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柴原洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柴原 洋
ファイル:HAWKS-No1-Hiroshi.Shibahara.JPG
現役時代の柴原(2009年9月5日)
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 福岡県北九州市小倉北区
生年月日 1974年5月23日(38歳)
身長
体重
174cm
75kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1996年 ドラフト3位
初出場 1997年4月5日
最終出場 2011年10月15日
経歴(括弧内は在籍年)

柴原 洋(しばはら ひろし、1974年5月23日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手外野手)。

目次

経歴

プロ入り前

北九州高校時代は「4番・エース」として、3年春の九州大会でベスト8の成績を残した。その後、九州共立大学に進学と同時に野手転向。福岡六大学首位打者を4回、本塁打王を3回、打点王を4回、MVPを2回それぞれ獲得[1]、「福六のイチロー」と称されることもあった。3年秋には三冠王に輝いた。1996年のドラフト3位で福岡ダイエーホークスに入団。当時の背番号は31。

プロ入り後

1998年、新助っ人ライアン・トンプソンを押しのけ中堅手のレギュラーを獲得。打率.314、18盗塁ベストナインに選ばれる。

1999年、打率を落としたものの試合数を増やし、22盗塁を記録。8月19日の対オリックス戦で徳元敏から逆転サヨナラホームランを放つなど、福岡ダイエーホークス初のリーグ優勝・日本一にレギュラーとして貢献。

2000年、プロ入り初めて135試合フル出場し打率.310を記録。リーグ2連覇に貢献し2度目のベストナイン、初のゴールデングラブ賞に選ばれる。この年から小久保裕紀松中信彦城島健司とあわせ「ホークス四天王」と言われる(これは当時のホークスでの1億円プレイヤー4人を指したものでもある)。

2001年、4月29日の対近鉄戦で日本プロ野球タイ記録となる1試合4二塁打。最終的に2年連続の打率3割(.302)、両リーグトップの刺殺補殺数を記録し、2年連続でゴールデングラブ賞に選ばれる。

2002年、調子を落とし打率.269に終わり、2年連続の100三振を記録する。

2003年、:脇腹痛で開幕に間に合わず、1番・センターには打撃改造で復活した村松有人が定着していたため、8番・ライトに回る。しかし腐ることなく存在感を発揮し、自己最高の打率.333、53打点を記録。ダイハード打線の脇を固め、リーグ優勝、日本一に貢献。3度目のゴールデングラブ賞に選ばれた。

2004年秋山幸二(2002年に引退)の永久欠番となる予定であった背番号を1を受け継ぎ、後継者として期待されたが、故障などもあり99試合の出場に終わった。この年から腰痛に悩まされ、不振が続くこととなった。

2005年、決意のシーズンであったが、こだわりを持つ1番・センターの座にはFA移籍してきた大村直之が定着。自らの故障や宮地克彦の活躍もあり、わずか59試合の出場に終わる。

2006年、開幕スタメンは逃したものの、代打として結果を残し4月からはレギュラーに。序盤は好調だったものの、6月から8月まで打率2割そこそこと完全復活とまでは至らなかった。2003年以来となる100試合以上出場、100安打を記録(打率.277)。また通算1000試合出場を達成。FA権も取得したが、行使せずに残留することを表明した。

2007年、2年ぶりの開幕からの6番ライトでスタメン出場を果たす。春先は打率.220前後にとどまるものの、サヨナラ本塁打を放つなど勝負強いバッティングを見せつけ、交流戦にかけては一時打率リーグトップ10にも入った。後半戦は不調な期間もあったが、持ち前の強肩でサヨナラ阻止などの守備での活躍も数多く見せた。4年ぶりに規定打席に到達し、117安打(打率.273)6本塁打40打点。同シーズンはフォームやバットの試行錯誤がかなり見られた。シーズン終了後FA権を保持していたが、行使せずに残留することを表明した。

2008年、開幕の対楽天戦でドミンゴ・グスマンから逆転サヨナラ3ランを打ち、久米勇紀新人開幕勝利をもたらした。開幕戦逆転サヨナラ本塁打は1994年に西武の伊東勤以来でプロ野球史上2人目。開幕戦サヨナラ本塁打も伊東以来で14年ぶり6人目(6本目)。以降「5番・ライト」で活躍したが、前半戦終盤に腰痛を悪化させ、9月9日まで二軍での調整を余儀なくされる。ファン投票で選出されたオールスターゲームも出場を辞退した。

2009年、3年連続となる開幕戦スタメン出場を果たすが、開幕から24打席連続で無安打を記録し、25打席目での初安打以降も不調の状態が続いた。5月8日、故障で離脱していた多村仁志村松有人の昇格に伴って一軍登録を抹消された。その後は持病である腰痛なども伴って、シーズン終了まで一軍に再昇格する事はなく、プロ入り以降最少となる37試合出場に終わった。

2010年、出場機会は69にまで回復したがそのほとんどは先発出場ではなく、代打ホームランを放つなど代打としての出場機会が増加した。また、センター及びレフトを守ることが多かった。

2011年11月8日、自身のブログで引退を表明。現役生活15年もの間、年々回数は減ったものの必ず一軍出場をしていたが、腰痛が持病化して苦しんでいた。11月9日、引退会見を行った。引退後は野球評論家に転身する予定で、「将来はコーチとして戻ってきたい」とも語った[2]。同日付で任意引退選手公示となった。

同年11月19日TVQ九州放送のスポーツ番組『VIVA!SPORTAS』および自身のブログにて、2012年度より同局の野球解説者に就任する事が発表された[3]

プレースタイル

俊足のバッターにありがちな「叩きつけて出塁する」「広角に打ち分ける」というバッティングではなく、ミートポイントを前にして強いライナーを打つバッティングと勝負強さが持ち味である。4度の打率3割を記録する好打者であるが、好不調の波が大きいことが弱点。また、前でボールを捉えるために体の開きが早くなり、左投手の変化球を苦手としている。2001年2002年は徹底的にこの点を攻められ、シーズン100三振を記録してしまった。小柄な体格ながらパンチ力も備えている。

俊足の持ち主で、20代の頃には頻繁に二桁盗塁を記録していた。しかし、30代以降は盗塁数も少なくなり、通算で85盗塁しか記録していない。

守備面では、広い守備範囲と強肩を生かした守備で、3度のゴールデングラブ賞を受賞している。

人物

左投げ左打ちだが、実は幼少よりれっきとした右利きである。左投げをするようになったのは、小学生時代に野球の手ほどきをした実父が「どうせさせるなら投手、しかも手薄な左投げにしてみたい」と洋に左投げをさせたのがきっかけ。すると洋は右投げと遜色のない投球をしたため、以降はずっと左投げで通し、野手転向してからも左投げを続けている。ちなみに足も右利きで、スライディングでも右足が前に出る。

高校時代に1年先輩のたけし軍団お宮の松からセンターのポジションを奪う。そのためお宮の松はレフトコンバートされている。また、高校時代の同級生には山本高広がいる。

大村直之とは大村が大阪近鉄バファローズ在籍中、そして大村がホークスへ加入し外野定位置争いのライバルとなったときも変わらぬ良い仲であった(大村は2008年オフにオリックス・バファローズへ移籍)。

福岡ダイエーホークスから福岡ソフトバンクホークスに変わって、初の本塁打を放った選手である。

1996年のドラフト3位指名で入団した柴原だが、ドラフト1位は井口忠仁、2位が松中信彦だった。また、下位では倉野信次岡本克道などが指名されておりダイエーとしては球団史に残る大成功ドラフトであった。なお、ドラフト時には、大学屈指の強打者として上位指名候補に挙げられる人気選手であり、中日がドラフトぎりぎりまで上位での強行指名を検討したとされるが、最終的に「ダイエー以外なら社会人のローソン(現在は廃部)入りする」と公言した本人の希望が成就した。

2003年の日本シリーズの際、阪神タイガースの本拠地である阪神甲子園球場の印象を聞かれて、「パチンコ屋のようだ。」と答えた。

2007年2月4日投開票の北九州市長選挙のイメージキャラクターを務める。テレビCMでは、福岡Yahoo!JAPANドームのベンチと思われるところからユニフォーム姿で「投票に行こう」と呼びかけている。

幼少時代は西武ファンで、後にチームメイトとなる秋山幸二と当時から西武の主砲だった清原和博に憧れていた。2002年、秋山が現役引退を発表した日の試合でお立ち台に登り、「秋山さんのために今日は何としても勝ちたかった」と涙を浮かべた。

出場試合数と通算安打数を気にしており、2007年10月5日のシーズン最終戦で無安打に終わり、通算成績は1239試合1238安打と出場試合数を安打数が割ってしまったときは非常にショックだったと語っている[1]。最終的に1452試合出場、1382安打と安打数が割った状態で現役を終えた。

プロ入り時、同年にコーチとしてホークスに入団した島田誠(2006年に退団)と、引退までに島田の通算安打数(1504本)を越えるという約束をしていた。だが1382安打で現役を引退したため、島田を越えることはできなかった。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1997 ダイエー
ソフトバンク
6698886141011820150510281.159.204.205.409
1998 111454385541211432147351871454713883.314.389.382.770
1999 1315394646812215451602622111505812863.263.347.345.692
2000 135597520781613267226521091325804916.310.382.435.816
2001 13964458795177352723749876446111024.302.351.404.755
2002 133555509731373324186435521617021016.269.292.365.658
2003 11247942671142260418053112763822609.333.386.423.808
2004 99398358509727171473912672205478.271.316.411.727
2005 592101882350701601501311503291.266.329.319.648
2006 1214143615210016631374863353827679.277.353.380.732
2007 13347242946117283616940131032753755.273.318.394.712
2008 96369339309417031203421312204554.277.328.354.682
2009 371199762021024700301722243.206.247.336.584
2010 6914613492980449201040800226.216.261.366.626
2011 1113130100010000000050.077.077.077.154
通算:15年 145255074898661138226128541861463855211340418153888068.282.341.380.721
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000本安打:2005年5月1日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、7回裏に渡辺俊介から右前安打 ※史上229人目
  • 1000試合出場:2006年4月22日、対オリックス・バファローズ5回戦(大阪ドーム)、5番・右翼手として先発出場 ※史上409人目

背番号

  • 31 (1997年 - 2003年)
  • 1 (2004年 - 2011年)

登場曲

2005年
Def Tech「My way」
2006年
SunSet Swish「マイペース」(序盤)
平井堅「POP STAR」(4月末以降)
2007年
レミオロメン「3月9日」
永田一朗「SPARKLE!」 柴原のためのオリジナル曲
2008年
九州男「1/6000000000 feat.C&K」(序盤)
大橋卓弥「はじまりの歌」(5月以降)
永田一朗「hiro my hero」 柴原のためのオリジナル曲
レミオロメン「もっと遠くへ」(9月以降)
  • 2007年からはオリジナル曲も使用。2007年は「3月9日」、2008年は「1/6000000000 feat.C&K」「はじまりの歌」「もっと遠くへ」と交互で流している。
2009年
ビーグルクルー「Let'sGO!!」(奇数打席)
永田一朗「hiro my hero」 柴原のためのオリジナル曲(偶数打席)

脚注

  1. ^ 福岡6大学野球連盟  歴代表彰選手一覧”. 2011-10-08閲覧。
  2. ^ 鷹・柴原が引退会見「将来はコーチとして」”. SANSPO.COM (2011-11-09). 2011-11-09閲覧。
  3. ^ “TVQの” 柴原洋 OFFICIAL BLOG 2011年11月28日閲覧。

関連項目

外部リンク