極真会館
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極真会館(きょくしんかいかん)は、大山倍達が創始した空手道団体である。正式名称は国際空手道連盟 極真会館(こくさいからてどうれんめい きょくしんかいかん)。前身は日本空手道極真会 大山道場で、極真の由来は「千日を以って初心とし、万日を以って極とす」という言葉の“心”を“真”に変え、名称とした。
目次 |
組織概要
1964年(昭和39年)4月に財団法人極真奨学会を冠し、会長に佐藤栄作(当時国務大臣)、副会長に毛利松平(当時衆議院議員)を迎え、国際空手道連盟極真会館が設立された。館長(後に総裁)に大山倍達が就任。同年6月に東京都豊島区西池袋に本部道場(後に総本部)が竣工。なお、建設には資金援助をしてくれた人たちの他、「黒崎健時師範の貢献がとても大きい」と中村忠は証言している[1]。
伝統派空手に対し、極真会館は対戦相手に技をそのまま相手に当てる、直接打撃制(フルコンタクト空手)の提唱と啓蒙を行い、年1回のオープントーナメント全日本空手道選手権大会と、4年に1回のオープントーナメント全世界空手道選手権大会を開催してきた。
現在、各々が極真会館を名乗り、団体毎に門下生が在籍。個々に上記大会や付随する各種大会が行われている。当該記事では大山倍達が、館長および総裁に就いていた時代とする。
極真会館は、
がそれぞれ相乗効果を働き、発展してきた。以下、次章から順に記す。
直接打撃とオープン参加の大会
開催までの道のり
直接打撃制による組手試合は、山田辰雄が1962年(昭和37年)に初めて実施していたが、寸止め試合を行う伝統派空手の諸流派から黙殺され失敗に終わった。大山倍達は極真会館竣工以降、1964年(昭和39年)に行われた東京オリンピックの各種オリンピック競技をたびたびスタジアム観戦していたことで「極真会館内の競い合いではなく、他流派・他格闘技の参加を認めたオープン制とトーナメント制の選手権大会」を開催しようと検討し始め、名称もこのときは「全日本格闘技選手権大会」としていた。今でこそ直接打撃制の空手道選手権大会をいろいろな流派が開催しているが、当時は直接打撃に危惧を抱く会場側は決して協力的ではなく、極真会館は試合会場をなかなか確保できなかった。東京体育館とは都合3年も交渉を行い、その頃、盛んになり出したキックボクシングの例をあげ、その安全性をよく説明することにより許可を得て、ようやく1969年(昭和44年)9月に念願であった第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会(以降、全日本選手権に略)として開催に至った。[2][3][4]
なお、遡ること1969年(昭和44年)4月にNETは「ワールドキックボクシング」を開催し始めたが、2か月前から各方面より選手を集め、ムエタイ選手や日本拳法空手道らに出場要請をし、極真会館へも同様なオファーがあった。大山は高弟の山崎照朝・添野義二・及川宏[注釈 1]を選出し、極真ジム所属として参戦させた。キックボクシングはNET他、TBS・日本テレビ・東京12チャンネルの4局で放映され、「キック戦国時代」と呼ばれるほど、4局が視聴率争いにしのぎを削るブームで、新興スポーツとして注目されていた。参戦した山崎照朝や添野義二がKO勝ちして強さをアピールしたことにより、結果的には後に開催される全日本選手権の宣伝となった。[5]
極真の看板を守り抜く
“オープントーナメント”と謳った全日本選手権は、「空手界の各流派はもちろんのこと、武道全般・拳法・ボクシング・キックボクシング等、誰でも参加できる」というキャッチフレーズで参加の呼びかけを行なった。韓武舘をはじめ、申し込みをした選手の半数が他流派で、なかには柔道参段で体重100キログラムを超すギドン・ギダリー(イスラエル)、黒人ヘビー級ボクサーのポール・ジャクソン(アメリカ)、ムエタイのランキングボクサー、ビラホン・ハンピーン、サカオ・チャルムーン、サマンソー・アディソン(以上タイ)と、他格闘技からもエントリーしてきたことで、さながら“異種格闘技戦”の様相を呈していた。無差別級で直接打撃制によるKOで決定するとし、反則は「顔面への正拳・肘打ち・貫手」「頭突き」「金的」攻撃のみで、投げや掴みも認められていた。6時間にわたる激しい試合展開となったが、キックボクシングでも活躍した山崎照朝が優勝、添野義二が準優勝と主催者である極真会館の選手が上位を守った。大山倍達も「これで極真の看板を下ろさずにすんだ・・・」と溜飲をさげ、興行的にも7,000人の観衆を集め、成功した。このことが翌年以降の継続に繋がり、年に1回の全日本選手権が開催されている。[3][5]
1972年(昭和47年)にパリで開催された世界空手道選手権大会で全日本空手道連盟翼下の日本選手が団体戦で惨敗。個人戦は試合を放棄した事で「柔道に続き、空手よ、お前もか」と各種マスメディアで取り上げられた。これに対して大山倍達は「日本の空手は負けていない。近い将来、国際空手道連盟極真会館主催の世界選手権を開催して、日本選手の強さを示す」と声明を発表して、1975年(昭和50年)には第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会(以降、全世界選手権に略)を開催し、佐藤勝昭が優勝した。その後4年に1回、全世界選手権は開催されている。
ルールと運営の変遷
第1回全日本選手権のルールや運営手法が、選手権大会の回数を重ねるごとにそれぞれ改定、変更がされてきた。以下、その内容を記す。
ルール
1971年(昭和46年)第3回全日本選手権
- 「倒して決めの下段突き」は動きに少しの無駄もなく、スムーズな一連の流れによる一動作でも、技ありまでと改正される
- 1970年(昭和45年)第2回全日本選手権は閉幕後、「相手を投げ倒して決めにいけば、それで一本勝ちとする」というルールが問題となっていた。優勝した長谷川一幸は、山崎照朝には「絡み倒して下段正拳突きをピタリと顔面に止め」、添野義二にも「巻き倒しての決めの下段突き」で一本勝ちを得ている。他の試合でも同様な「倒して決めの下段突き」があまりにも多く、パターン化することを回避するためである[2]。
1979年(昭和54年)第2回全世界選手権
- 掴みを完全に禁止
1980年(昭和55年)第12回全日本選手権
- 柔道の技を完全に禁止
1984年(昭和59年)第3回全世界選手権
- 対戦相手の背後からの攻撃を禁止
- 各国選手により、対戦相手が試合の流れで後ろを向いてしまった時に攻撃を継続する選手としない選手がいた為、禁止と統一した。なお、対戦相手自らが逃げるために後ろを向くことは減点になり、回数が多いと技ありをとられることになる。
運営
1971年(昭和46年)第3回全日本選手権
- 試合場を一つに集約した
- 1970年(昭和45年)第2回全日本選手権まで試合場は2つあり、それぞれ試合が同時に進行する方式が採られていた。しかし、観客の気が散って試合に集中できないという理由で取り止めされた。
1973年(昭和48年)第5回全日本選手権
- 1972年(昭和47年)の第4回全日本選手権迄、参加選手は48名でA・B・Cとトーナメントに分けられ、3つのトーナメントを勝ちあがった3名の選手による決勝リーグ戦で実施されてきたが、64人の選手が参加する1日のトーナメントとして、決勝まで進めば6試合を行う形式へ変更
1974年(昭和49年)第6回全日本選手権
- 128人の選手参加による2日間のトーナメント開催で、決勝まで進むには初日に2試合、2日目に5試合を行う形式で実施
- 準決勝敗退者2名のうち、試割り枚数多い方から3位・4位、5位~8位は試割り枚数の多い順に入賞と決めていたが、3位・4位を3位決定戦で決める方式に変更
1979年(昭和54年)第2回全世界選手権
- この年から、世界選手権のみ3日間のトーナメント開催となり、各国選手権の優勝・準優勝者などシードされた選手は初日の1試合が免除され、2日目に2試合、3日目に5試合行われる形式となる。その後の世界選手権も参加した選手数はその時々で変動したが、3日間開催とシード権は継続
大会結果
全日本選手権
毎年11月に無差別級の「オープントーナメント全日本空手道選手権大会」を開催し、他流派や他団体の選手も参加できる。1984年(昭和59年)から毎年6月に体重制の「オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」も開催している。
| 回 | 年 | 優勝 | 準優勝 | 3位 | 4位 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1969年(昭和44年) | 山崎照朝 | 添野義二 | 長谷川一幸 | 朴邦治 | |
| 2 | 1970年(昭和45年) | 長谷川一幸 | 山崎照朝 | 添野義二 | 増田賢一 | |
| 3 | 1971年(昭和46年) | 佐藤勝昭 | 大山泰彦 | 大石代悟 | 三浦美幸 | |
| 4 | 1972年(昭和47年) | 三浦美幸 | ハワード・コリンズ | 佐藤俊和[注釈 2][3] | 山崎照朝 | |
| 5 | 1973年(昭和48年) | 盧山初雄 | 山崎照朝 | 佐藤俊和 | 佐藤勝昭 | |
| 6 | 1974年(昭和49年) | 佐藤勝昭(2) | 東孝 | 盧山初雄 | 西田幸夫[注釈 3][3] | |
| 1975年(昭和50年) | 第1回全世界空手道選手権大会と兼ねる | |||||
| 8 | 1976年(昭和51年) | 佐藤俊和 | 二宮城光 | 東孝 | 沢柳俊夫 | |
| 9 | 1977年(昭和52年) | 東孝 | 中山猛夫 | 中村誠 | 浜井識安 | |
| 10 | 1978年(昭和53年) | 二宮城光 | 三瓶啓二 | 中村誠 | 廣重毅 | |
| 11 | 1979年(昭和54年) | 中村誠 | 三瓶啓二 | 東孝 | 野口敏郎 | |
| 12 | 1980年(昭和55年) | 三瓶啓二 | 中村誠 | 為永隆 | 松井章圭 | |
| 13 | 1981年(昭和56年) | 三瓶啓二(2) | 中村誠 | 松井章圭 | 白石昌幸 | |
| 14 | 1982年(昭和57年) | 三瓶啓二(3) | 水口敏夫[注釈 4][3] | 松井章圭 | 三好一男 | |
| 15 | 1983年(昭和58年) | 大西靖人 | 小笠原和彦 | 竹山晴友[注釈 5][3] | 三好一男 | |
| 16 | 1984年(昭和59年) | 黒澤浩樹 | 竹山晴友 | 水口敏夫 | 木元正資 | |
| 17 | 1985年(昭和60年) | 松井章圭 | 黒澤浩樹 | 増田章 | ジェームズ・北村 | |
| 18 | 1986年(昭和61年) | 松井章圭(2) | 増田章 | 八巻建志 | 小井義和 | |
| 1987年(昭和62年) | 第4回全世界選手権と兼ねる | |||||
| 20 | 1988年(昭和63年) | 桑島靖寛 | 石井豊[注釈 6][6] | 八巻建志 | 山口徹 | |
| 21 | 1989年(平成元年) | 八巻建志 | 田村悦宏[注釈 7] | 桑島靖寛 | 増田章 | |
| 22 | 1990年(平成2年) | 増田章 | 緑健児 | 岩崎達也 | 外舘慎一[注釈 8][6] | |
| 1991年(平成3年) | 第5回全世界選手権と兼ねる | |||||
| 24 | 1992年(平成4年) | 田村悦宏 | 数見肇 | 岡本徹 | 七戸康博[注釈 9][3] | |
| 25 | 1993年(平成5年) | 数見肇 | 田村悦宏 | 岡本徹 | 七戸康博 | |
| 26 | 1994年(平成6年) | 八巻建志(2) | 数見肇 | 市村直樹 | 岡本徹 | |
| 1995年(平成7年) | 第6回全世界選手権と兼ねる | |||||
| 28 | 1996年(平成8年) | 数見肇(2) | ギャリー・オニール | 高久昌義 | 高尾正紀 | |
| 29 | 1997年(平成9年) | 数見肇(3) | ギャリー・オニール | 堀池典久 | 田村悦宏 | |
| 30 | 1998年(平成10年) | 数見肇(4) | 田村悦宏 | 木山仁 | 野地竜太 | |
| 1999年(平成11年) | 第7回全世界選手権と兼ねる | |||||
| 32 | 2000年(平成12年) | 木山仁 | 木村靖彦 | 市村直樹 | 木立裕之 | |
| 33 | 2001年(平成13年) | 木山仁(2) | 木村靖彦 | 足立慎史 | 市川雅也 | |
| 34 | 2002年(平成14年) | 数見肇(5) | 木山仁 | 田中健太郎 | 徳田忠邦 | |
| 2003年(平成15年) | 第8回全世界選手権と兼ねる | |||||
| 36 | 2004年(平成16年) | 田中健太郎 | 徳田忠邦 | ミハエル・コズロフ | マキシム・デディック | |
| 37 | 2005年(平成17年) | 内田義晃 | 塩島修 | 徳田忠邦 | 加藤達哉 | |
| 38 | 2006年(平成18年) | 内田義晃(2) | アルトゥール・ホヴァニシアン | ディミトリー・ルネフ | クリストフ・ハブラシカ | |
| 2007年(平成19年) | 第9回全世界選手権と兼ねる | |||||
| 40 | 2008年(平成20年) | 谷口誠 | ザハリ・ダミヤノフ | 田中健太郎 | 木立裕之 | |
| 41 | 2009年(平成21年) | 田中健太郎(2) | アレハンドレ・ナヴァロ | 赤石誠 | 木立裕之 | |
| 42 | 2010年(平成22年) | タリエル・ニコラシビリ | 森善十朗 | 田中健太郎 | 沢田秀男 | |
全世界選手権
- 男子
試割り
厚さ2.4センチメートルの杉板[注釈 10]で正拳・足刀[注釈 11]・手刀・猿臂で割った合計枚数により競い合う。松井派では再延長で勝敗がつかなかった場合にのみ、手刀による試割りを行い、勝者を決めている。
第1回全日本選手権から行なわれ、以下の更新をしている。
| 年 | 大会 | 名 | 正拳 | 足刀 | 手刀 | 猿臂 | 合計 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1969年(昭和44年) | 第1回全日本選手権 | 山崎照朝 | 3 | 4 | 5 | 4 | 16枚 |
| 1973年(昭和48年) | 第5回全日本選手権 | 山崎照朝 | 4 | 7 | 6 | 7 | 24枚 |
| 1979年(昭和54年) | 第2回全世界選手権 | ウィリー・ウィリアムス | 5 | 6 | 8 | 7 | 26枚 |
| 1984年(昭和59年) | 第3回全世界選手権 | 増田章 | 6 | 8 | 7 | 8 | 29枚 |
| 1992年(平成4年) | 第24回全日本選手権 | 阿部清文 | 6 | 9 | 8 | 8 | 31枚 |
マスメディア戦略
下記の宣伝・啓蒙活動が、“極真カラテ”の知名度を飛躍的に拡げた。
出版
大山倍達自らも精力的に執筆した。1966年(昭和41年)には極真会館の機関誌として、月刊『近代カラテ』を発行[注釈 12]。1978年(昭和53年)からは新たに『月刊パワー空手』を機関誌として創刊した。また、『空手バカ一代』に登場した弟子のほとんどが、各々自叙伝や技術本を出版した。
映画
『007は二度死ぬ』の撮影で、姫路城の屋根で忍者部隊役で戦うシーンに藤平昭雄と加藤重夫が出演した[注釈 13][7]。この撮影には各流派の空手家が集まっていたが、撮影の合間にも大沢と加藤は練習していた[7]。その熱心さにジェームズ・ボンド役のショーン・コネリーが彼らを気に入り「あなた達の道場に行きたい」と言い、1966年(昭和41年)9月3日にコネリーが本部道場に来訪して演武会が行われた[7]。藤平・加藤の他に大山茂・郷田勇三・芦原英幸・鈴木浩平らが参加し、数々の試割りや演武を披露した[7]。なお、コネリーには名誉参段が贈呈された[8]。
東映は、大山道場時代からの弟子である千葉真一主演で、大山倍達を主人公にした『けんか空手 極真拳』(1975年)、『けんか空手 極真無頼拳』(1975年)、『空手バカ一代』(1977年)を、三協映画が『地上最強のカラテ』、『地上最強のカラテ2』(1976年)、『最強最後のカラテ』(1980年)を制作し、それぞれ公開された。東映の3作品には、大山道場や設立直後の極真会館で師範代を務めた石橋雅史も出演している。これらの映画に極真会館は全面的に協力した。
漫画・劇画
梶原一騎の原作で『虹を呼ぶ拳』『空手バカ一代』『四角いジャングル』などで、大山倍達と極真会館は実名で取り上げられた。特に『空手バカ一代』は大山を主人公にし、弟子も紹介された作品で、アニメ化や映画化もされた。
通信教育
梶原一騎らとの協力によりマス大山カラテスクールを1972年(昭和47年)に設立。自宅に居ながらにして極真空手を学べるとして少年漫画誌を中心に大々的な宣伝を行い、多数の受講生を獲得した。1973年(昭和48年)には渋谷に通信生向けの実技道場を構え、師範代を山崎照朝、指導員を鈴木浩平などが務めた。
テレビ・雑誌
1973年(昭和48年)の第5回全日本選手権からテレビ中継され、その後、全日本・全世界選手権開催毎に東京12チャンネルやNETで放送された。雑誌では『ゴング格闘技』(日本スポーツ出版社)、『格闘技通信』(ベースボール・マガジン社)、『月刊フルコンタクトKARATE』(福昌堂)にも頻繁に登場した。
効果
以上により、影響や触発された読者、視聴者が観客や入門者となり、極真ファンや門下生の増加に貢献した。また、才能ある若者が集まる波及効果もあった。1980年代に選手で活躍した松井章圭・増田章・黒澤浩樹らは、大山の著書や映画、劇画の影響で極真会館に入門したと証言している。
極真カラテの啓蒙
海外の要人と関係を強化
外国の要人に空手道を指導したり、演武を披露することにより、国際的な普及に務めた。
1968年(昭和43年)8月にヨルダン王室に招かれ、フセイン国王・モハメド皇太子(現国王のアブドゥッラー2世)など王室関係者に指導を行った[9]。
1972年(昭和47年)2月にスペインのカルロス皇太子とソフィア夫人が来日した。カルロス皇太子(現・国王)は空手を習っていたことから、当時、極真会館副会長の毛利松平の仲立ちで演武会が催された。同月21日に大山倍達以下、大山泰彦・山崎照朝・添野義二・鈴木浩平・三浦美幸・佐藤勝昭・磯部清次・大石代悟・ハワード・コリンズなど黒帯・茶帯約20名からなるメンバーが、赤坂の迎賓館に訪問。基本稽古から各種試割りのあと、第1回全日本選手権チャンピオンの山崎照朝と第3回全日本選手権チャンピオンの佐藤勝昭の模範試合が行われるなど、国賓であるスペイン皇太子夫妻の前で数々の空手の技を披露した[10][11]。
1981年(昭和56年)6月にサウジアラビアのファイサル皇太子が総本部に来訪した。ファイサル皇太子は演武を堪能後、指導員の派遣を要請した[6]。
弟子を世界各地へ派遣し、孫弟子の輩出
1950年代は大山倍達が国内外を遠征をしていたが、1960年代半ばから、弟子を国内外各地に派遣し、支部の設立と門下生を育成した。海外では1966年(昭和41年)の黒崎健時が渡欧したのを皮切りに中村忠・大山茂・大山泰彦・三浦美幸・岸信行をアメリカ各地へ、加藤重夫をオーストラリア、松島良一[注釈 14]をシンガポール、磯部清次をブラジルへと派遣し、帰国した者を除き、支部長として永住させた。また、自ら来日し本部道場で稽古したジョン・ブルミン、ヤン・カレンバッハ、ルック・ホランダー(以上、オランダ)、スティーブ・アニール、ハワード・コリンズ(以上、イギリス)、ジャン・ジャービス(ニュージーランド)、ジョン・テイラー[注釈 15](オーストラリア)らを帰国後、現地の支部長や指導員に任命した。
国内でも芦原英幸・添野義二・長谷川一幸・高木薫・大石代悟・東孝・浜井識安・花澤明らを派遣や帰郷などで、各地の支部長に据えた。これらの活動が佐藤俊和[注釈 2]・二宮城光・田原敬三・水口敏夫[注釈 4]・増田章ら孫弟子が国内から出てきた。前後して大学の空手道部も傘下にし、城西大学に在学していた添野が同部二期生の高木、三期生の三浦・吉岡幸男・六期生の花澤を、早稲田大学に在学していた東は三瓶啓二を輩出している。
1985年(昭和60年)以降は、山田雅稔の東京都下城西支部か、廣重毅の東京城南川崎支部のいずれから、チャンピオンや上位入賞者を多く輩出する時代が続いた。海外ではチャールズ・マーチン[注釈 16]、ウィリアム・オリバー、ウィリー・ウィリアムス(以上、アメリカ)、アデミール・ダ・コスタ、フランシスコ・フィリォ(以上、ブラジル)、ジャン・リビエール[注釈 17][3](カナダ)、ハワード・ロブマン、ミッシェル・ウェーデル、ジェラルド・ゴルドー、ピーター・スミット(以上、オランダ)、アンディ・フグ(スイス)、マイケル・トンプソン(イギリス)、ハンス・ラングレン(スウェーデン)、サム・グレコ(オーストラリア)、ケニー・ウーテンボガード(南アフリカ)らの孫弟子輩出となり、組織拡大に繋がった。しかし、1975年(昭和50年)代前後から相次いで弟子の破門、独立が発生(独立した団体)。ほとんどの支部が独立採算を取っていた為、現地の門下生も一緒に離れることとなった。一時的に縮小したりしたものの拡大の勢いは落ちず、1990年代に入ると各都道府県へ支部の設置が完了し、最盛期には世界123ヵ国、公認支部道場1,000以上、会員1,200万人の規模となった。[4]
百人組手
詳細は「百人組手」を参照
分裂騒動
極真会館の創始者である大山倍達は1994年(平成6年)4月26日に逝去した。大山という絶対無比のカリスマを喪失した極真会館では没後間もなく、その後継の座を巡って支部長や準ずる人物、大山の遺族との間で、主導権争いが勃発。その後は数多くの人物による分派や独立も続き、「極真」という商標も奪い合いとなり、これらは訴訟係争という事態に繋がっていた。一方でこのような政治的な争いを嫌って極真会館から離れ、独自の道を求めていった者も少なくない。本項ではこれらについて記す。
1994年
大山逝去の翌々日、極真会館の審議(評議)委員長であった梅田嘉明が「大山総裁は遺言で松井章圭を次期後継者に指名された」と発表。5月10日に、梅田を財団法人極真奨学会理事長、松井を館長、郷田勇三を最高顧問、盧山初雄を最高顧問・主席師範、支部長協議会の会長を西田幸夫[注釈 3]とし、新体制による運営が始まった。6月に入り、遺族が記者会見を行い「遺言に疑問があるので法的手段にでる」と発表し、本葬時にも抗議活動を行なった。国内の支部長では9月迄に高木薫ら計5人が、新体制に異を唱えて離れた。
1995年
2月に高木ら5人の支部長が大山智弥子未亡人を館長とし、結集(遺族派)。4月に新体制が松井派と、西田・三瓶啓二ら35人の支部長がいる支部長協議会派に分裂。この国内の分裂は海外にも波及し、世界各地で支部の取り合い、選手の引き抜きも行われ、分裂が生じた。
松井派は中村誠や山田雅稔ら12人にまで減ったが、半年後には川畑幸一ら9人が支部長協議会派から復帰した。8月には智弥子館長を頭とし支部長協議会派と遺族派が合流(大山派)。同年から各種大会が松井派と大山派に分裂して開催されるようになった。
1996年以降
松井派と大山派は、それぞれの機関誌である『ワールド空手』と『極真魂』誌上で数年間、双方の正当性を主張しあっていた。1997年(平成9年)3月17日に遺言書の有効性を否定する判決が最高裁で確定した。その間に大山派は、協議会派と遺族派に再分裂。協議会派は1997年(平成9年)に西田・増田章が離脱。さらに理事の役職にあった田畑繁・七戸康博[注釈 9]・桑島靖寛らが離れ、前後して離脱した長谷川一幸・大石代悟らと全日本極真連合会を発足させる。協議会派に残留した者が現在の新極真会となった。遺族派は松島派、手塚グループ、極真会館 宗家に分かれる。
一方、松井は自派を株式会社化し、正式名称を株式会社国際空手道連盟極真会館と刷新したが、こちらもさらなる分裂が続いている。2002年(平成14年)に極真奨学会の梅田が松井と関係を絶つと、同年11月に盧山や地区本部長を務めていた廣重毅・湖山彰夫らも去り、彼らは極真館を興し、梅田と一緒に休眠していた極真奨学会を復活させた。2005年(平成17年)には水口敏夫[注釈 4]・河西泰宏らが、2006年(平成18年)には浜井識安が松井派から離れ、極真奨学会の協力団体になった。2008年(平成20年)、木村靖彦が全日本極真連合会へ移り、2010年(平成22年)8月には国際委員会委員で欧州地区担当のルック・ホランダーが、傘下の支部と共に松井派から離脱した[12][13]。この期間に黒澤浩樹・小笠原和彦・八巻建志・数見肇が独立し、自派を発足している。選手ではニコラス・ペタス、野地竜太が離脱した。
現在の状況
「国際空手道連盟 極真会館」もしくは「極真」を名乗る主な団体として(順不同)
- 極真会館(松井章圭)[注釈 18]
- 極真会館 宗家(大山喜久子)
- 極真大山空手(津浦伸彦)
- 新極真会(緑健児)
- 極真空手 清武会(西田幸夫[注釈 3])
- 社団法人全日本極真連合会(小井義和)
- 極真会館 増田道場(増田章) ※社団法人全日本極真連合会参加協力団体
- 極真会館 桑島道場(桑島靖寛) ※社団法人全日本極真連合会参加協力団体
- 極真会館 木村道場(木村靖彦) ※社団法人全日本極真連合会参加協力団体
- 極真会館 松島派(松島良一[注釈 14])
- 極真会館 安斎グループ(安斎友吉)
- 極真会館 手塚グループ(手塚暢人)
- 極真館(盧山初雄) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
- 極真会館 極眞會(水口敏夫[注釈 4]) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
- 極真会館 浜井派(浜井識安) ※財団法人極真奨学会参加協力団体
などが存在している。また、小規模の道場も含めれば更に増加する。
松井派、宗家、新極真などは、自らが正当であるとして他の極真諸派の存在を認めなかったり、認めていても消極的である。それに反して連合会や奨学会は、他の極真諸派の存在を認めようとする団体である。奨学会には極真館、極眞會、浜井派などがそれぞれ参加協力している。現在、“極真”の商標を巡って、宗家、連合会、奨学会らはそれぞれ松井派と係争中である。
なお、この分裂騒動を報道の他では家高康彦が『極真大乱』で、小島一志が『実戦格闘技論』で著している。
極真会館から派生、独立した団体
以下はあくまでも著名な団体のみを上げる。こちらも小規模な団体や海外も含めれば更に増加する(独立した順で記す)。
- 誠道塾(中村忠)
- 佐藤塾(佐藤勝昭)
- 極真武道会(ジョン・ブルミン)
- 正道会館(石井和義)
- 芦原会館(芦原英幸)
- 士道館(添野義二)
- 真樹道場(真樹日佐夫)
- 大道塾(東孝)
- 国際大山空手道連盟(大山茂・大山泰彦)
- 徹武館(田原敬三)
- International Federation of Karate(スティーブ・アニール)
- 逆真会館(山崎照朝)
- 勢和会 (アデミール・ダ・コスタ)
- 黒澤道場(黒澤浩樹)
- 八巻空手(八巻建志)
- 数見道場(数見肇)
- 創天会(小笠原和彦)
- ニコラス・ペタス道場(ニコラス・ペタス)
- 飛鳥道場(池田雅人)
- 究道会館(堀池典久)
注釈
- ^ 拳真塾塾長。現在は大川宏と名乗り、千葉県を中心に空手を指導している。
- ^ a b 極真会館秋田支部所属で、第3回全日本空手道選手権に初出場。第4・5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回全世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き・前蹴り・回し蹴りを得意とし、その戦いぶりから闘将と呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦。延長戦でウィリーの正拳突きと下突きの連打で一本負けをし、引退。現在は新極真会の秋田本庄道場の師範である。
- ^ a b c 第1回全日本選手権から第6回まで連続出場し、第6回全日本選手権で4位に入賞した。現在は国際武道連盟・極真空手 清武会の師範である。
- ^ a b c d 浜井識安の石川支部出身。第13回全日本選手権に初出場し、4回戦で竹山晴友に敗退。しかし、第14回全日本選手権では中村誠を破ったブラジルのアデミール・ダ・コスタ、松井章圭に勝ち、決勝進出。三瓶啓二に惜敗したものの準優勝した。第3回全世界選手権にも出場し、第16回全日本選手権では竹山と再戦したが、判定負けで3位入賞。これを最後に選手権大会から退く。岡山県支部長に就任して、現在では極真会館 松井派から離れて、極真会館 極眞會の代表である。
- ^ 極真会館本部道場内弟子出身。第12回全日本選手権に初出場で7位・第13回全日本選手権7位・第14回全日本選手権5位・第15回全日本選手権3位・第3回全世界選手権出場。優勝候補の一人に挙げられ、人間風車の異名を持ち、身長197センチメートル・体重98キログラムの南アフリカのケニー・ウーテンボガードと対戦。延長4回に及ぶ死闘をしたが、惜敗した。この試合は同選手権の屈指の名勝負の一つに挙げられている。第16回全日本選手権準優勝。その後、極真会館を離れ、大沢ジムに入会し、キックボクシングへ転向した。デビュー戦から13連続KO勝ちをし、MA日本キックボクシング連盟ウェルタ-級新人王を獲得。そしてMA日本キックボクシング連盟ミドル級チャンピオンの座にもついた。タイ遠征も行い、ノップディに判定負けしたが、ラクチャートに勝ち、その試合を最後に引退した。
- ^ 総本部所属。第20回全日本選手権準優勝・第8回全日本ウエイト制重量級3位・第5回全世界選手権6位。身長175センチメートル、体重90キログラム。サウスポーからの下突きと鎖骨を狙う正拳突き・前蹴り・マサカリキックと呼ばれた外回し蹴りを得意とした。
- ^ 1965年(昭和40年)6月14日生まれ。東京都世田谷区出身。城西三軒茶屋支部所属。第8・9回全日本ウエイト制重量級優勝。第21・25・30回全日本選手権準優勝。第24回全日本選手権優勝。第5・6・7回全世界選手権代表。現在は、極真会館 松井派湘南支部長である。
- ^ 身長191センチメートル・体重100キログラム。北海道支部所属で高木薫の一番弟子。1983年・1984年北海道選手権優勝。第1回オープントーナメント全日本ウエイト制重量級3位・第4回全世界選手権ベスト16・1990年(平成2年)全アジア選手権3位・第22回全日本選手権4位・第5回全世界選手権代表。長身を生かした上段回し蹴り、かかと落とし、膝蹴りを得意とした。現在は新極真会北海道支部外舘道場師範である。
- ^ a b 1961年(昭和36年)9月2日生まれ。青森県出身。本部道場所属。身長185センチメートル・体重110キログラム。第12回全日本選手権でデビュー後、全世界選手権・全日本選手権・全日本ウエイト制重量級に参戦すること実に20回。ウエイト制重量級で4度チャンピオンに輝いている。通算成績は88戦70勝18敗。全日本選手権は第24・25回の4位が最高。全世界選手権では第4・5回で7位が最高と上位入賞を果たすが、優勝を獲得することができなかった。しかし、その攻撃力は怪物と呼ばれ、突き・蹴り共に激しいものがあるが、特に膝蹴りは強烈であった。現在は全日本極真連合会の理事を兼務しながら、沖縄支部を管轄している。
- ^ 試割り用の杉板は、当時の新聞「日刊観光」では2.4センチメートルとあるが、「日刊スポーツ」では2.8センチメートルと表記されている。
- ^ 親指を起こして、反対の小指の根元からかかとにかけての足の外側部分。組手時には横蹴りで使用される。
- ^ 後に『現代カラテ』→『現代カラテマガジン』と誌名が変わり、真樹日佐夫が編集長になった。
- ^ そのシーンは宣伝のスチール写真に使われたが、映画ではカットされている。
- ^ a b 極真会館 松島派代表。総本部指導員を経て、シンガポールで1年間指導後、郷里の群馬県で支部を開設した。
- ^ オーストラリア支部長。ハワード・コリンズと同時期に数か月間、本部道場の内弟子となり、修行していた。現在は極真会館 松島派に所属している。
- ^ 当時の極真会館全米選手権のチャンピオンであり、第1回全世界選手権では最強の外国人選手と云われた。黒人特有のバネを生かしたヒット・アンド・アウェイの戦法で、突き・蹴りとバランス良く攻撃してきた。3回戦ではイスラエルの100キログラムで柔道参段でもあるギドン・ギダリーを上段後ろ回し蹴りで一本勝ち。4回戦では若きテクニシャンの東谷巧を破り、破竹の勢いで勝ちあがってきた。準々決勝で盧山初雄と対戦し、延長1回で判定負けしたが、7位入賞した。現在は誠道塾師範を務めている。
- ^ 1971年7月2日生まれ。カナダモントリオール出身。1990年・1991年カナダ大会優勝。この時点でキャリア5年だが、同年の第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会のカナダ代表として出場。身長188センチメートル・体重128キログラムの巨漢でありながら、軽快なフットワークとサウスポーからの突き、上中下段回し蹴りで一本勝ちを奪い、勝ち上がっていった。特に岩崎達也との対戦では、岩崎の右上段後ろ回し蹴りに対して、カウンターの左上段後ろ回し蹴りで一本勝ちを奪った。その瞬間、会場が一瞬シーンとなり、大歓声が沸くほどの見事な勝利だった。準決勝では増田章と対戦。増田の左上段回し蹴りや右後ろ回し蹴りを顔面にヒットされたり、右中段回し蹴りで脇腹に攻撃を受け、正拳突きを鳩尾(みぞおち)に決められ、下を向いて動きが止まるなど自分のペースで試合できなかったが、延長2回まで粘り、惜敗した。3位決定戦では黒澤浩樹に破れ、4位入賞を果たした。その後、1992年米国国際スーパーヘビー級優勝・1994年米国国際優勝の成績を収めた。分裂騒動が起きた時には、政治的問題に巻き込まれないように極真会館を脱会する。その後、キックボクシングに転向、国際大山空手道連盟に所属し、バーリ・トゥードにも参加したり、K-1へ参戦したりした。
- ^ メディアからは「極真会館 松井派」と呼ばれているが、団体表記は「極真会館」のみである。
脚注
- ^ 『月刊フルコンタクトKARATE別冊 - 大山倍達と極真の強者たち』 福昌堂、1995年、57頁。
- ^ a b 『ゴング格闘技』 日本スポーツ出版社、3月8日号、1996年、52-53頁。
- ^ a b c d e f g h 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年、72頁、78-79頁、85頁、105頁、114-119頁、150-151頁、164-165頁。
- ^ a b 高木薫 『わが師大山倍達』 徳間書店、1990年、16-17頁、54-62頁。
- ^ a b 「第2章 - 再検証極真ジム」『極真外伝 - ~極真空手もう一つの闘い~』 ぴいぷる社、1999年、76-91頁、93頁、101頁、104頁、108頁。
- ^ a b c 「ゴング格闘技12月6日号増刊」『極真カラテ強豪100人 - BATTLE SERIES Vol.9』 日本スポーツ出版社、1994年、45頁、123頁、125頁。
- ^ a b c d 「特集●郷田勇三 - 空手行路四十年」『格闘Kマガジン』 ぴいぷる社、3月号、2001年、12頁。
- ^ 「国際空手道連盟極真会館 - 年度別昇段登録簿 - 国内」『極真カラテ総鑑』 株式会社I.K.O.出版事務局、2001年、62頁。
- ^ 『極真カラテ総鑑』 株式会社I.K.O.出版事務局、2001年、57頁、60頁。
- ^ 極真館吉川支部・鈴木浩平 「極真館吉川支部→思い出の写真」 →昭和47年(1972)スペイン皇太子来日 - 迎賓館。
- ^ 佐藤勝昭 『王道の空手』 講談社、1987年、245-248頁。
- ^ ルック・ホランダー; Antonio Pinero (2010-8-13). “European Kyokushin Karate News RESIGNATION FROM IKO KYOKUSHINKAIKAN” (英語). 2010年8月18日閲覧。
- ^ ルック・ホランダー; Antonio Pinero (2010-8-15). “European Kyokushin Karate News EUROPEAN KYOKUSHIN KARATE ORGANISATION LEFT IKO (MATSUI)” (英語). 2010年8月18日閲覧。




