栄光の6月1日
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| 栄光の6月1日 | |
|---|---|
| ファイル:Loutherbourg, The Glorious First of June.jpg 「ハウ卿の戦い、または栄光の6月1日」 Philippe-Jacques de Loutherbourg画(1795年) | |
| 戦争:フランス革命戦争 | |
| 年月日:1794年6月1日 | |
| 場所:ウェサン島沖西方400海里の大西洋上 | |
| 結果:イギリスの戦術的勝利、フランスの戦略的成功 | |
| 交戦勢力 | |
| ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg イギリス | ファイル:Flag of France.svg 第一共和政フランス |
| 指揮官 | |
| リチャード・ハウ | ルイ・トマス・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズ |
| 戦力 | |
| 戦列艦 25隻 | 戦列艦 26隻 |
| 損害 | |
| 死傷 1,200名 | 7 隻喪失、死傷 4,000 名、捕虜 3,000 名 |
栄光の6月1日(えいこうの6がつついたち、The Glorious First of June)は1794年6月1日、イギリス(大ブリテン王国)と第一共和政下のフランスとの間で行われた、フランス革命戦争における最初にして最大の海戦。別名第3次ウェサン島の海戦(Third Battle of Ushant)、あるいはフランス語で革命暦2年プレリアル(牧草月)13日の海戦(Bataille du 13 prairial an 2)または単にプレリアルの海戦(Combat de Prairial)という[1]。
目次 |
概要
ハウ提督の率いるイギリス海峡艦隊は、アメリカ合衆国からやってきた、きわめて重要なフランスの穀物輸送船団の通過を阻もうとした。その船団はルイ・トマス・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズが指揮するフランス大西洋艦隊によって護衛されていた。両軍はフランス領のウェサン島の西400海里(約740 km)の大西洋上で激突した。
その戦闘は、1794年5月に、ビスケー湾において縦横に繰り広げられた一連の戦闘のクライマックスだった。それまでは両軍とも多数の商船や小型軍艦を捕獲して、別々の、しかし決定的でない戦いを進めていた。1794年6月1日の戦闘は、両方の艦隊に更なる戦闘を行うことができないような甚大な影響を与えた。両軍ともそれぞれ勝利を主張した。7隻の戦列艦を失ったにもかかわらず、ヴィラレーは穀物輸送船団が安全に目的地に達する十分な時間を稼ぐことができた。しかし一方、イギリス艦隊に以後の封鎖作戦を行う余力を残してしまったことで、彼は艦隊を港に留め置かざるを得ないことになった。
「栄光の6月1日」は、フランス革命戦争開始当時のフランス海軍とイギリス海軍それぞれに固有な大きな問題のいくつかを明らかにした。どちらの海軍の提督たちも、部下の艦長たちの不服従や、乗組員の統制や訓練の不足に直面しており、効率的に艦隊を動かすことができなかった。また両軍とも、兵員と信頼できる士官の不足で苦しんでいた。この戦いの結果は、両国の報道機関によって、それぞれの海軍の能力と勇敢さの輝かしい現われとして称揚された。
背景
1794年のヨーロッパの状況は不安定なままであった。フランス北方海域にあったフランス大西洋艦隊では、食料の配給と賃金支払の遅延が原因となって反乱が発生した。その結果、反逆の決定を受けたを多くの熟練した水兵が、処刑、収監、あるいは解雇されて姿を消し、フランス海軍将校団は、恐怖政治の影響で大いに苦しむこととなった。しかし食料の不足は、海軍の問題にとどまるものではなかった。その前年の社会的な大変動に厳しい冬が重なり、フランス全体が飢えていた。そしてフランスはすべての隣国と戦争状態にあり、新鮮な食料を陸路で輸入する手立てを持たなかった。結局、国民公会で決定された解決策は、フランスの海外植民地で生産される食料をすべてチェサピーク湾に集められる商船隊に船積みし、さらにアメリカ合衆国からも食物と商品を購入するというものだった。1794年4月から5月にかけて、商船隊は護送船団を構成し、フランス大西洋艦隊の護衛の下、ブレストまで大西洋を横断することとなった。
両国艦隊
イギリスとフランス両国の海軍は、1794年時点で非常に異なる段階にあった。数的にはイギリス艦隊が優位に立っていたが、フランス艦はより大きく、より強く、重い砲を備えていた。フランスの1等級艦は三層甲板に110ないし120門の砲を備えていたのに対し、イギリス艦は最大のものでも100門艦であった。しかし、士気や要員配置や規律は、1794年の春では、海軍力にも影響を及ぼしていた。
イギリス海軍
(ジョン・シングルトン・コプリーの絵画のR・ダンカートンによるメゾチント)
1790年のスペイン戦備[2]から3年以上にわたって、イギリス海軍は、海上行動の準備が整った状態にあった。海軍大臣チャールズ・ミドルトンの下の広範囲な準備によって、海軍の造船所はフル稼働し、戦争の準備は整っていた。それは10年前のアメリカ独立戦争のときの失敗から学んだ教訓であった。
1794年の春、フランスの護送船団がヨーロッパ海域に到着するのに対して、ハウは彼の艦隊を3つのグループに分けた。軍艦「ヘクター」のジョージ・モンタギューは6隻の戦列艦と2隻のフリゲートで、東インド、西インド、およびニューファンドランドへ行く護送船団をフィニステレ岬まで護衛する任務を与えられた。軍艦「サフォーク」のピーター・レーニアは、他の6隻を指揮して残りの船団を護衛することになった。3番目の部隊はハウが直率し、26隻の戦列艦と数隻の支援艦から成っていた。彼らは、到着するフランス船団をビスケー湾で待ち受けることになっていた。
フランス海軍
(ジャン=バティスト・ポーリン・グエリン画)
敵国イギリスと対照的に、フランス海軍は混乱のさなかにあった。艦隊の船の品質は高かったが、艦隊の指揮系統は5年前の革命の開始以来フランス全体に及んだものと同じ危機によって切り裂かれていた。従って、船と兵器の質の高さは、それを使用する乗組員の質と全くマッチしておらず、兵員はほとんどが訓練不足で未熟だった。恐怖政治は多くの熟練した水夫と士官の死や追放に帰結し、政治的な理由で任命された士官や徴兵された兵(その多くはまったく海に出たことがなかった)が大西洋艦隊を満たした。
この問題を抱えた艦隊の司令官に新たに任命されたのは、ヴィラレー・ド・ジョワイユーズだった。彼はそれまでは海尉にすぎなかったが、高度な戦術的才能を備えていることを実証していた。しかし、効率的に戦うことの出来る新しい将校団を形成しようとするヴィラレーの試みは、新たに任命されたもう一人の人物に絶えず妨げられた。それは、国民公会が代理として送り込んだジャン=ボン・サン=アンドレという男で、その任務は、艦隊と提督それぞれの、革命への熱意の程を国民公会に直接報告することであった。彼はしばしば戦略の立案や作戦の実行に口を挟んだ[3]。もっとも、こうしたヴィラレーの悩みの一方で、サン=アンドレのパリへの報告は定期的に「ル・モニトゥール(Le Moniteur)」に発表され、国内での海軍の大衆化に大いに役立った。
フランス大西洋艦隊は、1794年の春にはイギリスの大西洋艦隊より分散していた。ピエール・ヴァンスタブル少将は、2隻の戦列艦を含む5隻を率いて、待望久しいアメリカからの穀物輸送船団を迎えるためにアメリカ東部沿岸まで出向いていた。ジョセフ=マリー・ニエリ少将は、5隻の戦列艦と随伴の艦を率いてロシュフォールを出発し、輸送船団との会合のために中部大西洋まで進出した。ヴィラレーは25隻の戦列艦とともにブレストに残り、ハウ提督のイギリス艦隊の脅威と対峙した。
護送船団
1794年の早春、フランスの状況は最悪だった。収穫の失敗とフランス港湾と通商の封鎖とで、飢饉が迫っており、フランス政府は、生きるためには海外に目を向けるしかなかった。アメリカのフランス植民地とアメリカ合衆国の農業力に国民公会は注目し、ヴァンスタブル提督が待つチェサピーク湾のハンプトンローズにおいて大規模な船団を組むように命じた。現代の歴史家ウィリアム・ジェームズによれば、この船団の規模について言われてきた総勢350隻以上という数字は正しくなく、軍艦も含めて117隻であったということである。
その船団にはアメリカ合衆国政府の意向により、アメリカの貨物と船も加わった。それはアメリカ独立革命の時にフランスから受けた財政的、精神的、そしてまた軍事的な支援への返礼であった。これは駐仏大使ガバニーア・モリスの強い進言によるもので、このようにフランス革命を支援することにより、アメリカ政府は10年来の債務を返済したのである。しかし、2国間の友好関係は恐怖政治の残虐さの前に長続きせず、4年後、両国は「擬似戦争」に突入することとなる。
1794年5月
ヴァンスタブルによって護衛されたフランス護送船団は4月2日にバージニアを出発した。そしてハウは5月2日、西方航路(Western Approaches)を行くイギリス船団を護衛しつつ、フランス船団を捕捉するために、全艦隊を率いてポーツマスから出帆した。ヴィラレーがまだブレストにいることを確認したハウは、穀物輸送船団を求めてビスケー湾を捜すことに2週間を費やした。そして、5月18日にブレストに戻り、ヴィラレーが前日に出航したことを知った[4]。ハウは大西洋の奥深くヴィラレーを追跡した。この時、海上にはニエリのフランス艦隊とモンタギューのイギリス艦隊もいて、それぞれ若干の戦果を上げていた。ニエリは何隻かのイギリス商船を捕え、またモンタギューはそのいくつかを奪還していた。ニエリは5月の第2週、大西洋の奥深くで穀物船団に出会った。モンタギューが実りのない南方の捜索を行っている間に、ニエリはそれを護送してヨーロッパに近づいた。
フランス主力艦隊もまた、ハウの追跡にもかかわらず、成果を上げていた。ヴィラレーは初日にオランダ船団と遭遇して20隻を捕獲した。その翌週、ハウはフランスに拿捕されたオランダ船やフランスのコルベットなどを捕獲し、あるいは焼き払いつつ、フランス艦隊を追い続けた。5月25日に、ハウはヴィラレーの艦隊からの落伍者を見つけて追跡した。その艦「オーダシュー(Audacieux)」は、ハウをフランス艦隊の位置へと案内してしまった。5月28日、ハウはヴィラレーを捕捉し、最も速い艦による遊撃戦隊を繰り出して、フランス艦隊の最後尾にいた「レヴォリュシヨネール(Révolutionnaire)」を襲わせた。この1等級艦は6隻のイギリス艦に次々と攻撃され、戦いの最後にはもはや降伏しかないほどの大損害を被った。暗闇が訪れたので、イギリスとフランスの艦隊は離脱したが、「レヴォリュシヨネール」と後のイギリス軍艦「オーダシャス(Audacious)」となる「オーダシュー」は完全に艦隊から切り離され、イギリス艦隊の後方に残された。この2隻はその夜の間にそれぞれの母港に戻った。この段階でヴィラレーは哨戒していたフリゲートから穀物輸送船団が間近にいることを聞いていた。そこで彼は自分の艦隊をあえて西に移動させ、それにつられてハウが極めて重要な輸送船団から離れるように仕向けた。
その目論見に乗ったハウは翌日も攻撃を続けた。しかし、フランス艦隊を2分するという彼の試みは、彼の艦隊の先頭艦である軍艦「シーザー」が命令の遂行に失敗したためにうまくいかなかった。双方ともに大きな損害を被ったが、決定的な戦いとはならず、どちらも勝敗を確認することなく分離した。しかしハウは戦闘の過程で風上側を取ることに成功しており、以後、自分の望むときにヴィラレーを攻撃できる利点を持っていた[5]。3隻のフランス艦が損害のために港に送り返されたが、その損失はニエリが分遣した増援の戦隊が次の日に到着したことで相殺された。続く2日間は濃霧のために戦いは行われなかった。そして1794年6月1日、ついに霧が晴れたとき、両艦隊の戦列の間隔はわずか6マイル(10 km)であり、ハウには決戦の用意が出来ていた。
6月1日
好適な位置にいたハウと異なり、ヴィラレーは夜どおし多忙だった。彼は自分の艦隊をイギリス艦隊から遠ざけようとし、それはある程度成果を上げた。午前5時に夜が明けたとき、彼は十分な風を受ければ2、3時間で水平線の向こうに逃げ込める位置にいた。ハウは部下に朝食を取らせつつ、風に関する有利な立場を存分に利用してヴィラレーに迫った。そして、8時12分には4マイル(6.4 km)まで近づいた。この時、ハウの艦隊はフランス艦隊と平行な1本の戦列を形成しており、数隻のフリゲートが司令官の命令を中継するために従っていた。フランス艦隊も同じ向きの戦列を作っていた。2つの艦隊は9時24分に長距離での発砲を開始した。そのときハウは革新的な戦術を繰り出した。
18世紀の艦隊戦闘においては、敵味方の戦列が長距離から砲火を交わしつつ粛々と並走するのが普通であり、どちらの側にも艦の喪失や捕獲が発生しないことがしばしばだった。しかしハウは、部下の将兵の敢闘精神と、有利な風向きを頼みとしていた。その日の風向きは、フランス艦隊を攻撃するのみならずその戦列を横切ることも可能であった。しかし彼は、28、29両日の遭遇戦のように(そしてロドニーが12年前のセインツの海戦で行ったように)、各艦が前の艦の航跡をたどりつつ、敵艦隊を貫く戦列を形成するという作戦をとるつもりはなかった。その代わりにハウは、列艦のそれぞれが個々にフランス戦列に向かうように命じた。そして、あらゆる箇所でそれを分断し、フランス艦をことごとく艦首尾から縦射しようとした。イギリス艦隊の艦長たちは敵艦の反対舷に回りこみ、風下への逃亡を防いで直接攻撃し、うまくいけばそれぞれを降伏させて、フランス大西洋艦隊を壊滅させることができるはずだった。
イギリス艦隊の戦列突破
しかし信号を発し、旗艦「クイーン・シャーロット」を回頭させてわずか数分、ハウの計画は早くもぐらつき始めた。艦長たちの多くは信号を誤解し、あるいは気付かず、元々の戦列の位置にとどまっていた。また前日までの損害の回復に取り組んでいる艦もあり、十分な素早さで行動に移ることができなかった。結果として形成された陣形は、ヴィラレーの艦隊に対し「クイーン・シャーロット」が不規則に突出した無様なものだった。しかし彼らの接近に対して応えたフランス艦隊の砲撃は、訓練と連携の欠如が明らかなものだった。ハウの命令に従ってフランス艦隊に突撃した艦の多くは、さしたる損害なく近接戦闘を開始した。
前衛部隊
「クイーン・シャーロット」は総帆を張り上げて進んだが、敵の戦列を最初に突破したのは別の艦だった。その栄誉はグレイヴズ提督の前衛戦隊に属するジェームズ・ガンビア艦長(同時代人から「陰気なジミー」とあだ名された、気難しいことで有名な士官)指揮の軍艦「ディフェンス」だった。戦列の7番目にいた「ディフェンス」は、フランス戦列の6隻目「ミュシュース(Mucius)」と7隻目「トゥールヴィル」の間を突破した。両側の敵を攻撃しつつ、「ディフェンス」は他の艦がその後に付いてこられなかったため孤立していることに気づいた。「ディフェンス」は「ミュシュース」、「トゥールヴィル」およびその後続艦を相手に死に物狂いの戦闘を開始した。前衛戦隊でフランスの戦列を突破したのは「ディフェンス」だけではなかった。数分後、軍艦「マールボロ」の艦長ジョージ・クランフィールド=バークレーはハウの指示した艦隊運動を完全に実行し、フランス艦「アンペテュウー」を攻撃し、混戦に持ち込んだ。
残りの艦の成功度合いはさまざまだった。「ベレロフォン」と「レヴァイアサン」には数日前の戦闘での損傷の影響がまだ残っており、敵の戦列を破ることができなかった。その代わり、彼らはそれぞれフランス艦「エオル」および「アメリカ」に接近し、風上舷から近接砲戦に持ち込んだ。「ベレロフォン」に座乗していたトーマス・パスリー少将はその初めの段階で片脚を失った。グレーヴスの旗艦「ロイヤル・サブリン」はあまりうまく戦えなかった。距離の判断を誤ってフランス戦列から遠い位置に占位したため、敵艦「テリブル」から激しい砲火を浴びることとなった。「テリブル」に接近戦を挑めるまでに近づいた時には、「ロイヤル・サブリン」はしたたかに打ちすえられており、グレーヴス提督も重傷を負っていた。
ハウにとってより不本意だったのは「ラッセル」と「シーザー」の行動だった。「ラッセル」の艦長ジョン・ウィレット・ペインは、その時、敵に近付いて組みつくことができず、敵艦「テメレール」から早いうちに帆装に損害を与えられたことで非難された。ただし、「ラッセル」の初動の鈍さについては5月29日に受けた損害にその原因を求める声もある。しかし、「シーザー」のアンソニー・モロイ艦長には弁解の余地はなかった。モロイは敵との交戦義務をすべての点で怠った。彼はハウの信号を全く無視し、イギリス戦列がフランス艦隊に襲いかかっているにもかかわらず、自らが戦列を率いているかのように前進し続けた。「シーザー」はフランスの先頭艦「トラヤン」ととりとめのない砲戦を行っていたが、それがほとんど効果を上げないうちに、「トラヤン」によって帆装に損害を受け、「トラヤン」は引き続き「ベレロフォン」を攻撃した。戦列の先頭では乱戦は発生しなかった。
中央戦隊
両艦隊の中央部の戦闘はイギリス戦列の2つの戦隊によって分かれていた。前半部はベンジャミン・コールドウェル提督とジョージ・ボウヤーの部隊、そして後半部はハウ卿の直率部隊である。「クイーン・シャーロット」座乗のハウがフランス艦隊に迫ったにもかかわらず、前半部の彼の部下の動きは不活発だった。前半の部隊は並走する敵艦に突撃する代わりに、戦列を維持したまま整然とフランス艦隊に接近し遠距離砲戦を行った。その結果、前を行く「ディフェンス」ばかりが敵の攻撃にさらされることになった。この戦隊の全艦のうちトーマス・パケナム艦長の「インヴィンシブル」だけがフランス戦列に接近した。「インヴィンシブル」は大きな損傷を受けながらも自分より大きい敵艦「ジュスト」に攻撃を仕掛けた。ボウヤー指揮の「バーフラー」は遅れて戦闘に加わったが、そのときボウヤーはいなかった。彼は戦いの冒頭で片脚を失っていた。
ハウと「クイーン・シャーロット」は艦隊を率先垂範し、フランスの旗艦「モンターニュ」へと突進した。「モンターニュ」と後続する「ヴァンジュール・ドゥ・プープル」の間を横切ると、「クイーン・シャーロット」は両舷の砲を発射し、さらに近接砲戦を挑むべく「モンターニュ」へと進路を向けた。そうしながら「クイーン・シャーロット」はフランス艦「ジャコバン」とも短い間砲火を交わした。そして両艦ともに重大な損害を与えた。
「クイーン・シャーロット」の右側では「ブランズウィック」が行動開始に手こずっていた。旗艦の真後にいて、艦長ジョン・ハーヴェイはその遅れについてハウから非難を受けた。この非難信号に奮い立ったハーヴェイは一気に艦を前に押し出し、「クイーン・シャーロット」を追い越した。「ブランズウィック」はこれにより「クイーン・シャーロット」の東側のフランス艦隊の視界を遮ることになったため、フランス艦隊の集中砲火を浴びで重大な損傷を被った。ハーヴェイは「ジャコバン」に乗り込んで提督を直接支援しようとしたが、そこに行きつくほど速くなかったため、敵艦「アシレ」と「ヴァンジュール・ドゥ・プープル」の間を横切ろうとした。しかし「ブランズウィック」の錨が「ヴァンジュール」の索具に絡んでこの操作は失敗した。ハーヴェイの航海長は「ヴァンジュール」を切り離す必要があると訴えたが、ハーヴェイは「ノー、我々は乗り込んで奪い取るのだ」と答えた。2隻の艦はあまりに接近していて、「ブランズウィック」の砲門を開けることができず蓋を閉じたままで発砲した。2隻は数フィートの距離でお互いを撃ち合った。
この戦闘と並行して、中央部隊の他の艦はフランス戦列を攻撃した。「ヴァリアント」は逃げようとしているフランス艦「パトリオット」の近くを通過した。「パトリオット」の乗組員は伝染病に苦しんでおり、戦闘に加わることができなかった。「ヴァリアント」はその代わりに「アシレ」に向かい、すでに「クイーン・シャーロット」と「ブランズウィック」の攻撃を受けていた同艦に深刻な打撃を与えて、前衛部隊の戦闘に加わるために前進した。ジョン・トーマス・ダックワース艦長の「オライオン」とアラン・ガードナー提督座乗の「クイーン」は両方とも同じ敵艦を攻撃した。「クイーン」はすでに先行する戦闘でマストに深刻な損傷を受け、ジョン・ハット艦長は致命傷を負っていた。両艦はフランス艦「ノーサンバーランド」に襲いかかった。「ノーサンバーランド」はすぐにマストを失い、マストの根元だけの状態で逃げようとしているままに捨て置かれた。「クイーン」は「オリオン」のように「ノーサンバーランド」に近接するには大きく遅れていたため、すぐに「ジェマップ」に目標を変えた。そして、両艦はお互いに激しい砲火を交わした。
後衛戦隊
イギリスの後衛戦隊のうち、フランス戦列を突破する断固とした行動をとったのはわずか2隻だった。フッド提督の旗艦「ロイヤル・ジョージ」はフランス艦「レプブリカン」と「サン・パレイユ」の間を突破して両艦と近接戦を行い、また「グローリー」は「サン・パレイユ」の後方で戦列を横切って、やはり乱闘に突入した。それ以外の両艦隊の後衛はこの近接戦に参加しなかった。イギリス艦「モンタギュー」は、著戦において艦長ジェームズ・モンタギューを失っており、フランス艦「ネプテューヌ」と遠距離砲戦を行ったがどちらにもさしたる損害は発生しなかった。軍艦「ラミリーズ」は完全に敵を無視し、艦長ヘンリー・ハーヴェイの兄弟が艦長を務める「ブランズウィック」(「クイーン・シャーロット」の傍で混戦に加わっていた)を探して西に移動した。
その他3隻のイギリス艦はいずれもハウの信号に応えられずにいた。「アルフレッド」はフランス戦列と交戦したがあまりに遠距離で効果を上げられなかった。「マジェスティック」のチャールズ・コットン艦長も同様に何も知りことができず、その位置で、すでに撃破された数隻のフランス艦の降伏を受け入れただけだった。アルベマール・バーティ艦長の「サンダラー」はまったく初期の戦闘に参加しなかった。「サンダラー」は戦列からかなり離れた位置におり、敵との近接戦を命じる信号がメインマストからはっきり読み取れなかったため、敵との交戦の機会を逸してしまった。フランス艦隊の後衛部隊は戦闘を避けており、「アントレプレナン」も「ペルティエ」もイギリス艦に撃ちかけてはいたが、近接戦闘や乱戦に入ることはしなかった。フランス戦列最後尾の「シピオン」もまた戦闘に加わろうとしなかったが、「ロイヤル・ジョージ」と「レプブリカン」の周囲の戦闘に巻き込まれ、大きな損傷を被った。
混戦
Lithograph after Meyer
最初の砲戦から1時間のうちに、イギリスとフランスの戦列は絶望的な混戦にもつれ込んでいた。それはお互いに見える範囲内で戦う3つグループに分かれていた。前衛部隊では「シーザー」がついに戦いに加わろうとしたが、「トラヤン」によって重要な円材を吹き飛ばされ、なんら戦いに貢献することなく2艦隊の戦闘の場から脱落した。「ベレロフォン」と「リヴァイアサン」は戦いのただ中にいた。そして多数の敵艦から攻撃された「ベレロフォン」は帆装に重大な損傷を受けた。これは同艦を操作不能で危険な状態に置いたが、「エオル」もまた深刻な被害を受けていた。「ベレロフォン」のウィリアム・ジョンストン・ホープ艦長は自艦を危険な位置から脱出させるため助けを呼んだ。エドワード・ソーンバラ艦長のフリゲート「ラトーナ」が救助に駆け付けた。ソーンバラはフランスの戦列艦の間に自らの小型の艦を持ち込んで「エオル」を砲撃し、3隻の戦列艦の脱出を助けるとともに「ベレロフォン」を曳航して救出した。「レヴァイアサン」艦長のヒュー・シーモア卿は「ベレロフォン」よりもうまく戦っており、通過する「エオル」と「トラヤン」から砲撃を受けつつも「アメリカ」のマストを打倒した。「レヴァイアサン」は2時間の砲戦ののち、11時50分、「アメリカ」をその場に置いて中央戦隊の「クイーン・シャーロット」に加勢するために離脱した。
「ラッセル」はフランス戦列を突破しなかった。対戦相手だったフランス艦「テメレール」はより効果的に戦い、トップマストを打ち倒して、「トラヤン」や「エオル」とともに風上に逃げた。「ラッセル」は通過する数隻のフランス艦に砲撃を加えたのち、フランスの中央戦隊を攻撃する「レヴァイアサン」と行動をともにした。「ラッセル」のボート部隊が拿捕賞金を目当てに「アメリカ」に乗り込み、降服させた(乗り込み隊員は後刻「ロイヤル・サブリン」の兵員と交替した)。「ロイヤル・サブリン」はグレーブス提督を重傷で欠いていたが敵も同様だった。「テリブル」は戦列を風上に抜けて、戦闘の反対側において新たに戦列を形成しつつあるフランス艦隊に向かっていった。ヴィラレーは「クイーン・シャーロット」から一旦逃げた旗艦「モンターニュ」で指揮を執っていたが、次に「ロイヤル・サブリン」と戦うことになった。「モンターニュ」に続く新しいフランス戦列には「ヴァリアント」が追随し、長距離戦を開始した。
「ロイヤル・サブリン」に続いて「マールボロ」もフランス艦「アンペティユー」と近接戦を行い、多大の損害を与えて降伏寸前まで持ち込んだが、砲煙を抜けて「ミュシュース」が現れ、両艦に突入してきたため「アンペティユー」は束の間救われた。3隻の軍艦はもつれたまま数度にわたって砲撃を交わして、多大な死傷者を出し「マールボロ」と「アンペティユー」はすべてのマストを失った。この戦闘は数時間の間続いた。「マールボロ」のバークレー艦長は重傷を負って甲板下に降り、指揮権はジョン・モンクトン海尉が引き継いだ。モンクトンは予備艦のフリゲートの救援を要請し、フリゲート「アキロン」が「マールボロ」を曳航した。そして自由になった「ミュシュース」は再編成されたフランス艦隊に合流するため北に向かった。「アンペティユー」はまったく打ちのめされて動けなくなっていたため、すぐに「ラッセル」の兵によって拿捕された。
「ディフェンス」はマストを失って、どんな敵に対しても戦闘を維持できなくなっていたが、13時には、損害を受けて東から移動してきた「レプブリカン」に脅かされた。「レプブリカン」はしばらくしてヴィラレーに合流するため離れて北へ向かったが、「ディフェンス」のガンビア艦長はフリゲート部隊に援助を要請し、ウィリアム・ベンティンク艦長のフリゲート「フェートン」が駆けつけた。「フェートン」の通過の際に「アンペティユー」が砲撃を加えたがベンティンクは数度の片舷斉射でそれに応えた。前衛戦隊から唯一敵との近接戦に突入した艦「インヴィンシブル」は「クイーン・シャーロット」の周辺の乱戦の中にいた。「インヴィンシブル」は砲撃によって「ジュスト」を「クイーン・シャーロット」の片舷斉射のもとに追いやり、さらにヘンリー・ブラックウッド海尉のボート隊によって降伏に追い込んだ。部隊の他の艦では犠牲者はわずかだった。「インプレグナブル」は数本の帆桁を失ったが、2人の下級士官、ロバート・オトウェイ海尉とチャールズ・ダッシュウッド候補生の素早い反応によって戦列に復帰した。
「クイーン・シャーロット」と「モンターニュ」の旗艦同士の戦闘は、奇妙なことに一方的なものだった。フランスの旗艦「モンターニュ」は下層甲板の砲を使用することができず、圧倒的に大きな損害と犠牲者を出していた。「モンターニュ」が残りの帆を張って、生き残りのフランス艦隊の再集結のために北に脱落した時、「クイーン・シャーロット」は方向転換のときに近くの敵艦から砲火を浴びてそれを追うことができなかった。「クイーン・シャーロット」はまた、トーマス・マッケンジー艦長の僚艦「ジブラルタル」からも砲撃された。「ジブラルタル」は敵と近接戦を行う戦うことに失敗して、その代わりに旗艦を囲んでいる煙の壁に無差別に発砲したのである。「クイーン・シャーロット」のアンドリュー・スネイプ・ダグラス艦長はこの砲撃によって重傷を負った。「モンターニュ」の脱出に続いて、「クイーン・シャーロット」は通過する「ジャコバン」および「レプブリカン」と交戦し、また「ジュスト」を降伏させることに成功した。「クイーン・シャーロット」の東では、「ブランズウィック」と「ヴァンジュール・ドゥ・プープル」が激闘を続けており、お互いに組みついて零距離射撃を繰り返していた。「ブランズウィック」のハーヴェイ艦長は「ヴァンジュール」からの散弾射撃によってこの戦闘の初期に致命傷を負っていたが、甲板を去ることを拒否し、敵を徹底的に砲撃するよう命じた。「ブランズウィック」はまたフランス艦「アシレ」が反対舷から介入しようとしたとき、それを追い払うことに成功した。「アシレ」はすでにマストを失う損害を受けており、ただちに降伏しかけたが、乗組員らは「ブランズウィック」に「アシレ」を確保する余裕がないと知るやただちにこれを撤回した。「アシレ」は再び旗を掲げ、できるかぎり北に進んでヴィラレーに合流しようとした。粉砕された「ヴァンジュール」と「ブランズウィック」が離れたのはようやく12時45分になってのことだった。両艦とも、主たるマストを失い、惨憺たるさまだった。「ブランズウィック」は「ラミリーズ」に助けられてイギリス側に戻るのが精一杯であり、「ヴァンジュール」はまったく動くことができなかった。「ラミリーズ」は短い連続砲撃で「ヴァンジュール」を降伏させたが、乗り込むことができず、その代わりに逃走する「アシレ」を追跡し、同様にすぐに降伏させた。
東部では「オライオン」と「クイーン」がフランス艦「ノーサンバーランド」と「ジェマップ」を降伏させたが、「クイーン」は「ジェマップ」を確保することができなかったため、後に放棄せざるを得なかった。「クイーン」は特にひどく損傷しており、再び戦列に戻ることはできなかったので、他の数隻の粉砕された艦と一緒に、新たに形成されたフランス艦隊とイギリス戦列の中間で波にもまれているしかなかった。「ロイヤル・ジョージ」と「グローリー」は、両艦の間に、激戦の末に行動不能にした「シピオン」を「サン・パレイユ」を確保していたが、彼ら自身ひどく損害を受けていて確保することができなかった。4隻の艦は、両艦隊の間であてもなく漂っていた。
フランス艦隊の逆襲
「モンターニュ」のヴィラレーはイギリスの旗艦の接触からうまく脱して北に退避し、周囲の11隻の戦列艦を集結させて新しい戦列に再編成した。11時30分、主たる戦闘が収束しつつあるときに、彼は彼の艦隊が被った戦術的な敗北を回復するための行動を開始した。新しい戦隊はまず損傷していた「クイーン」に向かった。ヴィラレーの攻撃は、第2次の戦闘の準備ができていなかったイギリス艦隊を驚愕させた。しかし、ヴィラレーの意図を知ったハウもまた艦を集めて新たな部隊を編成した。再編成した戦隊は「クイーン・シャーロット」、「ロイヤル・サブリン」、「ヴァリアント」、「リヴァイアサン」、「バーフラー」および「サンダラー」で構成されていた。ハウは「クイーン」の救援のためにこの戦隊を差し向けた。この2つの小戦隊が交戦を開始するとヴィラレーはそれを取りやめ、マストを失ってイギリス艦の追跡を逃れようと努力していた数隻のフランス艦を集結させようとした。ヴィラレーはまず、打ちのめされながらも拡散したイギリス艦隊をまっすぐ抜けてフランス艦隊に到達した「テリブル」と合流した。そしてさらにマストを失った「シピオン」、「ミュシュース」、「ジェマップ」そして「レプブリカン」を救出した。それらはいずれも交戦していないイギリス艦の手の届く範囲にいたものだった。そして彼は東に回頭してフランスに向かった[6]。戦いのこの段階で70歳のハウは甲板下でさがり、イギリス艦隊の指揮は艦隊先任艦長であるサー・ロジャー・カーティスに委ねられた。カーティスは後日、マストを失ったフランス艦をそれ以上捕獲しなかったことについて海軍の一部から非難され、さらには追跡を思いとどまるよう積極的にハウを説得したとして訴えられた。
P. Ozanneの版画
実際のところ、イギリス艦隊はヴィラレーのわずか11隻の艦隊を追撃することはできなかった。フランス艦と戦うことのできるのは12隻であったし、戦場にはマストを失って確保または捕獲すべき艦が数多く残されていた。イギリス艦隊はそれらを回収し、再編成し、また応急修理を施して、褒賞を確保した。捕獲艦は甚だしい損害を受けた「ヴァンジュール・ドゥ・プープル」を含めて7隻に及んだ。「ヴァンジュール」は「ブランズウィック」の直射により船底に穴をあけられており、また降伏後、イギリス艦からは捕獲員が乗り込んでいなかった。置き去りにされた「ヴァンジュール」の負傷していないわずかな乗組員は全力を尽くして艦を救おうとしていたが、その一部が酒類の保管室に押し入って飲み始めるに及んで、その達成は甚だしく困難になった。最後には船のポンプも使用不能になり、「ヴァンジュール」は沈み始めた。かろうじてそこに無傷だった軍艦「アルフレッド」と「カロドン」のボートおよびカッター「ラトラー」が到着し、「ラトラー」の指揮で沈みゆく「ヴァンジュール」の乗組員を溺死から救った。その数は全艇で500人に上り、「ラトラー」を指揮していたジョン・ウィン海尉はこの危険な仕事について特別に賞賛をうけた。18時15分までに「ヴァンジュール」は艦上に死者と見込みのない負傷者、そして泥酔者を残して救出を終えた。残された水兵たちは沈みゆく船首で三色旗を振り、「祖国万歳、共和国万歳("Vive la Nation, vive la République!")」と叫んだと伝えられている[7]
東に逃げたヴィラレーはちりぢりになった艦隊を集めてフランスに戻れるようにし、また数隻のフリゲートを輸送船団の捜索に振り向けた。ヴィラレーは、ウェサン島沖を哨戒していたピエール=フランソワ・コルニク提督の8隻の戦列艦の増援も望んでいた。彼の後方西側では、イギリス艦隊が彼らの船と捕獲賞金を確保するために夜を徹していた。そして6月2日の午前5時までイギリスに戻ろうとはしなかった。
この戦いの犠牲者数は、特にフランス側の情報の極端な不足のために、正確に計算するのがきわめて困難である[8]。「シピオン」を唯一の例外として、フランスの艦長によって正確な損失が記録されることはなかった。利用可能な唯一の犠牲者数の記録はサン=アンドレの概略報告である。他の記録は捕獲艦に乗り込んだイギリス士官が作ったが、いずれも完全に信頼できるものではない。大部分の資料は一連の戦闘のフランスの犠牲者が約3,000名の不慮を含めておよそ7,000名であるとしている。しかし、これらは漠然としていて、詳細ではしばしば互いに食い違っている。[9]イギリスの犠牲者数は、イギリス艦隊に残された航海日誌から確かめることができるためより簡単だが、ここにも矛盾はある。しかし、イギリスの犠牲者は合計でおおよそ1,200名とされている。
船団の到着
ハウの艦隊は大部分がもはや戦える状態になく、ビスケー湾でのフランス護送船団の捜索を再開することは不可能だった。海軍本部は海戦がおこなわれたことを(ハウの詳細な状況を知らないまでも)軍艦「オーダシャス」のポーツマス到着によって知っており、ジョージ・モンタギューによる第2段階作戦を準備していた。モンタギューは不成功に終わった5月の巡航の後、イングランドに帰国して、ポーツマスで修理と補給を受けつつ海に出る機会を待っていた。10隻の戦列艦からなる彼の艦隊の任務は、ハウのビスケー湾からの撤退を支援するとともに、かつフランスの穀物輸送船団を発見し、攻撃することだった。6月3日に出航したモンタギューは、フランス船団かハウ艦隊をもとめて6月8日にはウェサン島沖に進出した。彼はどちらもまだヨーロッパ沿岸に到達していないことを知らなかった。6月8日の15時30分、モンタギューは帆影を見つけて、すぐに敵であることを確認した。それはコルニクの戦隊であり、同じく輸送船団と帰還する艦隊を探しているものだった。モンタギューはコルニクを追跡してビスケー湾に追い込み、翌日の海戦を期待して一晩中フランス戦隊を封鎖した。しかし6月9日、モンタギューは西方にヴィラレー艦隊の生き残りと思われる19隻のフランス戦列艦を発見した。彼は急いで回頭して、2つの艦隊に挟撃されて圧倒されることを避け、南に避退した。ヴィラレーとコルニクは1日かけてそれを追跡し、その後東に転身して安全なフランスの港を目指した。
ハウはモンタギューの避退によって助けられた。ハウはその疲弊した艦隊を率いてこの6月10日の引き分けの場面の近くを通過したのである。彼はイギリス海峡に向けて北進した。ヴィラレーとコルニクが思いがけず南にモンタギューを追跡している隙に、ハウは苦もなくウェサン島を通過して6月12日にプリマス沖に到着し、そして間もなく、モンタギューと合流した。ヴィラレーとコルニクはその前日Bertheaume湾に錨泊した、しかし、サン=アンドレは共和制に対する市民の態度を確認するまでブレストへの入港を許可しなかった。アメリカからの輸送船団は6月12日についにフランス沖に到着した。喪失は嵐による1隻だけだった。
後日談
イギリスもフランスも、この海戦の勝利を主張した。イギリスは終始戦場の主導権を握りつつ、1隻も失わずにフランス艦7隻を捕獲または撃沈した。フランスは必要不可欠な輸送船団を、重要な損失なく大西洋を通過させフランスに到着させた。2つの艦隊は、それぞれの国において賞賛と批判を浴びることとなった。批判は戦いにあまり貢献したと思われない艦長に向けられたものだった。イギリス艦隊は、スピットヘッドへのジョージ3世国王と全王族の訪問で遇された。
フランスの場合
フランスでは革命による平等の原則から、褒賞は広範囲に排除されていたが、ヴィラレーは中将に昇進し、また艦隊の他の提督にもそれなりの表彰が行われた。それに加えて、艦隊の士官はブレストからパリまで祝賀パレードに参加した。そのパレードには到着したばかりの食物供給も伴っていた。戦いの結果に関するフランス国内の意見は分裂した。多くはサン=アンドレの誇張した「ル・モニテール」の戦果を称えるものだったが、海軍の上級士官はそうではなかった。その一人は、非常に経験豊かであるにもかかわらず最近解雇されたケルゲレン提督だった。ケルグレンはヴィラレーが戦隊を再編成したあと、戦いを再開しなかったことに憤りをおぼえており、ハウの艦隊の残りに戦いを挑んでいれば戦略的成功のみならず戦術的にも大きな成果を収めていただろうと考えていた。フランス海軍はその日、1日の戦闘の損害としては、1692年のラ・オーグの海戦以来最悪の大損害を被ったのだった。
また、当時の革命的な行き過ぎはフランス海軍にとって壊滅的なものであったこともわかった。乏しいリーダーシップ、矛盾した曖昧な命令、そして熟練した水兵の不足は、フランス将校団に消極的な空気を蔓延させた。フランス艦隊は二度と北ヨーロッパにおけるイギリスの優位に挑もうとはしなかったし、彼らが繰り返した掠奪戦も、より自信に満ちたイギリス艦隊と厳しい大西洋の気候によって、結局失敗に終わった。1805年に、最後の大フランス艦隊がトラファルガーの海戦で壊滅したとき、20年前には考えることも出来なかったレベルまでその効率を下げていた。
イギリスの場合
ダニエル・オーム, 1795
イギリス国では多くの栄誉が艦隊とその指揮官に授けられた。ハウはすでに伯爵であり、いかなる昇格も辞退した。ジョージ3世国王は彼をガーター勲爵士に考えたが、ハウの政敵の1人によって思いとどまらされた。グレーブズ提督はアイルランド貴族のグレーブス男爵に叙せられ、フッド提督がブリッドポート子爵となった[10]。下位の提督であるボウヤー、ガードナー、パスリーとカーティスはいずれも准男爵に叙せられ、またボウヤーとパスリーは、重傷を負った補償として1,000ポンドの年金を受けた。すべての艦の副長が海尉艦長に昇進し、その他多くの海尉がその行動の結果として昇進した。戦いに参加した全員に対して議会の感謝が捧げられ、その他さまざまな贈り物と栄誉が艦隊に分配された。戦傷がもとで共に6月30日に亡くなったジョン・ハット艦長とジョン・ハーベイ艦長はウェストミンスター寺院で顕彰された。
しかし、表彰に関する苦々しい出来事もあった。それは戦闘に関するハウの海軍本部への急送公文書に基づくもので、そのうちいくつかの部分は実はカーティスによって書かれたものだった。ハウは、戦いで果たしたその役割が特別褒賞に値すると考えた士官の名前を含む報告書に名簿を追加した。そのリストにはグレーブズ、フッド、ボウヤー、ガードナー、パスリーの各提督と、シーモア、パケナム、クランフィールド=バークレー、ガンビア、ジョン・ハーベイ、ペイン、ヘンリー・ハーベイ、プリングル、ダックワース、エルフィンストーン、ニコルズおよびホープの各艦長が含まれていた。また、モンクトン海尉とダネリー海尉も言及されていた。
このリストには戦いに参加した何人かの士官の名前がなかった。そしてその省略の正当性が海軍内で大きな論争を引き起こした。海軍本部は各艦の航海日誌と戦況報告を精査した後、そのリストに載っていて生存している艦長の数だけメダルを鋳造した(「オーダシャス」のウィリアム・パーカー艦長は別個に認められた)。リストから除外された艦長は憤激し、この選抜を巡る憤懣は何年も続いた。1795年にはコールドウェル提督が「バーフラー」の旗艦艦長であったカスバート・コリンウッドに授与されなかったことに憤激して、「栄光の6月1日」のメダルが彼に授与されるまですべての賞を辞退し、任務も拒否するとした。コリンウッドは結局1797年のサン・ビセンテ岬の海戦の後でそれを受けた。
軍艦「シーザー」艦長のアンソニー・モロイへの中傷攻撃は最も激しかった。モロイは、5月29日と6月1日のハウの命令への不服従について、仲間の士官から臆病の告発を受けた。軍法会議の公式記録から名前を消去するというモロイの要求は認められなかった。そして、彼個人の勇気については問われなかったが、専門能力を問われることとなった。モロイは、罰として艦の指揮権を失い実質的に海軍から解雇された。
捕獲された艦のうちいくつかはイギリス海軍での長い経歴を持つこととなった。特に「サン・パレイユ」はイギリス軍艦「サンス・パレイル(HMS Sans Pareil)」として長く使用された。「ジュスト」(イギリス軍艦「ジャスト(HMS Juste)」)はアミアンの和約によって退役するまで現役にとどまっていた。他の捕獲艦のうち「アシレ」と「ノーサンバーランド」は就役不能としてイギリス到着後すぐに解体された。「アンペティユー」は修理中に造船所の火災で破壊された。最後の「アメリカ」は、イギリス軍艦「インペテューズ(HMS Impetueux)」として就役し、1813年まで現役だった。
6月1日の参戦艦
(戦列艦は戦闘序列順)
- 艦名(原語綴)[砲門数]:死傷者、損傷その他
イギリス艦隊
- 戦列艦
- (前衛戦隊)
- (中央戦隊)
- インプレグナブル(Impregnable)[98]:[14]死7/傷24、マストおよび帆装を損傷
- トレメンダス(Tremendous)[74]:死3/傷8
- バーフラー(Barfleur)[98]:[15]死9/傷25
- インヴィンシブル(Invincible)[74]:死4/傷10
- カローデン(Culloden)[74]:死2/傷5
- ジブラルタル(Gibraltar)[80]:死2/傷12
- クイーン・シャーロット(Queen Charlotte)[100]:[16]死13/傷29、マストおよび帆装を大破
- ブランズウィック(Brunswick)[74]:死45/傷114、ミズンマスト喪失/その他マストおよび帆装を大破
- ヴァリアント(Valiant)[74]:死2/傷9
- オライオン(Orion)[74]:死2/傷24、マストおよび帆装を小破
- クイーン(Queen)[98]:[17]死14/傷40、メンマスト喪失/その他マストおよび帆装を損傷
- フリゲート
- フェートン(Phaeton)[38]:死3/傷5
- ラトーナ(Latona)[38]:
- ナイジャー(Niger)[36]:
- サウサンプトン(Southampton)[36]:
- ヴィーナス(Venus)[36]:
- アキロン(Aquilon)[36]:
- ペガサス(Pegasus)[28]:
- その他
- シャロン(Charon)(病院船)[非武装]:
- コメット(Comet)(火船)[14]:
- インセンディアリー(Incendiary)(火船)[14]:
- キングフィッシャー(Kingfisher)(スループ)[18]:
- ラトラー(Rattler)(カッター)[16]:
- レンジャー(Ranger)(カッター)[16]:
フランス艦隊
- 戦列艦
- トラジャン(Trajan)[74]:損失不明
- エオル(Éole)[74門]:損失不明
- アメリカ(America)[74]:死134/傷110、全マスト喪失・捕獲。捕獲後イギリス軍艦「インペテューズ(Impetueux)」
- テメレール(Téméraire)[74]:損失不明
- テリブル(Terrible)[110]:[19]損失不明、ミズンマスト喪失
- アンペティユー(Impétueux)[74]:死100(含艦長)/傷85、全マスト喪失・捕獲。捕獲後ドックヤードの火災で焼失
- ミュシュース(Mucius)[74]:損失不明、全マスト喪失
- トゥールヴィル(Tourville)[74]:損失不明
- ガスパラン(Gasparin)[74]:損失不明
- コンヴェンシオン(Convention)[74]:損失不明
- トレント・エ・アン・メー(Trente-et-un-Mai)[74]:損失不明、マストおよび帆装大破
- ティラニシード(Tyrannicide)[74]:損失不明、マストおよび帆装大破
- ジュスト(Juste)[80]:死100/傷145、全マスト喪失・捕獲。捕獲後イギリス軍艦「ジャスト(Juste)」
- モンターニュ(Montagne)[118]:[20]死傷300弱
- ジャコバン(Jacobin)[80]:損失不明
- アシレ(Achille)[74]:死36/傷60、全マスト喪失・捕獲。捕獲後廃棄
- ヴァンジュール・ドゥ・プープル(Vengeur du Peuple)[74]:死傷200-600、捕獲されるも損傷大のため沈没処分
- パトロワール(Patriote)[74]:損失不明
- ノーサンバーランド(Northumberland)[74]:死60/傷100、全マスト喪失・捕獲。捕獲後廃棄
- アントレプレナン(Entreprenant)[74]:損失不明
- ジェマップ(Jemmappes)[74]:損失不明、全マスト喪失
- ネプテューヌ(Neptune)[74]:損失不明
- ペルティエ(Pelletier)[74]:損失不明
- レプブリカン(Républicain)[110]:[21]損失不明、全マスト喪失
- サン・パレイユ(Sans Pareil)[80]:死260/傷120、捕獲。捕獲後イギリス軍艦「サンス・パレイル(Sans Pareil)」
- シピオン(Scipion)[80]:死64/傷151、全マスト喪失
- その他
- フリゲート、コルベット、ブリッグ、カッター等16隻
注記
- ^ この海戦は英語でもフランス語でも、その場所でなく日付によって呼ばれる。海戦は、通常その最も近い陸地の名か、付近で特徴的な陸標の名によって名づけられるのが慣わしであるが、この「栄光の6月1日」の場合、最も近い陸地(ウェサン島)からも740 kmも離れており、関連づけられる陸地が存在しないのである。また、英語名とフランス語名の日付の相違は、当時のフランスがフランス革命暦を使用していたためである。「第3次ウェサン島の海戦」という名は、かろうじて最も近い地名を用いたものであるが、ウェサン島付近で行われた海戦がアメリカ独立戦争中に2回あったため「第3次」と呼ばれる。
- ^ "Spanish Armament"。スペインとの開戦を見越して行われた軍備拡張の事
- ^ サン=アンドレは着任の直後、戦闘中に艦の防衛への熱意が不十分であったと認められる士官はすべて、帰国の際に処刑されるべしという命令を出そうと提案した。しかしこの物騒な規則が実行された形跡はない。
- ^ これはヴィラレーのブレスト脱出を促すハウの慎重な戦略の一部であったと言われている。開けた海にヴィラレーを誘導することにより、ハウは、よく訓練され、戦術面でも優勢な艦隊によってフランス艦隊を撃破できるからである。そして以後長い間、フランス大西洋艦隊の脅威を除くことができるのである。
- ^ 帆船時代の海戦においては風上を取ることは決定的な意味を持つ。帆走軍艦が攻撃の主導権を握るためには適切な風量と風向を必要とするからである。帆船は風が不適当な方向から吹いていても、帆の開きを変えることで針路を調節することができる。しかし、風上に位置するということは、複雑な帆の操作をすることなく、風を利して直接敵を攻撃することができるということを意味するのである。
- ^ これらの艦のいくつかは旗を降ろすことによって降伏の意思を示していたが、危険から脱したと見るや再びそれを掲揚した。これは当時の海戦慣習の重大な違反であり、イギリスの海軍当局はこれを非難した。
- ^ 「ヴァンジュール・ドゥ・プープル」の最後の数分に関して伝えられている事柄は悲痛な美談として広く知られている。フランス側の報告に基づく文献では愛国的な逸話とされているが、ハウ卿は徹底的にこれに反駁し、事実無根であると主張している。そしてイギリス側の文献も多くはそれに従っている。ウィリアム・ジェームズは、この出来事は多分実際にあったことであろうという見解を理由をつけて表明している。彼は、沈みゆく船にいる人なら誰も、アルコールの影響下でこのようにふるまうことはありうると言う。クロード・フェリエールは彼の著書『フランス海兵隊員の記録』(Histoire de la Marine française)の中で、沈没の原因を被害を受けた下層甲板の砲門を閉めなかった乗組員の怠慢によるものとし、負傷していない乗組員が船を放棄して脱出したと述べたうえで、愛国的な叫び声は、救出の希望を失い、沈む船に取り残された負傷者の叫びであるとしている。
- ^ フランス側の損失は、著述者や歴史家によってさまざまに推定されている。N・A・M・ロジャーは死者4,200名、捕虜3,300名としている。ディグビー・スミスは死者4,270名、捕虜3,254名とする。またパドフィールドは死者3,500名をリストアップした。ガーディナーによる 死者は3,500名で捕虜も同数。サン=アンドレは公式な急送報告で死傷者3,000名としており、またジェームズは死傷者・捕虜合せて7,000名は下らないと推定した。イギリスの犠牲者数は記録が残っているので算出はより容易であるが、ここにも矛盾はある。公式数値は、一連の戦闘を通じて死者287名、負傷者811名となっているが、ジェームズがリストアップした個々の艦の数字を合計すると1,148名となる。大部分の資料は総死傷者数がおよそ1,200名であることで一致している。
- ^ たとえば、沈没した「ヴァンジュール」の損失はさまざまな報告が行われており、「わずかな重傷者を除いて」150名の生存者としているもの、「600名以上が沈んだ」としているものなどがある。
- ^ フッド子爵の称号は彼のいとこのサミュエル・フッド提督がすでに得ていた。
- ^ トマス・パスリー少将旗艦
- ^ トマス・グレイヴス中将旗艦
- ^ ジェームズ・ガンビア艦長
- ^ ベンジャミン・コールドウェル少将旗艦
- ^ ジョージ・ボウヤー少将旗艦
- ^ リチャード・ハウ提督旗艦
- ^ アラン・ガードナー少将
- ^ アレクサンダー・フッド中将旗艦
- ^ フランソワ=ジョゼフ・ブーヴェ少将旗艦
- ^ ルイ・トマス・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズ少将旗艦
- ^ ジョセフ=マリー・ニエリ少将旗艦
参照
- Farrère, Claude (1956). “Chapitre IX: Révolution française”, Histoire de la Marine française. Flammarion.
- Gardiner, Robert (2001 [1996]). “The Glorious First of June”, Fleet Battle and Blockade. Caxton Editions. ISBN 0-84067-363-X.
- James, William (2002 [1827]). The Naval History of Great Britain, Volume 1, 1793-1796. Conway Martime Press. ISBN 0-85177-905-0.
- Jane, Fred T. (1997 [1912]). The British Battle-Fleet. Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-723-6.
- Padfield, Peter (2000 [1976]). Nelson's War. Wordsworth Military Library. ISBN 1-84022-225-5.
- Rodger, N.A.M. (2004). The Command of the Ocean. Allan Lane. ISBN 0-71399-411-8.
- Smith, Digby (1998). The Napoleonic Wars Data Book. Greenhill Books. ISBN 0-85367-276-9.
- Tracy, Ed. Nicholas (1998). The Naval Chronicle, Volume 1, 1793-1798. Chatham Publishing. ISBN 1-86176-091-4.
- Williams, Ed. Henry Smith (1907). History of France, 1715–1815. The Times.
- Woodman, Richard (2001). The Sea Warriors. Constable Publishers. ISBN 1-84119-183-3.




