沖縄戦
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| 沖縄戦(沖縄の戦い) | |
|---|---|
| ファイル:Okinawa's Landscape in the south.jpg 沖縄南部を占領したアメリカ軍 | |
| 戦争:太平洋戦争 | |
| 年月日:1945年3月26日-6月20日 | |
| 場所:沖縄本島および周辺島嶼、海域 | |
| 結果:連合軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg 大日本帝国 | ファイル:US flag 48 stars.svg アメリカ合衆国 ファイル:Flag of Australia.svg オーストラリア ファイル:Flag of Canada.svg カナダ ファイル:Flag of New Zealand.svg ニュージーランド ファイル:Flag of the United Kingdom.svg イギリス |
| 指揮官 | |
| ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg牛島満陸軍中将 ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg長勇陸軍中将 ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg大田実海軍少将 | ファイル:US flag 48 stars.svgサイモン・B・バックナー ファイル:Flag of the United Kingdom.svgブルース・フレーザー ファイル:US flag 48 stars.svgレイモンド・スプルーアンス ファイル:US flag 48 stars.svgジョセフ・スティルウェル |
| 戦力 | |
| 116,400人 | 548,000人 |
| 損害 | |
| 死者・行方不明者 94,136人 民間人死者 94,000人 | 死者・行方不明者 12,520人 戦傷者 72,012人 |
沖縄戦(おきなわせん、沖縄の戦い)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦(英: Operation Iceberg、氷山作戦)。
第二次世界大戦における日本国内での最大規模の陸戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった。「国内唯一の地上戦」と称される事があるが、戦前当時は日本(大日本帝国)領だった南洋諸島におけるサイパンの戦いおよび、千島列島における占守島の戦い・樺太の戦い等があるという捉え方から適当ではない。また、19世紀末から現在に至るまで日本領である小笠原諸島硫黄島で行われた硫黄島の戦いがあるため、「(沖縄戦は)現在の日本の領土内では唯一の地上戦」という認識も誤りである。
目次 |
概要
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月23日に終るはずが3日早く6月20日に終了した。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦[1]への流れの中に位置づけられる[2]。帝国陸軍はサイパンの戦いなどで行った水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦った。特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となり、周辺空域では特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊(陸軍航空部隊・海軍航空部隊)が航空総攻撃(空戦)を行い、陸軍空挺部隊から抽出されたコマンド空挺部隊・義烈空挺隊も投入され、海域でも戦艦「大和」などの海上特攻艦隊と連合軍艦隊の間で海戦が行われた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に連合軍は首里を占領し、日本軍は南部に後退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、掃討戦は終戦まで続いた。
陸海空において日米の大兵力が投入され、両軍最高指揮官が戦死するなど第二次大戦における最激戦地のひとつであり、使用された銃砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[3]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では「鉄の雨」や「鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)」などと呼ぶ。[4]そのため、不発弾処理は陸上自衛隊第101不発弾処理隊と海上自衛隊沖縄基地隊の手により、現在も継続中である。
沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされる。沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人[5]、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。
背景
日本軍の戦略
太平洋戦争で日本の劣勢が明確になると、アメリカ軍の日本本土への侵攻が予想された。その際、アメリカはまず沖縄本島を占領して前線基地とすることが考えられたため、日本はそれに対抗すべくTemplate:Safesubst:2月、第32軍を編成、軍司令官には渡辺正夫中将が任命された。島全体を航空基地として航空機によって抗戦する予定で、当初の主な任務は飛行場建設であり、警備程度の兵力であった。4月には、海軍の沖縄方面根拠地隊が置かれるとともに、九州-沖縄県間の航路防衛を任務とする第4海上護衛隊が創設され、沖縄県方面への軍需輸送や本土への住民疎開船団の護衛を担当することとなった。しかし、これらの海軍部隊も防衛戦力というよりは、後方組織としての性格が強かった。
1944年7月のサイパン島玉砕という事態に大本営は司令部人事を一新し、新司令官に牛島満中将を任命した。ようやく沖縄県方面の兵力増強に努め、第9師団をはじめ本島に3個師団と1個旅団、第5砲兵司令部(司令官:和田孝助中将)を置いた。和田中将は砲兵の権威と知られ、敵上陸に際して砲兵部隊に援護された精鋭3個師団が水際から米軍を追い落とせると自信を深めた。石垣島などにも1個師団以上が置かれた。しかし、本島のうち第24師団は装備・訓練は行き届いていたが実戦経験が無く、また独立混成第44旅団は輸送中に輸送船「富山丸」がアメリカ軍潜水艦に撃沈される[6]など、先行きを不安視する部分もあった。
第9師団は精強・練達で知られており、第32軍の中核となる予定だった。ところが、レイテ決戦のために台湾駐留部隊が動員されると、穴埋めに沖縄から1個師団を台湾へ転用するとの方針が大本営で決定され、やむなく第32軍は第9師団の転出を決めた[7]。これで兵力の三分の一近くが失われ、第32軍は積極作戦から持久作戦への転換を余儀なくされる。更に補充兵力として第84師団の増援が通知されたが、その直後に中止されるという事態がおこり、第32軍と大本営の間で不信感と作戦・用兵思想に溝が生じ、その後の作戦に支障をきたす事となった。他方、大本営の戦略的見地から見ると、当時の連合軍の侵攻状況からは台湾を経由しての中国南部への上陸が予想されており、台湾の喪失はひいては南方との考えうる唯一の補給線にも影響するため、台湾の防衛も重要だった。また、補充部隊を海上輸送しようにも、海上護衛兵力が不十分で輸送中に消耗する危険が大きかった。
反面、第32軍の砲兵戦力は第二次大戦当時の日本軍においては極めて充実しており、1個師団砲兵と独立混成旅団砲兵および戦車連隊の機動砲兵や歩兵部隊の歩兵砲隊を除く、全砲兵部隊を掌握する第5砲兵司令部は400門以上の火砲を擁していた。生産力や補給力に劣る日本軍において、大量の火砲が実戦投入されたのは緒戦の南方作戦における香港の戦い・シンガポールの戦い・フィリピンの戦い(コレヒドール島砲撃戦)に限られ、大戦末期では沖縄戦以外には試製四十一糎榴弾砲や七年式三十糎長榴弾砲など、重要塞砲が使用された虎頭要塞の戦いにとどまる。
最終的な陸軍の沖縄守備軍の数は86,400人で、このほかに海軍陸戦隊が約10,000人弱、学徒隊などが20,000人で、総計116,400人がいた。陸海軍の戦闘員には、兵力不足から現地で急ぎ調達された予備役などが多く含まれ、全戦闘員中約2万人は現地で徴兵・召集された17歳から45歳までの者であった。
1945年に入り、米軍の沖縄上陸が必至な情勢となった時、沖縄防衛の第32軍司令部は、戦闘の支障にならないように、また軍民一体となった「玉砕」を防ぐために、島内に残っている老幼婦女子を半強制的に北部山岳地帯に疎開させようとした。多くの人々はわずかな食糧と身のまわりの品を持って避難をしたが、それでも激戦地になるであろう中南部には数十万人の住民が避難せず踏みとどまっていた。これは、台湾沖航空戦の誤報による影響が大きいとされる(疎開の詳細については#住民犠牲についてで後述)。
連合軍の戦略
連合軍は、沖縄本島の存在について、日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた。他方、連合軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。
1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官にはアメリカ陸軍のサイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた。
ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍のニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾の代わりに沖縄本島を攻略することを提案し、検討の結果、10月5日に沖縄攻略作戦の実施が決定された。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された[8]。
さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。10月10日、アメリカ軍機動部隊が沖縄県などに対して大規模な空襲を行い、沖縄県周辺所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。
1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略と硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。こうして、当初計画よりはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった。
参加兵力
日本軍
陸軍
- 第32軍司令部(司令官:牛島満中将(戦死後、大将に進級))
- 第24師団(師団長:雨宮巽中将) - 歩兵第22連隊・第32連隊・第89連隊基幹
- 第62師団(師団長:藤岡武雄中将) - 歩兵第63・第64旅団基幹
- 賀谷支隊(支隊長:賀谷與吉中佐) - 歩兵第63旅団の1個大隊基幹
- 独立混成第44旅団(旅団長:鈴木繁二少将) - 第2歩兵隊・砲兵隊(九一式十糎榴弾砲)・独立混成第15連隊[9]基幹
- 第5砲兵司令部(司令官:和田孝助中将) ‐ 野砲兵第42連隊、独混44旅団砲兵隊、各歩兵連隊・歩兵大隊の連隊砲・大隊砲、師団および独混の速射砲を除く全砲兵部隊を軍砲兵として指揮下に置いた。
- 野戦重砲兵第1連隊 - 九六式十五糎榴弾砲×12
- 野戦重砲第23連隊 - 九六式十五糎榴弾砲×24
- 重砲兵第7連隊 - 加式十二糎速射加農×2 改造三八式野砲×12
- 重砲兵第8連隊
- 独立重砲兵第100大隊 - 八九式十五糎加農×8
- 独立臼砲第1連隊 - 九八式臼砲×24 九七式軽迫撃砲×6
- 迫撃第42大隊
- 独立迫撃砲第1・第2大隊 - 九七式曲射歩兵砲×96
- 独立速射砲第3・第5・第7・第22大隊、独立速射砲第23・第32中隊 - 一式機動四十七粍速射砲×54
- 第21野戦高射砲隊司令部
- 野戦高射砲第79・第80・第81大隊、独立高射砲第27大隊 - 八八式七糎野戦高射砲×72
- 機関砲第103・第104・第105大隊 - 九八式二十粍高射機関砲×54
- 特設第47・第48・第49機関砲隊 - 九六式二十五粍高角機銃
- 戦車第27連隊[10] ‐ 九七式中戦車改(新砲塔)×14 九五式軽戦車×12
- 砲兵中隊 - 機動九〇式野砲×4
このほか、先島集団(宮古島に第28師団及び独立混成第59・第60旅団。石垣島に独立混成第45旅団)、大東島守備隊(第28師団の一部)、奄美守備隊(独立混成第64旅団)といった部隊がアメリカ軍による上陸を想定して配置された。しかし、アメリカ軍が上陸しなかったため、地上戦闘はおこなわれなかった。第32軍司令部の壊滅後、先島集団は台湾の第10方面軍の直轄下に入り、奄美守備隊は九州の第16方面軍隷下となった。
海軍
航空部隊
- 第6航空軍 - 在九州・陸軍航空部隊(司令官:菅原道大中将)
- 第8飛行師団 - 在台湾・陸軍航空部隊(師団長:山本健児中将)
- 独立飛行第18中隊分遣隊
- 第5航空艦隊 - 在九州・海軍航空部隊(司令長官:宇垣纏中将)
- 第1航空艦隊- 在台湾・海軍航空部隊(司令長官:大西瀧治郎中将)
連合軍
特に注意書きの無い場合、アメリカ軍の部隊を指す。出典は原則としてアメリカ陸軍公刊戦史“OKINAWA: The Last Battle”による[11]。
陸上部隊
各歩兵師団は歩兵3個連隊を基幹とし、砲兵4個大隊などを持つ。各海兵師団は3個海兵連隊を基幹とし、砲兵連隊と戦車大隊などを持つ。
- 第10軍司令部(司令官:サイモン・B・バックナー・ジュニア中将)
- 第24軍団
- 第7歩兵師団
- 第711戦車大隊、第776水陸両用戦車大隊、第718・第536水陸両用トラクター大隊、第91化学中隊ほか配属。
- 第77歩兵師団
- 第706戦車大隊、第708水陸両用戦車大隊、第715・第773水陸両用トラクター大隊、第88化学砲大隊の1個中隊ほか配属。
- 第96歩兵師団
- 第763戦車大隊、第780水陸両用戦車大隊、第728・第788水陸両用トラクター大隊、第88化学砲大隊の1個中隊ほか配属。
- 第7歩兵師団
- 第27歩兵師団 - 軍直轄。
- 第193戦車大隊ほか配属。
- 第81歩兵師団 - 戦闘には不参加。
- 沿岸砲兵隊
- 第53沿岸高射砲兵旅団
- 第144沿岸砲兵群 - 155mm砲装備。
- 第3水陸両用軍団 - アメリカ海兵隊所属。
航空部隊
戦術支援用の航空部隊として、以下の部隊があった。
- 第301戦闘航空団 - アメリカ陸軍航空軍所属。
- 第7爆撃コマンド - アメリカ陸軍航空軍所属。
- 第2海兵航空団 - アメリカ海兵隊所属。
戦闘推移
事前攻撃
アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母12隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月18日以降、九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。
沖縄本島への侵攻作戦の可能性が高いと判断した大本営は、3月20日に天号作戦を下令した。現地の第32軍も24日に警戒度最高の甲号配備を発令した。
3月23日、第58任務部隊は沖縄県周辺に対する本格空襲を開始し、初日だけで延べ2000機を出撃させた。翌日には第59任務部隊の戦艦5隻などが本島南部に対する艦砲射撃を行い、上陸予定地点の掃海作業も始められた。このほか日本軍の反撃を妨害する目的で、アメリカ軍はB-29爆撃機による機雷投下を関門海峡などに行っている(飢餓作戦)。艦艇1500隻、輸送船450隻、兵員54万8000人(うち上陸部隊18万人)の攻略部隊もサイパン島やレイテ島から続々と出発し、沖縄洋上に集結した。
慶良間諸島の戦い
沖縄戦が開始される直前まで、日本軍はアメリカ艦隊の動向を把握できずにいた。これは、アメリカ艦隊のレーダーが日本軍の偵察機をよく捉え、戦闘機によりそのことごとくを撃墜していたからである。そこで日本軍は戦闘機単機での夜間強行偵察による情報収集を試みた。
3月24日、沖縄戦開始初頭の夜間強行偵察で鹿児島より飛来した、岩本徹三少尉が単機でアメリカ海軍の防空網を突破して、慶良間諸島に遊弋する米軍艦艇を銃撃し、損害を与えた。このことは、慶良間海洋文化館の記録と、岩本の手記とで一致している。この時に岩本機から発信された無線電信によって、日本軍司令部は米軍の本格的上陸を認知し、沖縄戦が開始された。
3月26日、アメリカ軍は慶良間諸島の座間味島など数島を占領し、作戦拠点となる泊地や水上機基地などを設置した。日本軍はこれらの島への初期侵攻を想定していなかったため、地上部隊をほとんど配備しておらず、本島防衛任務の特攻艇マルレ部隊である陸軍海上挺進戦隊3個などだけが存在していた。第32軍司令部は出撃困難と見てマルレの処分を命じ、すでに事前空襲で300隻のマルレの多くを地上撃破されていた各部隊はこれに従って島の奥へ後退した。慶留間島の4隻のみが出撃して、うち2隻が攻撃後に本島へ生還した。
連合艦隊は、天号作戦のうちの沖縄防衛計画である天一号作戦を発動して第3航空艦隊などを九州方面へ移動させるとともに、戦艦「大和」を中心とした第一遊撃部隊、回天特攻「多々良隊」(潜水艦4隻)にも出撃準備を命じた。陸軍も航空総攻撃の態勢に入った。これらの大規模攻撃以外に27日には最初の沖縄本島発の特攻機が出撃するなど、散発的な航空反撃が行われていた。29日には本島配備の海上挺進第29戦隊のマルレ19隻が出撃し、中型揚陸艦1隻を撃沈した。
3月31日、アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸し、そのうち神山島に野戦重砲24門を展開させて那覇への砲撃を開始した。
先島諸島の戦い
英国海軍は、戦後の香港、シンガポールの権益保持のために当諸島で戦闘を展開。相当な特攻攻撃を受けた。
米軍の上陸
4月1日、アメリカ軍は、守備陣の薄い本島中西部で、陸軍2個師団と海兵2個師団による上陸を開始した。北飛行場(読谷村)と中飛行場(嘉手納町)の占領が第一目標とされた。戦力で劣る日本軍は、戦力を宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、これらの中西部沿岸地域にはほとんど守備兵を置いていなかった。日本軍が水際作戦を放棄したため、米軍はその日のうちに北・中飛行場を確保、4月5日までには中部(現うるま市石川周辺)の東海岸までを占領した。これにより、第32軍は沖縄本島南北に分断された。
第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営や海軍中央から消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた。米軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。度重なる大本営や海軍の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。4月4日には、長第32軍参謀長主導で攻勢移転が一時決定されたが、島南東部の港川方面への連合軍上陸部隊接近との報告により、中止された。この港川方面への上陸部隊は、陽動作戦任務のアメリカ第2海兵師団で、実際には上陸はしなかった。
4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、戦艦大和以下の第一遊撃部隊も出撃させた。特攻機などの攻撃により連合軍艦艇6隻が撃沈されたが、他方で日本軍機は200機以上が失われ、大和も撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。それでも日本軍は、以後も特攻機を中心とした攻撃を続行した。この空海からの反撃にあわせて、第32軍も再び総攻撃実施を決定していたが、またも港川方面への陽動部隊接近に惑わされ出撃を中止した。同時期には第5航空軍から派遣された独立飛行第18中隊分遣隊の戦略偵察機・一〇〇式司令部偵察機III型甲が、沖縄本島の米軍制圧下飛行場および、機動部隊に対する強行偵察に成功し鮮明な航空写真を第6航空軍にもたらしたものの、これを攻撃するに十分な航空兵力や艦艇はなかった[12]。
北部の戦い
日本軍第32軍の作戦計画では南部を主戦場とすることになっていたため、北部(国頭地区)には独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊)程度しか配備されていなかった。これに対してアメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけた。八重岳などの山地帯に拠って日本軍は抵抗したが、4月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。
この戦闘での第6海兵師団の損害は、戦死・行方不明243人、負傷1061人であった[13]。なお、北部は住民の避難地域に指定されていたため推定15万人の住民が県内疎開してきており、そのままアメリカ軍の管理下に入ることとなった。ただし、北部にいた住民のうち、かなりの者はアメリカ軍の北上後に山中に逃れて南進し、すぐには収容所に入らなかった[14]。
4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に飛行場を設置するため上陸した。伊江島には独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されていたほか、陸軍飛行場も存在したが、連合軍の上陸が迫った3月に飛行場は破壊放棄されていた。島民は人口8000人のうち5000人が残留していた。日本軍は島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島が占領された。
アメリカ軍によれば、日本側は民間人多数を含む4706人が戦闘により死亡し、3人が捕虜となった。アメリカ軍は218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、中戦車60両・自走砲6両が被撃破(うち完全喪失は5両)などの大きな物的損害を受けた[15]。アメリカ軍の戦死者の中には、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルも含まれていた。アメリカ軍は、伊江島飛行場の本格使用を5月10日に開始した。
首里戦線
南部の日本軍は賀屋支隊を主体として、島袋方面から嘉数陣地へ遅滞行動をとりつつアメリカ軍を誘導した(嘉数の戦い)。アメリカ軍は首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中の宜野湾市付近には守備軍が丘陵地形と地下壕を利用した陣地で構え、進軍してくるアメリカ軍を何度も撃退した。賀屋支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団の歩兵第22連隊などが激しい抵抗を見せている。戦闘は約50日間続き、この遅滞作戦は一定の成功を収めた。この間、4月12日には日本軍の夜間攻撃が行われたが、第62師団の1個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった。
4月9日、船舶工兵第26連隊の決死隊50人が神山島に潜入し、野戦重砲陣地の破壊を報じた。これに合同して海上挺進第26戦隊のマルレ40隻が出撃し、駆逐艦1隻を撃沈した。その後も、4月中に延べ60隻以上のマルレが出撃し、若干の小型艦艇を撃破している。
5月4~5日に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。船舶工兵第23、26連隊と海上挺進第26~29戦隊は、舟艇で海上を迂回しての逆上陸を試みた。本土の日本軍も、菊水五号作戦と第六次航空総攻撃を実施して掩護した。しかし、この総反撃は大打撃を受けて失敗し、日本軍は継戦能力を一気に喪失した。火砲や戦車の大半が破壊され、第32軍の戦死者は7000人に及んだ。第32軍の八原高級参謀はこうした結果になることを予想し、総攻撃実施には反対していた。
5月12日~18日にかけては、北部戦線より転進したアメリカ軍の第6海兵師団が、安謝川を渡り、首里西方の安里付近の高地で日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。アメリカ軍は著しい損害を受けるも一帯を制圧し、日本側は首里の防衛も困難な状態となった。この危機に大本営は、菊水七号作戦を発動し、制空権確保のために空挺部隊を飛行場に突入させる義号作戦も行ったが、戦況を動かすことはできなかった。
5月24日、第32軍司令部は南部島尻地区への撤退を決定。5月27日に津嘉山、30日にはさらに本島南端の摩文仁(まぶに)に撤退して新たな防御陣をたてた。この時点で第32軍は戦力の80パーセントを消耗していた。31日までにアメリカ軍は首里市を占領した。
日本軍守備隊の壊滅
5月26日、陸軍参謀本部は沖縄諸島方面での継戦を断念し、以後は航空作戦を縮小することとした。反面、海軍軍令部はなお戦闘に固執し、練習機まで投入して菊水作戦を継続した。
日本の海軍部隊である沖縄方面根拠地隊は、主に飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成したもので本来の戦闘部隊は少なく、航空機用機銃を陸戦用に改造するなどの努力はしたものの装備は劣悪であった。比較的戦力のある4個大隊を陸軍の指揮下に入れて首里戦線に送った後、本隊は陸軍守備隊と別行動をとり、小禄地区に篭って抗戦した。接近したアメリカ軍駆逐艦1隻を海岸砲で砲撃して撃沈するなどの戦果を挙げた。6月4日にアメリカ軍は第6海兵師団を迂回上陸させ、沖縄方面根拠地隊に対して包囲攻撃を開始した。沖縄方面根拠地隊は第32軍の撤退命令を受けて5月末から南部への移動を開始していたが、連絡の齟齬から行動時期がずれるなどしたため、最終的に包囲突破は不可能として撤退拒否し6月中旬に壊滅した。海軍部隊司令官の大田実少将は6月6日に海軍次官宛に有名な『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という訣別電報を打った後、豊見城の海軍司令部壕内で6月13日頃に自決した。
日本の陸軍部隊も急速に戦力を失いつつあった。八重瀬岳方面の独立混成第44旅団は、6月14日までにほぼ全滅した。6月15日頃、第32軍司令部への侵攻を防ぐため第62師団は全力反撃を実施したが、残存戦力の大半を失った。喜屋武地区の第24師団も、6月17日には師団としての組織的抵抗が不能の状態となった。
日米両軍司令官の戦死と自決
6月18日、アメリカ第10軍司令官(沖縄上陸軍最高指揮官)・サイモン・バックナー中将は、喜屋武半島の最前線視察中、野戦重砲兵第1連隊第2大隊の九六式十五糎榴弾砲の砲撃を受け戦死した[16][17]。これはアメリカ軍史上(2010年現在に至るまで)最高位の階級(中将)で戦死した唯一の軍人であると同時に、将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を戦闘行為にて討ち取った大戦果であったものの、日本軍が総崩れ状態であった沖縄戦末期においてアメリカ軍有利の状況には変化がなかった。むしろ、この後数日はバックナー中将が殺害された地域を中心にアメリカ軍が徹底的な掃討作戦を行い、日本軍の被害は増大している。なお、アメリカ第10軍は急遽ロイ・ガイガー(Roy Geiger)少将が司令官代理を務め、同月23日にはジョセフ・スティルウェル大将が後任新司令官となった。
6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)、日本第32軍司令官(沖縄守備軍最高指揮官)・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決、24日頃には基幹部隊であった歩兵第22・89連隊は、連隊旗である軍旗(旭日旗)を奉焼し玉砕。長勇中将は自決の前に八原大佐に「八原、後学のため予の最後を見よ」と言った。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。大本営も、6月22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。
その後の戦闘
しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。この戦闘継続の原因は、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないもの(『…爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ』 文を実質作成したのは長野作戦参謀であり、最後の文を付け加えたのは牛島では無く、長勇参謀長である)であったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかった為とされる。しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄本島全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。
また、第8飛行師団隷下飛行第10戦隊の一〇〇式司偵が沖縄方面に対する戦略偵察を8月に至るまで継続している[18]。
第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)、並びに同連隊指揮下の2個大隊などが降伏まで徹底抗戦している(北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが米軍に投降したのは、日本政府が8月15日に国民へ停戦を発表してから2週間後の8月29日のことである。第32連隊は同月22日にアメリカ軍の軍使と接触しており、翌23日に軍旗を奉焼している)。最終的な沖縄守備軍の降伏調印は9月7日に嘉手納で行われた。沖縄守備軍司令部の中では、高級参謀の八原博通大佐が捕虜になり、また航空参謀の神直道少佐(後に中佐)が大本営報告の命令で本土に脱出して生き残っている[19]。一方、長野作戦参謀、薬丸情報参謀、木村後方参謀、三宅通信参謀はそれぞれ遊撃戦指導、大本営報告のため司令部を出て北部への脱出を計ったが成功せず、全員戦死している。
主に海軍により、特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃も続けられ、7月29日には九三式中間練習機が特攻により駆逐艦1隻を撃沈している。8月15日の玉音放送後にも、菊水作戦の指揮をとった宇垣纏海軍中将が部下を引き連れて沖縄方面へ特攻出撃している。
終戦後の状況
詳細は「アメリカ合衆国による沖縄統治」を参照
戦後、沖縄守備軍の守備範囲であった沖縄県などはアメリカ軍の占領下に入り、1950年12月まで軍政が続いた。その後も米国の琉球列島米国民政府と、下部機関である琉球政府による統治が行われ、全てが日本に返還されるのは1972年5月15日のことであった。最後の激戦地となった南部地域の村は、いくつもの集落で住民が全滅、多くの沖縄の住民は外国(特に南米)に移住、人口の減少により、自治体としての規模維持のため合併を余儀なくされた(三和村)。
住民犠牲について
犠牲者数
沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では以下の数値である。C+Dの9万4000人が住民犠牲とされる。
- 沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人
うちDが推定となっているのは援護課が一般住民の犠牲者を直接に調査せず、1945年と1946年の沖縄県住民数の差から、援護課で戦闘参加者として認定した数Cを差し引いた数をDとした為である。終戦直後の1946年統計は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により誤差が大きいと思われ、また、昭和21年の人口には、沖縄戦の後で生まれた子どもや、戦時中は沖縄県に不在だった本土への疎開者、海外からの引き揚げ者・復員兵が多数含まれるため、計算上の人口減少より実際の戦没者数の方が大きいと推定される。
なお、沖縄県民の犠牲者15万人とする場合もあるが、これは沖縄県出身軍人(上記B)や地上戦域外での餓死者・病死者までも含めた数値である。
米軍上陸前の住民避難
1944年7月7日にサイパン島が陥落すると、東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断した。沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から、60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることが決定され、沖縄県に通達された。この通達は、それまで戦争を身近に感じていなかった沖縄県民に大きな衝撃を与えた。 軍も「県民が軍の懐に入り込むことにより軍の活動を妨害することになる」との作戦上の考えから県民の疎開を希望していた。また、沖縄県では消費米の2/3を県外からの移入に頼っているため、海上交通が途絶えた場合には守備隊増強で膨れ上がった人口を養うのは困難という事情もあった。
その後の通達で疎開目標は「本土へ8万、台湾へ2万の計10万」と決定された。県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学校との連絡が欠かせない学童疎開のみは内政部教学課の担当として、その指揮下に各国民学校長が推進することとした。
しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開するという不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。1944年6月29日には増援部隊を乗せた輸送船「富山丸」が鹿児島県徳之島の亀徳沖約4キロで潜水艦に撃沈され、将兵4,600人中約3,700人が犠牲になる大惨事が発生していた。軍はこの事件を「軍極秘」として箝口令を敷いていたが、県民の間に口伝で広まり、疎開に対する不安を煽る結果となった。さらには、第32軍司令部の方針が末端部隊まで徹底しなかったことによる末端将兵の放言も、県民に、日本軍が勝つという希望的観測を生じさせていた。なお、沖縄県知事の泉守紀も北部への県内疎開には食糧供給が困難として消極的な立場で、疎開の促進を求める軍としばしば対立した。
荒井退造警察部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であったものの、その後8月10日に出航した第4次の約9000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあった。
皮肉なことに県民の疎開を一挙に促進させたのは米軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった。その後、1945年1月に新たな県知事として赴任した島田叡の下で、最後の努力が行われた。
疎開者の証言例として、父母を疎開させるために那覇港に見送りに行ったところ、そのまま疎開することになったというものもある。水兵がたくさん艦から降りて来て、「艦長命令です! 全員乗ってください。まもなく米軍は上陸します」ということで、そこにいた人力車の車夫から、労働者まで、かたっぱしから三隻の艦艇に乗せられたという。那覇港を出て熊本の三角港に着き、この一家は全員助かっている[22]。
沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から米軍により交通が途絶する翌年3月まで、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5586人を含む6万2千人[23]に達し、これに加えて沖縄本島北部への県内疎開は約15万人と推定されている。県外疎開の疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「対馬丸」一隻のみであるとされているが、6隻(約3000人死亡)とする見解もある[22]。また、先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。八重山諸島では疎開により、多くの住民がマラリアに感染し、死亡したものも多く、これを戦争マラリアと呼んでいる。県内疎開の正確な犠牲者は不明である。[24]
なお、恵隆之介によると、1945年3月上旬の島外疎開の正式打ち切り後も、一部では海軍艦艇による疎開が行われた例があるという[22]。
米軍上陸後の住民避難
米軍の上陸後すぐに島は南北に分断されたため、日本側の交通は絶たれ、本島北部山岳地帯への疎開は不可能になった。北部への疎開ができなかった住民は、アメリカ軍の収容下に入るほかは南に避難するしかなく、最終的に島尻地区にかなりの住民が集まることになった。人口密集地だった沖縄県の首里、那覇では避難誘導すべき警察官は逃げていた。代わりに憲兵が各家を一軒一軒回って避難誘導している。生存者の証言によれば、憲兵が避難を促した際に「自分の家で死ぬのが本望です」と言ったところ憲兵に叱責され、「死に急ぐな! 生きることを考えなさい」と言われ避難壕に誘導されている。その憲兵は避難住民に兵糧を配給し、そしてこの英雄は戦場に戻り戦死しているらしい[22]。
なお、九州に事前疎開できた沖縄県民については、沖縄県庁の機能停止後、7月に福岡沖縄県事務所が正式発足して支援業務を引き継いでいる。
集団自決
詳細は「沖縄戦における集団自決」を参照
サイパンの戦いなどと同様に、沖縄戦においても一般住民までが集団で自殺する集団自決が発生した。読谷村のチビチリガマの事例(83人[25])などが知られ、集団自決者の総数は1000人以上とする研究者もいる[26]。
日本軍による住民殺害
アメリカ軍の攻撃及び住民による自決以外に、日本軍による直接的な住民殺害があったとも言われる。
連合軍による住民暴行、強姦、殺害、及び、収容下での扱い
連合軍上陸後、米軍兵士による強姦が多発し、米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定する見解もある[27]。ニューヨーク・タイムズの記事によれば、強姦はあまりに多発したため、65歳以上(2000年時点)の沖縄の住民は誰しもこの連合軍による強姦について知っているか、あるいは聞いたことがあるという[28]。
「沖縄本島に上陸した米軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦斗は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここは米軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。」[29]
「民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。殺害時、周囲には25―45人の米兵が取り囲んでいた。」[30]
沖縄の収容所
アメリカ軍の占領地域となった場所では、民間人収容所が捕虜収容所とは別に設けられ、地域住民や近在の避難民が収容された。アメリカ軍は占領段階に応じたA~Dの4種の軍政要員を用意して、住民の管理・収容を進めた。本島に11か所、周辺島嶼に5か所の計16か所が設置されたが、作戦上の都合などにより合併や閉鎖が適宜行われた。本島では基地建設のために5月から7月にかけて中南部の無人化政策がとられ、北部東岸の収容所への強制移住が実施された。そのため、宜野座地区収容所には、生存島民の2/3にあたる20万人以上が押し込められた過密な状態だった[31]。
多くの場合、収容所は集落単位で管理され、それぞれ憲兵が配置されて監視していた。境界が有刺鉄線で区分されている例もあった。収容所の間での移動は禁じられ、違反すれば「カナアミ」と称する有刺鉄線で囲んだ仮拘置所に留置された。収容所の内部的管理については自治体風の形式を採り、収容所ごとに「メイヤー」(市長)や民警察(CP)といった役職を任命して、物資配給や労務者の供出などの実務を行わせた[31]。
アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。一例として、浦添村(現浦添市)の場合、全犠牲者の1割以上にあたる312人は、収容所での生活中に死亡している[32]。
また、収容所および米軍の占領地域では、米軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致、暴行、強姦も多数証言されている[33]。戦争の終結後も暴行は続き、たとえば、「南部戦線の戦闘が終結してからはとくに米兵たちは横暴になり、昼夜を分かたず強姦事件が頻発していた。収容所では米兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたたいて女性たちを避難させるさわぎが続いた。」とも[34]、「戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。」ともいわれる[35]。
なお、前述の日本兵による住民殺害事件にも、渡野喜屋事件のように米軍管理下の民間人が殺傷された例がある。
沖縄戦についてのアメリカ軍による評価
圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。これについて八原参謀の作戦計画は、反対斜面陣地と野戦重砲兵の支援砲撃を前提として挑んだ『寝技戦法』とも呼ばれた。この作戦は、強力なボクサーを相手に柔道家が寝技に持ち込み、相手のパンチを防いで得意の接近戦で敵の戦意を挫こうとするものであった。それには、まずアメリカ軍の大部隊を、展開が困難でかつ航空支援や援護砲撃が不可能な日本軍陣地の100~200m程度の直前まで誘導する。そして日本軍は小銃、軽機関銃、擲弾筒で掃射して戦車部隊と歩兵部隊を分離させる。急速前進を余儀なくされた敵戦車は地雷、速射砲、歩兵の肉弾戦によって破壊する。そして駆けつけてきた敵の増援部隊を、精密測量した地域に釘付けにして味方野戦重砲の砲撃により叩くことが基本戦術であった。唯一の有効兵器は満州から転出してきた野戦重砲という状況において、八原の戦術的判断は的を射ている。 また、八原戦術を理解し、その実行を委ねた牛島満中将は、自身の出生地である薩摩に伝承される捨て奸を意識していたといわれる。
史跡
特に戦闘が激しかった本島南部は「沖縄戦跡国定公園」に指定されている。日本国内の国立公園や国定公園の中で戦跡であることを理由に指定されているのは現地だけである。なお、海軍部隊大田司令官が自決した海軍司令部壕跡は現在「海軍壕公園」として整備されており、壕内の一部が見学できる他、資料館が併設されている。一方、沖縄守備軍牛島司令官と長参謀長が自決した壕は現在平和祈念公園となっている区域の中にあり、壕の近くには「黎明の塔」が建てられている(塔の手前の展望台の下に壕があり、入口までは階段で降りることができる。内部は立入禁止)。平和祈念公園内には県立平和祈念資料館や平和の礎(へいわのいしじ)がある。
ひめゆりの塔の敷地内にはひめゆり平和祈念資料館がある。また、南風原町の陸軍病院壕一帯は黄金森(こがね もり、方言名「クガニ ムイ」)公園となっており、近くにある南風原文化センターには資料室が設置されている他、2007(平成19)年6月から第20号壕が南風原町によって一部復元され、一般公開されている。
読谷村と北谷町には「米軍上陸の地」碑がある。また、最初の激戦地となった嘉数高地は嘉数高台公園となっており、複数の慰霊塔がある他、トーチカの跡が残っている。
米軍司令官が戦死した真栄里の高台には「サイモン・ボリヴァー・バックナー・ジュニア中将戦死の碑」が建てられている。周辺はその後アメリカ軍による報復戦が行なわれたのに加え、追い詰められた日本軍が最後の戦闘を繰り広げたため、それに巻き込まれた住民の一家全滅が極めて多い地域である。また、戦死者も多いことから「白梅の塔」など多くの慰霊塔が建てられている。
これら以外にも、戦時中に避難先に使用されたガマの一部が見学可能となっている他、平和祈念公園や米須霊域の一帯、糸満市内を中心として慰霊塔や慰霊碑が島内全域に無数に存在している。
嘉手納基地内には、旧日本軍の滑走路の近く、昭和20年9月7日の沖縄戦の降伏文書調印式が行われた場所に平和公園 peace parkが作られた。屋外であるが、約1メートルの碑に各種の文書がみられる。米軍と日本人の共同で作ったとある。
沖縄戦で失われた国宝
建造物
- 沖縄神社拝殿(首里城正殿)(大正14年4月14日指定)
- 首里城守礼門、歓会門、瑞泉門、白銀門(昭和8年1月23日指定)
- 園比屋武御獄石門 (昭和8年1月23日指定)
- 崇元寺尚家霊廟(昭和8年1月23日指定)
- 円覚寺尚家霊廟(昭和8年1月23日指定)
- 冕獄石門(昭和8年1月26日指定)
- 末吉宮本殿(昭和11年9月18日指定)
- 沖宮本堂(昭13年7月4日指定)
沖縄戦全体を描いた映像作品
- ドキュメンタリー
脚注
- ^ 本土決戦は1945年1月の『帝国陸海軍作戦計画大綱』、『決戦非常措置要綱』等を元に1945年後半を想定して決戦準備がなされていた。
- ^ 沖縄戦は本土決戦への時間稼ぎ、いわゆる「捨石作戦」(出血持久作戦)であったといわれる[1]。
- ^ 数値は、ジョージ・ファイファー『天王山』による
- ^ 日本語の呼称「鉄の暴風」は、1950年に刊行された沖縄タイムス社編『鉄の暴風』に、英語での呼称the Typhoon of Steel(鉄の台風の意味)はベローテ兄弟の同名の著書にちなむ。
- ^ ただし、沖縄県出身者の死者15万人以上という一部研究者による推計値もある。
- ^ 4000人近くの将兵が死亡し、目的地に到達したのは約600人だった。
- ^ 第9師団は1944年12月中旬から翌45年1月中旬にかけて台湾へ移動していった。
- ^ Appleman, pp.4, 23.
- ^ 旅団の海没による損失を受け、1944年7月に空輸により急遽補充された。
- ^ 戦車第2師団の師団捜索隊を改編し、1944年7月に第32軍編入。
- ^ Appleman, pp.475-481.
- ^ 碇義朗 『新司偵 キ46 技術開発と戦歴』 光人社、1997年、p.212
- ^ Appleman, p.148.
- ^ 豊田純志「『読谷村戦没者名簿』からみた戦没状況」『読谷村史 第5巻』
- ^ Appleman, p.182.
- ^ アメリカ陸軍省編 外間正四郎訳『沖縄 ― 日米最後の戦闘』光人社、2006年(新装版)
- ^ 日本側証言でも、2002年に野戦重砲兵第1連隊の元・中隊長が長年の沈黙を破り、自分の指揮による砲撃だったことを公表している(琉球新報「沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん(東京在住)」2002年6月18日)。なお、この他、日本側には東京都出身の「小野一等兵」が小銃で狙撃したという証言もあるが、厚生省によると該当する兵士の存在は確認されていない(琉球新報「1等兵が狙撃した」2010年1月14日)
- ^ 碇義朗 『新司偵 キ46 技術開発と戦歴』 光人社、1997年、p.214
- ^ 八原博通は、のちに司令部内部の出来事の貴重な証言をしているが、自ら立案した作戦が多数の住民の死を招いたことから自責の念に駆られ、知人の招きでも再び来島することはなかった。
- ^ 沖縄県公文書館 米国政府撮影写真/占領初期沖縄関係 陸軍1
- ^ 軍部隊への地下壕明渡しが大半を占める。大田「総史沖縄戦」208頁。
- ^ a b c d e 惠隆之介 「虚構の『軍命令・強制説』の復活を許さない国民決起集会」(2007年11月13日)における証言
- ^ 疎開者数を8万とする史料もある。
- ^ 以上、この章の主な出典は田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』
- ^ 「チビチリガマでの『集団自決』」『読谷村史 第5巻』
- ^ 『臨時増刊 沖縄戦と「集団自決」―― 何が起きたか、何を伝えるか』 世界764号、岩波書店、2008年。
- ^ “In Okinawa, US troops are estimated to have raped 10,000 Japanese women during World War II” [2]
- ^ "But by one academic's estimate, as many as 10,000 Okinawan women may have been raped and rape was so prevalent that most Okinawans over age 65 either know or have heard of a woman who was raped in the aftermath of the war."in "3 Dead Marines and a Secret of Wartime Okinawa" New York Times, June 1, 2000
- ^ 2004年8月28日長周新聞沖縄戦と占領への新鮮な怒りを
- ^ http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-8595-storytopic-1.html
- ^ a b 読谷村史編集委員会(上巻)、安仁屋政昭「捕虜と難民 ―収容所の開設」
- ^ 藤原100頁。
- ^ 2004年8月28日長周新聞沖縄戦と占領への新鮮な怒りを
- ^ 沖縄県の百年 Page 237。
- ^ 米軍政下にみる子どもと女性の人権ーー凌辱される生命……安里英子(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)
- ^ NHKスペシャル|昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~
関連文献(著者名順)
総説
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- 沖縄タイムス社(編)『鉄の暴風 沖縄戦記』(第10版)、沖縄タイムス社、1993年 - 『鉄の暴風 現地人による沖縄戦記』(朝日新聞社、1950年8月)を改題
- 防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書(11) 沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社、1968年
- 防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書(17) 沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社、1968年
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テーマ史・研究書
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- 石原昌家ほか『争点・沖縄戦の記憶』社会評論社、2002年、ISBN 4784514201
- 上原正稔『沖縄戦トップシークレット』沖縄タイムス社、1995年
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- 大田昌秀『血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦』那覇出版社、2000年、ISBN 4890951296
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- 大田昌秀『沖縄戦下の米日心理作戦』岩波書店、2004年、ISBN 400022381X
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- 藤原彰(編著)『沖縄戦 国土が戦場になったとき』青木書店、2001年、ISBN 4250201392
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- 吉田健正『沖縄戦米兵は何を見たか 50年後の証言』彩流社、1996年、ISBN 4882024071
体験記
- 安里要江、大城将保(共著)『沖縄戦ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった…』高文研、1995年、ISBN 4874981550
- 親里千津子『ちーちゃんの沖縄戦』ニライ社、1994年、ISBN 4931314104
- 小橋川千鶴子『黒砂糖のかけら チーコの沖縄戦日記』耕文社、2002年、ISBN 4906456286
- 神直道『沖縄かくて潰滅す』原書房、1967年
- 創価学会青年平和会議編『命(ぬち)どぅ宝 沖縄戦・痛恨の記憶』第三文明社〈レグルス文庫〉、2003年、ISBN 4476012442
- 武田英子『いくさ世(ゆー)にいのち支えて 沖縄戦を生きた助産婦の記録』ドメス出版、1992年、ISBN 4810703436
- 富村順一『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』柘植書房、1995年、ISBN 4806803588
- 仲田精昌『島の風景 少年の心に記録されたもうひとつの〈沖縄戦〉』晩声社、1999年、ISBN 4891882891
- 船越義彰『狂った季節 戦場彷徨、そして――。』ニライ社、1998年、ISBN 4931314287
- 真鍋和子『いのちの重さ伝えたい 沖縄戦1フィート運動と中村文子のあゆみ』講談社、2004年、ISBN 4062123584
- 宮城晴美『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』高文研、2000年、ISBN 4874982492
- 宮城巳知子『ずいせん学徒の沖縄戦 最前線へ送られた女学生の手記』ニライ社、2002年、ISBN 4931314538
- 八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』読売新聞社、1972年
- 松木謙治郎『阪神タイガース 松木一等兵の沖縄捕虜記』恒文社、1974年
- 山城高常『戦場のトンボ 少年がみた沖縄戦』ニライ社、1995年、ISBN 4931314163
- 吉田久一『八重山戦日記』ニライ社、1999年、ISBN 4931314325
- 歴史を拓く女の会(編)『オキナワいくさ世のうないたち いたみの共有』ドメス出版、2004年、ISBN 4810706273
- ユージーン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』講談社学術文庫、2008年8月、ISBN 978-4-06-159885-0 (ISBN 4-06-159885-6)
その他
- 大田昌秀(監修)『沖縄戦 写真集』那覇出版社、1990年 [6]
- ひめゆり平和祈念資料館『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック』(新版)、2004年
- 成沢未来『沖縄哀歌』里文出版、2007年
関連項目
外部リンク
- 沖縄戦関係資料閲覧室 - 内閣府沖縄振興局
- 写真が語る沖縄 - 米国政府占領初期写真資料(住民) - 沖縄県公文書館
- 沖縄県平和祈念資料館
- 沖縄戦史
- 沖縄気象台の沿革と沖縄戦 - 沖縄気象台元職員個人サイト。戦時中の気象データなど
- 沖縄戦の記憶・本館・沖縄戦の記憶・分館
- 沖縄戦 - 松山大学法学部教授・田村譲個人サイト
- Battle of Okinawa Battle of Okinawa - グローバルセキュリティー(サイト第三者による和訳として「沖縄戦の経過について」)
- WW2DB: 沖縄戦
- Okinawa: The American Years, 1945-1972 - アメリカの外交史専門家Nicholas Evan Sarantakesが収集・公開している米軍の沖縄上陸から沖縄の日本復帰までの史料
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