例になっている)

なお、2009年には韓国プロ野球・起亜タイガースの臨時インストラクターをつとめ、日本での春季キャンプだけでなく、シーズン終盤の9月にも韓国に招かれ打者たちを指導した。2010年も前年同様、起亜で春季キャンプやレギュラーシーズン中に臨時インストラクターをつとめた。

プレースタイル・特徴

大洋の中心打者として長く活躍し、優れた記録を残した。しかし、通算300本塁打、2000本安打をマークしていながら、打者三冠タイトルのみならず、ベストナインダイヤモンドグラブ賞その他のタイトル獲得も一度もなく(最多安打は当時はタイトルではない)、タイトルには無縁だった(無冠の帝王も参照)。通算300本塁打以上で打者三冠タイトルの獲得が1度もないのは松原以外には清原和博池山隆寛だけ、通算2000安打以上でベストナイン選出経験がないのは松原と大島康徳の2人だけである。ベストナイン選出が1度もなかったのは全盛期に王貞治がいた為であった。

引退後高校生の息子の練習を見学していて監督に請われバッティング練習をしたところ初球が校舎のガラスを割るホームランになったという(このとき松原は雪駄を履いていた)。

また、「戦前の中河美芳、戦後の松原」と評された股を大きく開いて低い姿勢で送球を受ける「タコ足」と呼ばれた一塁守備も高い評価を受けていた。チームメートで名遊撃手と言われた山下大輔は「みんなは僕のこと名手と言うけど、松原さんにずいぶん助けてもらった。危ないと思ったらとりあえず低く送球すればショートバウンドでも何でも松原さんが拾ってくれた」とその守備を称えている。しかし、ダイヤモンドグラブ賞も王に阻まれ受賞は一度もなかった。

器用な選手で、捕手と遊撃以外のすべての内野ポジションを経験している。オールスターゲームでは全セの一塁は王の定位置だったため、しばしば二塁を守った(公式戦でも二塁手の経験あり)。近年の名球会チームでの野球大会では、野村克也が不参加、もしくは他の捕手や捕手出身選手が現役選手の為、経験を買われて捕手を務めたこともある。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1962 大洋 34353146100700000400121.194.286.226.512
1963 1117171300030000000022.176.176.176.353
1964 78114102122762140711201000147.265.330.392.723
1965 1253383103875192611629333122023511.242.296.374.671
1966 12951647749140322102065633372742546.294.334.432.766
1967 126451409411012801417158562136036515.247.313.418.731
1968 1335655158114324228255861470242066518.278.339.495.834
1969 130546493531252311820467260448214611.254.321.414.735
1970 128515455731281403023285461350267114.281.360.510.870
1971 129520465581141912320465540349534112.245.321.439.760
1972 130546495691342702523674320542044116.271.333.477.809
1973 130538507551412402423778300819145420.278.309.467.777
1974 128535496741572622125083941828122413.317.356.504.860
1975 126526486681362302322883920336014014.280.331.469.800
1976 126522478671382523326685650836304110.289.339.556.895
1977 1295685168714626134276110551345434510.283.344.535.879
1978 129551499701644501625791420939543614.329.382.515.897
1979 12247042855114220131756242033564269.266.328.409.737
1980 1113573403389210111435321011521249.262.295.421.716
1981 巨人 366760314001178000140235.233.303.283.586
通算:20年 21908297757999120954051533135231180825913705873548739217.276.332.465.797
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

  • 最多安打(当時連盟表彰なし):2回(1974年、1978年) ※1994年より表彰

表彰

記録

背番号

  • 38(1962年 - 1964年)
  • 25(1965年 - 1981年)
  • 72(1982年 - 1984年)
  • 76(1985年 - 1988年)
  • 75(1989年 - 1991年)
  • 71(2001年 - 2003年)
  • 99(2004年)

関連情報

現在の出演番組

いずれも横浜戦が主。

関連項目