源田実
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 源田 實 | |
|---|---|
| 1904年8月16日 - 1989年8月15日(満84歳没) | |
| ファイル:Minoru Genda.jpg | |
| 生誕地 | 広島県 山県郡加計町 |
| 死没地 | 愛媛県 松山市 |
| 所属組織 |
大日本帝国海軍 航空自衛隊 |
| 軍歴 |
1924 - 1945(日本海軍) 1954 - 1962(空自) |
| 最終階級 |
海軍大佐(日本海軍) 航空幕僚長たる空将(空自) |
源田 実(げんだ みのる、源田 實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は日本の広島県山県郡加計町出身の大日本帝国海軍軍人、航空自衛官、政治家である。海軍における最終階級は大佐、航空参謀を務めたこともある。特攻隊戦術の考案者の一人。戦後は初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長、参議院議員等を務める。広島一中卒、海兵52期、海大卒。山本五十六と共に、太平洋戦争における日本海軍を代表する人物である[1]。
目次 |
経歴
- 歴任
- 真珠湾攻撃・作戦参謀
- 海軍航空隊司令
- 航空幕僚長
- 参議院委員会常任委員
- 自民党航空対策特別副委員長
- 自民党基地対策特別副委員長
- 自民党安全保障特別委員
- 自民党国防部会長
生涯
海軍航空搭乗員へ
源田実は、Template:Safesubst:8月16日広島県山県郡加計町(現・山県郡安芸太田町)で農家を営む源田春七の六男二女の次男として生まれた。Template:Safesubst:、海軍兵学校に海兵52期として入学する。同期に高松宮宣仁親王、柴田武雄、淵田美津雄、福地周夫らがいる。源田は小柄だったが身体は頑健であったという[2]。Template:Safesubst:2月、海軍砲術砲術学校普通科学生(少尉)時に航空関係の講習・身体検査・操縦を受ける[3]。この時点では入隊せず、装甲巡洋艦「出雲」勤務を経て、Template:Safesubst:12月に12月霞ヶ浦航空隊に入隊、第19期飛行学生を拝命する[4]。水雷の道を選ぼうとしていた源田は『この転勤辞令ぐらい嬉しいと思った辞令は、海軍生活二十四年間を通じて、一度もなった』と回想している[5]。当時の日本海軍航空隊は揺籃期であり、練習航空隊は霞ヶ浦だけ、基地航空隊は3箇所(横須賀、大村、佐世保、各航空隊)、航空母艦は「鳳翔」「赤城」があるのみだった[6]。
航空機搭乗員としての経歴を積み始めた源田は、Template:Safesubst:12月、横須賀海軍航空隊戦闘機分隊に配属となった[7]。翌年2月、多段式空母「赤城」に戦闘機分隊第二小隊編隊長(一〇式艦上戦闘機)として着任した[8]。12月、大尉(横須賀航空隊付)[9]。日本海軍は英国からチャッペル少佐とウィンゲート大尉を招いて航空教官とし、源田も講義を受けている[10]。戦闘機による制空権奪取の重要性を説いたチャッペル少佐に対し、源田は『チャッペル少佐の講義を、頭の中に畳み込んで、後日実戦に適用したものは、ほとんど私一人だけではないかと思う』と自賛している[11]。Template:Safesubst:2月、再び「赤城」配属となった[12]。12月、霞ヶ浦航空隊分隊長(教官)として後進の指導にあたるが、1名は事故死、1名は日華事変で殉職、古賀清志は五・一五事件の首謀者となり、源田が教育した搭乗員がパイロットとして活躍することはなかった[13]。
源田サーカス
Template:Safesubst:7月、第一次上海事変において日本海軍は空母「加賀」「鳳翔」を投入。「加賀」所属機が海軍航空隊初の撃墜を記録すると同時に、戦死者も出した[14]。源田は著作の中で日中両軍の損害を検討し、お互いの戦果・損害記録が噛みあわない事を指摘、政略的意図のない双方の歴史調査のみが真実を明かすとしているが、戦場での勝敗は『「最後に戦場の支配権は、どちらが握ったか?」ということが判定の基準である。』と述べている[15]。柴田武雄によれば、源田は情報収集のため上海方面に派遣され、帰隊すると士官室で模型を使って空中戦の様相を説明した[16]。すると学生達は異口同音に「源田さんは偉い」と呟きはじめ、柴田は源田が持つ不思議な力に驚いたという[17]。
この頃、国民からの寄付による軍への飛行機の献納が盛んに行われ、源田は日本各地で行われた献納式のパイロットを務めた。彼が率いる九〇式艦上戦闘機三機編隊による巴宙返り、編隊宙返りは各地で人気を博し、“源田サーカス”と呼ばれ親しまれた[18]。柴田武雄(源田と同期)は「見せ物飛行」と批判し、着陸・着艦は下手だったとしている[19]。源田の自著によれば、平時訓練中に危険な事故を10回、9機の飛行機を破壊しており、イギリスから帰国した後にも九六式艦上戦闘機で空母「加賀」に着艦を試み脚部を壊している[20]。
Template:Safesubst:12月、空母「 龍譲」分隊長 (兼横空付教官)配属。Template:Safesubst:11月、横須賀航空隊分隊長。大西瀧治郎も副長兼教頭して着任している[21]。折りしも三菱重工の九試単座戦闘機(設計者は堀越二郎。後に零式艦上戦闘機設計者)のテストが行われており、源田は他社戦闘機と比較して『特に勝れているとも感ぜられなかったけれども』『不安が残っていたのは格闘戦性能である』と評した[22]。航空技術廠の会議では、大西の指名を受け横須賀航空隊を代表し『対戦闘機戦では格闘性能が重要』『単葉機は複葉機に比べ格闘性能に劣る』『旧式の九五式艦上戦闘機の方が優秀』と所見を述べる[23]。ところが九試単座戦闘機と九五式戦の模擬空戦で九試が勝利、会議において源田は自説を取り消す羽目になり、大西に慰められている[24]。源田と大西が同部隊勤務だったのは本年度横須賀航空隊のみであるが[25]、料亭で大西が第二次上海事変における実戦経験を源田に聞かせるなど、親密な交流があった[26]。その反面、源田の後任として着任した柴田武雄は戦闘機重視の立場を取り、戦闘機無用論を自説とする大西から酒の席でとはいえ辞職をせまられるなど、激しく対立している[27]。
Template:Safesubst:10月、源田は大西の説得により海軍大学校に入学、 海軍大学校甲種学生となった[28]。翌年4月、源田(少佐)は海軍軍備の中核を基地航空隊と機動部隊とし、潜水艦戦力で支援、巡洋艦・駆逐艦は最小限保有、戦艦はスクラップ乃至繋留して桟橋の代用とするという作戦課題論文を提出する[29]。当時航空本部教育部長の大西(航空本部長は山本五十六)、三和義勇少佐、小園安名少佐らも戦艦無用論・航空主兵論を唱えており[30]、源田の主張もその流れの一つであった[31]。末国正雄(海軍大学校同期)によれば、この論文が恩賜の一因になったという[32]。なお源田は第三次海軍軍備補充計画における大和型戦艦2隻(大和、武蔵)の建造を厳しく批判しているが[33]、同計画では翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)の建造も決定している。
日中戦争
源田の海軍大学校卒業が近づいていたTemplate:Safesubst:7月に盧溝橋事件が勃発、日中の軍事衝突は第二次上海事変、日中戦争へと発展した[34]。日本海軍航空隊は九六式陸上攻撃機による爆撃を敢行したが、予想以上に優秀な中国空軍によって大きな損害を受けた[35]。基地航空隊だけでなく、空母「加賀」から戦闘機の護衛なしで攻撃に向った八九式艦上攻撃機や九四式艦上爆撃機が中国空軍戦闘機によって大損害を受けるなど[36]、戦闘機無用論の弊害は実戦で一挙に噴出した[37]。源田は海軍大学校を恩賜の成績で卒業[38]。自著によれば、第二連合航空隊司令部所属の源田は、駆逐艦に便乗して青島に向い、有馬正文(大佐、第二遣シ艦隊司令部附)と共に現地調査を行っている[39]。本隊進出後は中国空軍戦闘機を駆逐するため九六式艦上戦闘機、九五式水上偵察機(爆装)、九六式艦上爆撃機による南京空襲を企図[40]、9月19日の戦闘では二回の空襲・空中戦で日本軍喪失4機:中国軍撃墜40機を記録して中国空軍戦闘機隊を壊滅させたとしている[41]。だが中国空軍を完全に封殺することはできず、日本陸海軍は泥沼の日中戦争に突入していった。源田はTemplate:Safesubst:1月に横須賀航空隊飛行隊長へ転出、前線から遠ざかっている。
Template:Safesubst:5月上旬、海軍甲空本部内で大西瀧治郎教育部長主催の「十二試艦戦に関する研究会」が開かれた[42]。横須賀海軍航空隊飛行隊長の源田少佐は対戦闘機格闘性能優先、柴田武雄海軍航空廠実験部部員は攻撃機隊掩護のため航続力と速力を重視し格闘力は妥協するという方針を示し、二人は激しく対立した[43]。源田と柴田の戦闘機に対する見解は、十二試戦を制式化した零式艦上戦闘機に大きな影響を与えている(#格闘戦への固執)。
Template:Safesubst:3月、源田は 駐英国大使館付武官補佐官としてイギリスに到着。Template:Safesubst:1月、ハインケル社の試作戦闘機He113の視察のため、2度ドイツに入国している[44]。8月に始まった第二次世界大戦のバトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)をイギリス側から体験したとされる[45]。源田は英国空軍の訓練をゴルフ場から観察し、あるいは欧州大陸における連合国空軍とドイツ空軍の戦闘記録を分析[46]。スーパーマリン スピットファイア戦闘機、ホーカー ハリケーン戦闘機の性能、搭乗員の能力を考慮し、ドイツ空軍の実力は英国空軍より劣り、英国空軍の実力も日本海軍戦闘機隊より相当低いと判断した[47]。その一方、英軍が制空権を握っている限り勝敗は早々につかないと報告、自著には「源田君の話を利いていると英国が勝つようなことになる」と苦言を呈されたとある[48]。
Template:Safesubst:9月初めに源田はイギリスを発ち、アメリカ経由で10月帰国[49]。平本道隆中佐の出迎えを受け、第一航空戦隊参謀に内定していることを知らされる[50]。海軍省の記者クラブでは新聞記者を前にバトル・オブ・ブリテンを語り、杉本朝日新聞記者は「話はさすがに迫力があった」という感想を抱きつつ英国が勝利するような印象を受けたという[51]。この頃、空母の集中配備という着想を得て実現に努力した[52]。空母の集中運用は航空隊の統一指揮がやりやすい、計画の変更が容易などの利点もあって米海軍も戦争後半で採用しているが、他方敵機の襲撃を受けた場合の護衛艦艇・護衛戦闘機の連携が難しい、空母が一網打尽になれるなどリスクもあり、真珠湾攻撃では長所を発揮、ミッドウェー海戦では弱点を露呈した形となった。源田は戦闘機と防御砲火の用法について深く研究すべきだったと回想している[53]。
Template:Safesubst:1月7日、山本五十六連合艦隊司令長官は及川古志郎海軍大臣に開戦劈頭におけるハワイ奇襲作戦を進言した[54]。山本は直属の連合艦隊司令部参謀達には相談せず、大西瀧治郎第十一航空艦隊参謀長に研究を依頼[55]。2月上旬、源田は大西に招かれ、山本の構想を打ち明けられると同時に、実行可能かどうかの研究を依頼される[56]。3月、源田は真珠湾攻撃が可能との答申を出した[57]。4月10日、南雲忠一司令長官、草鹿龍之介参謀長、源田実航空参謀を中核とする第一航空艦隊が編成される[58]。源田は自らが立案した作戦を、自らが実行することになった[59]。8月下旬には、兵学校同期で海軍大学校一期下、雷撃隊の指揮経験豊富な淵田美津雄中佐を「赤城」飛行隊長という前例のないポストで引き抜いている[60]。源田は日米開戦に向けて準備を進めたが、艦艇の洋上補給問題で悩まされた。10月10日、草鹿のアイデアにより空母「加賀」への洋上補給が成功、「加賀」に乗艦していた南雲は北方航路進撃を決意する[61]。だが源田は自分が南雲を説得したと主張している[62]。11月下旬、南雲機動部隊各艦は択捉島単冠湾に集結、源田は赤穂浪士の討ち入り前夜を連想した[63]。
太平洋戦争
快進撃
詳細は「真珠湾攻撃」を参照
太平洋戦争(大東亜戦争)の序盤おいて源田は真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦など、第一航空艦隊(通称、南雲機動部隊)の航空参謀として航空作戦を指導した。同艦隊の司令長官である南雲忠一中将は航空には全くの素人であり、また参謀長の草鹿龍之介少将も航空機より気球や飛行船に造詣が深い上に源田を信頼しており[64]、もう一人の航空参謀吉岡忠一は少佐である為、南雲機動部隊の航空戦に関しては源田の独擅場であった[65]。周囲からは「源田艦隊」と揶揄されることもあった[66]。これについて源田は親しい部下(淵田とも)に「起案した書類が無修正で通ってしまうので不安になる時がある」と打ち明けている[67]。
真珠湾攻撃は、米国民が激昂したことをのぞけば、戦艦4隻が大破着底[注釈 1]、戦艦2隻が大・中破するなど、米太平洋艦隊を行動不能する大戦果をあげた[68]。戦後、ゴードン・ウィリアム・プランゲ博士(連合国軍最高司令官総司令部情報部戦史室長)の調査に対し、源田と淵田は日本軍航空隊の反復攻撃を進言、無傷だった工廠施設・燃料タンクの破壊や、当時付近を航行中だった空母「エンタープライズ」「レキシントン」の撃沈を意図していたと証言した[69]。源田は著作中で『そんな進言はしていない』『トラ・トラ・トラ!の描写は嘘である』と反論[70]。だがプランゲと源田の会見を通訳していた千早正隆(連合艦隊参謀)は、源田が「第二撃の意見具申をしたんだが、採用にならなかったんだ」と明言したと述べている[71]。
Template:Safesubst:4月上旬のセイロン沖海戦では、英軍が日本軍の暗号を解読して防御体勢を整えており、淵田美津雄総飛行隊長が「第二次攻撃の必要性あり」を打電[72]、兵装転換中に英軍重巡洋艦が出現して魚雷装備→爆弾装備→魚雷装備へと混乱[73]、航行中に英軍爆撃機の奇襲により旗艦「赤城」が至近弾を受けるも、艦隊全員が爆撃を受けるまで気付かなかったなど[74]、ミッドウェー海戦の前触れともいえる展開となった。さらに源田は索敵を重視せず、南雲機動部隊の攻撃圏内にいたジェームズ・サマヴィル大将のイギリス東洋艦隊(戦艦ウォースパイト、空母インドミタブル、フォーミタブル等)を捕捉しそこねた[75]。源田は『その反省の不足は、二ヵ月後のミッドウェイに現れてきた次第である』と回想している[76]。なお中島親孝(第二艦隊通信参謀)が大石保(第一航空艦隊先任参謀)にセイロン沖海戦における「赤城」至近弾を戦訓として艦隊陣形を考慮するよう忠告したが、大石は「ウチじゃそういうこと言ったって、源田君がわれわれの言うことを聞いてやくれやしないよ」と嘆いている[77]。
この海戦の後、南雲機動部隊から第五航空戦隊(空母翔鶴、瑞鶴)が引き抜かれて井上成美(第四艦隊司令官)の指揮下に入り珊瑚海海戦に参加。「翔鶴」はSBDドーントレス急降下爆撃機の攻撃で大破、「瑞鶴」の損傷はなかったが多くの航空機と搭乗員を失い、戦力は半減した。南雲機動部隊の戦力も、空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4隻に低下している。源田の戦争初期の米軍航空隊に対する評価は低く、珊瑚海海戦で空母「翔鶴」が被弾したことを例に出し「80機で攻撃して3発命中じゃたいした腕じゃない」と評している[78]。ミッドウェー海戦でも、TBD デバステーターの雷撃を見て「たいした腕じゃない」と判断している[79]。
日本に帰国した後、南雲機動部隊では大規模な人事異動があって航空機搭乗員も多数転出。源田の同期で第二航空戦隊参謀だった鈴木栄二郎中佐も航空本部に転出、源田は相談役を失った[80]。源田・草鹿・山口は作戦準備のためミッドウェー作戦の延期を求めたが、山本長官以下連合艦隊司令部は却下した[81]。源田は航空隊の編成や飛行機の補充などで多忙な日々を過ごす[82]。海軍人事局別室に赴いた源田は猪原武雄機関少佐(航空機整備員担当)に整備員学校の教官や教員を要求する[83]。居合わせた大井篤中佐が拒否すると、源田は「こんどやったら、あとはみないらんようになるなんだから、次の戦争とか、計画なんていらんのですよ」と反発[83]。海軍航空本部(総務部長は大西瀧治郎)へ行くと言い捨てて出ていった[83]。5月中旬、次期艦上戦闘機烈風の要求性能について研究会が開かれ第一航空艦隊の参謀が出席、角田求士(横須賀海軍航空隊教官。防衛庁戦史編纂官)によれば、空母の脆弱性を指摘したところ全く耳を貸さなかったという[84]。
源田艦隊の壊滅
詳細は「ミッドウェー海戦」を参照
1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦では、戦闘数日前に高熱を出し、海戦当日は多少回復したものの、体調万全ではなかった[85]。偵察機が予期せぬ米軍機動部隊発見を報告したあと、山口多聞少将(第二航空戦隊司令官)の即時攻撃の意見具申を却下、兵装転換を指示したのも源田と草鹿参謀長の進言による[86]。これは前月の珊瑚海海戦の折、戦闘機の掩護のない日本軍攻撃隊が米軍戦闘機の迎撃により大損害を被っており、戦闘機の掩護なしでの攻撃隊発進は無謀と判断したためである[87]。これに加えて源田自身は「図上演習なら第二次攻撃隊を優先させたが、実際には、第一次攻撃隊の搭乗員に不時着しろと命令できなかった」と回想している[88]。もう一人の航空参謀である吉田少佐も、米軍機動部隊との距離が相当あると判断したため、攻撃力集中の観点から発進を遅らせたと述べている[89]。当時の南雲機動部隊に残っていた零式艦上戦闘機は上空防御のためすべて発進しており、攻撃隊に同行させるべき戦闘機は存在しなかった。
この後、日本軍は米軍機動部隊から発進したTBDデバステーター雷撃機の攻撃を撃退し、源田は『今日のいくさも勝ちいくさだ。まず敵母艦からの来襲機を撃滅し、次いで敵の母艦群れを葬り去って、ミッドウェイは今夜から明朝にかけて叩き潰してやろう』と考えたという[90]。南雲機動部隊が米軍機動部隊に向けて攻撃隊の発進準備を終えようとしていた時、SBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲により、日本軍は空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」を一挙に失う。源田が乗艦する旗艦「赤城」は大火災を起こし、南雲司令部は全員、軽巡洋艦「長良」に移乗した。南雲司令部に同行した牧島カメラマンによれば、源田は「翔鶴と瑞鶴がいれば…」とつぶやいたという[91]。後年、源田の同期生である福地周夫がこのエピソードについて聞くと、源田は憤激して否定した[92]。もっとも戦後の回顧録において、連合艦隊司令部があと1ヶ月作戦を遅らせれば空母「翔鶴」「瑞鶴」「飛鷹」が戦列に加わり、有利に戦えたとしている[93]。また南雲機動部隊4空母のうち、最後まで奮戦していた空母「飛龍」が米軍機の攻撃で炎上した際には「戦争中に3度がっかりした瞬間がある。一つはマリアナ沖海戦で負けた時、もう一つは終戦、最後は飛龍がやられた時だ」と回想している[94]。
同海戦の敗戦は、源田を含めた南雲司令部の判断と同様に、山本五十六連合艦隊司令長官の作戦計画が根本から間違っていたり、無理があったという批判が古村啓蔵少将[95]、松田千秋(戦艦日向艦長)[96]、淵田美津雄中佐[97]、三代辰吉(軍令部中佐)[98]、木村進(第十戦隊司令官)[99]等、前線部隊・作戦司令部将兵問わず多数存在する。源田自身も、日本軍の第一目標がミッドウェー島攻略であったことを指摘した上で「敵の機動部隊の事を想像すると不安でたまらなかった。山本は立派な人物だが、戦略戦術から言って、どうも納得できない部分があった。戦艦主兵か航空主兵か曖昧で、なぜ大和と戦艦群が機動部隊の後ろからついてくるのだ」と評している[100]。その一方、柴田武雄によれば、源田が『真珠湾はオレがやったんだ、お前らぐずぐずしていると、オレがみんなやってしまうぞ』と各方面で高言していたことから、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」被弾の無線が飛びこむと、第三航空隊の士官室で"ザマー・ミヤガレ"という罵声があちこちからあがったという[101]
南雲忠一中将と草鹿龍之介参謀長は「翔鶴」「瑞鶴」を中核とする第三艦隊の指揮官としてそのまま機動部隊の指揮を執ったが、源田は「瑞鶴」飛行長を命じられた。第三艦隊に戦務参謀として着任した末国正雄中佐によれば、留任した吉岡参謀は末国に「三艦隊司令部は一航艦司令部とは格が違う。この司令部がミッドウェーに行っていたら、あんな戦いはしなかった」と述べ、末国は『一航艦は理論的でなく、カンで荒っぽくやっていたんじゃないか』と推測[102]。瑞鶴飛行長時代の源田については印象がなく、戦後も源田はミッドウェーの話をしなかったと述べたている[102]。9月下旬、源田は臨時十一航空艦隊参謀としてラバウルに赴任[103]。ガダルカナル島を巡る戦いでは、陸海軍戦闘機を集中して制空権を掌握する計画を提案し、軍令部も同意したが、陸軍との交渉で挫折している[104]。自著では、マラリアに感染して入院し、ほとんど戦局に寄与しなかったと述べている[105]。11月下旬、軍令部部員(作戦課)兼大本営海軍参謀として日本に戻り、再び日本海軍の航空に影響力を発揮しはじめた[106]。B-17爆撃機に匹敵する大型爆撃機「十八試大攻(連山)」の開発計画を進めたが、同機は終戦までに完成しなかった[107]。
日本海軍航空隊の敗北
Template:Safesubst:4月、山本五十六連合艦隊司令長官が海軍甲事件で戦死。それ以降、日本海軍はろ号作戦、ギルバート諸島沖航空戦、トラック島空襲と数々の航空戦で敗北を重ねていた。Template:Safesubst:2月、米軍機動部隊がマーシャル諸島に来襲してメジュロ環礁を根拠地とすると、源田は泊地を襲撃する雄作戦を立案する[108]。機動部隊の空襲に呼応し、水陸両用装軌車「特四式内火艇」が泊地水中攻撃(竜巻作戦)を敢行するという奇襲作戦であった[109]。だが実施2ヶ月前の3月31日、古賀峯一連合艦隊司令長官が海軍乙事件で遭難死、計画は中止となった。戦後、源田は『今考えると、実施したとしても、当方が予期したような成果を挙げることが出来たかどうか、大いに疑問である』と回想している[110]。軍令部情報部にいた吉田俊雄は雄作戦の中止を「幸か不幸か」と表現した[111]。
詳細は「マリアナ沖海戦」を参照
日本海軍は豊田副武海軍大将を連合艦隊司令官として立直しをはかり、マリアナ・パラオ諸島の戦いにおいて米軍を迎撃すべく「あ号作戦」を発動する。豊田の幕僚に源田の盟友淵田美津雄がおり、航空作戦の計画はやりやすかったという[112]。源田は基地航空隊を主力とする第一航空艦隊の発案を行い[113]、同部隊は大本営直轄となった。特に第一航空艦隊は搭乗員から将校まで航空戦の精鋭達で編成されていたという[114]。この部隊の中核人員は、作戦参謀淵田中佐、戦闘機隊隊長指宿正信大尉、夜間戦闘機隊隊長下田一郎大尉、銀河部隊隊長江草隆繁少佐等、いずれも真珠湾攻撃時の南雲機動部隊メンバーであり、「源田一家」という評判があった[115]。
軍令部は決戦海面を西カロリン諸島南方、連合艦隊はパラオ島付近を想定、軍令部作戦会議に参加した大井篤(海上護衛総司令参謀)によれば、米軍がマリアナ諸島方面に来襲することを懸念した意見に対し源田は「いや、ぜったいにカロリンです」「いや、そんなことは航空のわからん人が言うことです」と断定したという[116]。結局、日本海軍はビアク島への上陸作戦に動揺して渾作戦を発動[117]、第一航空艦隊は移動と戦闘により半減し、搭乗員もマラリアに感染、米軍と戦う前に6月11日時点で436機だった航空兵力が6月18日時点で156機になっている[118]。自著の表現どおり「自滅」であった[119]。第一航空艦隊と小沢治三郎海軍中将が指揮する第一機動艦隊は各個撃破され、6月19-20日のマリアナ沖海戦において小沢機動部隊は主力空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)と殆どの航空兵力を失って壊滅した。源田は『南洋諸島のように、各基地が数百カイリ以上も離れて孤立し、相互支援が十分に利かないところでは、たとえ不沈の陸上基地といえでも、母艦群の圧倒的な兵力には抗じ得ないことが多い』と人事のように評価している[120]。
詳細は「台湾沖航空戦」を参照
「あ号作戦」の失敗後、神重徳軍令部作戦課部員は戦艦「大和」艦長となることを望み、『大和、武蔵以下全水上艦艇でサイパンに突入する』と主張、源田も陸海軍全戦闘機を動員した同じような計画を建てているが、陸軍との合意がつかず、実行されないうちにサイパンの戦い・テニアンの戦いによりマリアナ諸島は陥落した[121]。7月23日、源田はT攻撃部隊(暴風雨に敵を攻撃する航空部隊。Tは台風の頭文字)による夜間雷撃作戦を発案、連合艦隊に提案する[122]。豊田副武連合艦隊司令長官は源田と軍令部の作戦案を採用するが、福留繁(第二航空艦隊司令長官、T攻撃部隊最高指揮官)は通常の夜間攻撃を第一にして悪天候攻撃は最後の切札とすると主張、豊田と伊藤整一軍令部次長も「不能のときは無理をすることはない」と福留に判断を一任した[123]。
10月10日以降、ウィリアム・ハルゼー中将の第3艦隊(第38任務部隊を主力とする機動部隊)は沖縄・台湾方面に来襲、日本陸海軍航空隊は10月12日から16日にかけて反撃し、台湾沖航空戦が発生した[124]。夜間攻撃で重要な役割を果たすべき航空機用レーダーは訓練の時から故障が続出、信頼できるものは飛行艇で1/2、陸攻と艦攻で1/4-1/5程度しかなかった[125]。日本軍は312機を失い、「轟撃沈 航空母艦11隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 巡洋艦若(もしく)は駆逐艦1隻。撃破 航空母艦8隻 戦艦2隻 巡洋艦4隻 巡洋艦若は駆逐艦1隻 艦種不詳13隻。撃墜112機」と大本営発表を行う[126]。土肥一夫(軍令部第一課部員)によれば、源田は「鼻高々であった」という[127]。しかし実際の米軍被害は航空機89機喪失、巡洋艦「キャンベラ」「ヒューストン」大破、空母「フランクリン」「ハンコック」と巡洋艦「レノ」小破にすぎなかった[128]。T部隊について源田は「大成功だ、これで敵の進撃を食い止めることができた」と考えていたとしている[129]。
源田と紫電改
Template:Safesubst:10月24-26日のレイテ沖海戦で日本海軍は大敗北を喫する。続くフィリピンの戦い (1944-1945年)において大西瀧治郎第一航空艦隊司令長官は特別攻撃隊による体当たり攻撃を発令した(源田と特攻の関係性は後述)。日本が連合国軍に制空権を奪われていたこの年、「時代は制海権から制空権に移った。制空権をとった方が戦闘の主導権を握る。その制空権が取れないのは戦闘機が弱いからだ、ならば精強な戦闘機隊で制空権を奪回し、本土に押し寄せる連合軍を撃退する」[130]と主張し、「冥土の土産」として自分のための戦闘機隊を編制した[131]。自身の「航空の源田」という名声と政治力を生かし他の航空隊から強引に練度の高い搭乗員を引き抜き、新鋭の戦闘機紫電改の大部分を集中配備させ、メーカーの川西の支援が受けやすく、海軍徳島燃料廠にも近く比較的燃料事情の良い愛媛県松山基地を根拠地として第三四三海軍航空隊(2代目)を設立し、12月25日に松山基地で開隊。Template:Safesubst:1月20日 自らがその司令官として松山基地に着任した[132]。
三四三空は優秀な機材、搭乗員を集めていたが、度重なる実戦参加を「訓練未了」を理由に拒否し続けていた。3月19日、来襲した米機動部隊の300機あまりの艦上機を迎え撃ち、このうち57機を撃墜、これに対し味方の空戦での損失は16機[注釈 2]という戦果をあげて初陣を飾った[133]。ただし、米軍の実際の損失は撃墜21機である。“剣部隊”と名づけられた第三四三空は、本土爆撃に飛来したB29にも多大な損害を与え、終戦に至るまでの防空戦で活躍したと喧伝された。しかし、戦後、日米双方の損失機数を付け合わせた結果、実際には撃墜機数より損失機数の方が多く、決して宣伝どおりの戦闘機隊などではなかった。源田実本人によれば、米空軍将校と対談した際に「ジョージ(紫電改のニックネーム)はお前の部隊だったのか。あの部隊は強かった」と賞賛されたと主張し[134]、「圧倒的不利な条件下ではまあまあの戦いが出来た」と評価している[135]。同隊で戦死した菅野直、杉田庄一に対しては、源田が2階級特進を具申している。6月 兼、第352航空隊司令、 8月15日の終戦を大村基地で迎えた。10月 佐世保鎮守府付 。11月 予備役編入 。戦争そのものについては「日本人は勝ち戦には強いが、負け戦には弱い。調子がいい時はいいが、悪くなるとうんと悪くなる。日本人の性格だ」と述べている[136]。
- なお、剣部隊の活躍は1963年(昭和38年)にちばてつやの戦記漫画『紫電改のタカ』や、同年に劇場公開された東宝映画『太平洋の翼』でも描かれ“源田司令”は“山本五十六長官”のように太平洋戦争のアイコンとして広く知られるようになった。ただし『紫電改のタカ』では菅野直らと共に実名で登場するが、司令という立場もあって源田自身が活躍する場面はほとんど無い[137]。『太平洋の嵐』では、三船敏郎扮する“千田航空参謀”の名前で登場する[138]。千田航空参謀は特攻作戦に強硬に反対する人物として描かれている。
戦後
戦後、防衛庁入庁前に川南工業に入社していた為、三無事件(さんゆうじけん)において、源田は首謀者側との接触を疑われる。
Template:Safesubst:、問題となったロッキードF-104J・DJの防衛庁引渡しを期に航空自衛隊を退職した。
同年7月、参院選に自由民主党公認で全国区から出馬し第5位で当選。陸軍参謀出身の辻政信の得票を上回る73万票を集めた。以降4期24年務めたが、職業軍人の経歴から文民統制の問題もあり、入閣することはなかった。党務として自由民主党国防部会長などを歴任するなど国防族の重鎮として防衛・憲法問題(一世一元の制[139]、建国記念の日政府行事実施[140]等)に取り組む。党内では、初当選当初は参院重宗派に所属、その後田中角栄派(木曜クラブ)にも所属したが、他の練達した党人政治家などとは駆け引きなどの政治的能力は比ぶべくもなく、政局などにおける影響力は大きくはなかった。その一方、稲川会系列の右翼団体大行社を公然と全面支援するなど暴力団との癒着もあり、政治家としての後半生についても賛否が分かれている。
晩年の数年間は、厚木市愛名の自宅近辺を愛犬と散歩する姿がよく見かけられた。85歳の誕生日を迎える前日、44回目の終戦の日でもある1989年(平成元年)8月15日、松山市内の病院で脳血栓のため死去[141]。享年84歳。
年譜
- Template:Safesubst:8月16日、広島県山県郡加計町(現・山県郡安芸太田町)の農家に六男二女の次男として生まれる[142]。
- Template:Safesubst:
- Template:Safesubst:7月24日、236名中17番で海軍兵学校を卒業、少尉候補生[142]。
- Template:Safesubst:12月、 少尉 。
- Template:Safesubst:
- Template:Safesubst:12月、霞ヶ浦航空隊に入隊、飛行学生拝命[142]。
- Template:Safesubst:12月、第19期飛行学生修了(横須賀航空隊付)[144]。
- Template:Safesubst:2月、「赤城」乗組。12月、 大尉(横須賀航空隊付)。
- Template:Safesubst:
- 6月、「赤城」乗組。
- 12月、霞ヶ浦航空隊分隊長。
- Template:Safesubst:12月、横須賀航空隊付[145]。
- Template:Safesubst:12月、「 龍譲」分隊長 (兼横空付教官)[146]。
- Template:Safesubst:11月、横須賀航空隊分隊長。
- Template:Safesubst:
- Template:Safesubst:11月15日、少佐[150][151]、第2連合航空隊参謀[152]。
- Template:Safesubst:
- Template:Safesubst:
- 1月、横須賀航空隊飛行隊長。
- 11月、駐英国在勤帝国大使館付武官補佐官兼航空本部造兵監督官[158]。
- Template:Safesubst:
- 3月、英国到着。
- Template:Safesubst:
- Template:Safesubst:4月1日、第1航空艦隊航空甲参謀[161]。
- Template:Safesubst:12月、大本営軍令部第1部第1課部員。
- Template:Safesubst:
- 1月、第343海軍航空隊司令官。
- Template:Safesubst:12月、極東軍事裁判にて、第二聯合航空隊参謀として、爆撃に関する根本方針(支那事変)[162] と第一航空艦隊参謀として、真珠湾攻撃の立案と実施[163]について供述。
- Template:Safesubst:防衛庁入庁。航空幕僚監部装備部長。
- Template:Safesubst:航空自衛隊航空団司令。
- Template:Safesubst:臨時航空訓練部長、空将。ジェット機の操縦資格を取得。
- Template:Safesubst:航空集団司令。
- Template:Safesubst:航空総隊司令。
- Template:Safesubst:
- Template:Safesubst:
- 4月7日、航空幕僚長辞任、退官。最終階級は空将。
- 7月、第6回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から出馬し第5位で当選。
- Template:Safesubst:3月21日、楢本神社 関行男慰霊碑除幕式に出席。
- 1989年(平成元年)8月15日、松山市内の病院で脳血栓のため死去[165]。享年84歳。
人物批評
大日本帝国海軍軍人の中では有名で、戦後多くのメディアに登場したために肯定的評価を受けることもしばしばあった。しかし没後は批判的な人物評価が増えてきた。それらの批判的意見を総合すると「海軍において最も航空機の価値を理解した人物に思われていたが実際の航空機に対する理解は偏狭な部分があり、専門としていた戦闘機以外の機種にその傾向が多く運用方法に多くの疑問があった」と言われる。
源田は良くも悪くも海軍航空の中心人物であったが、真珠湾攻撃や343空の成功の裏に、ミッドウェー海戦やマリアナ沖海戦、台湾沖航空戦、航空特攻などにおける失敗があり、彼の責任は極めて重い。
実戦経験が無いことからパイロットとしての実戦能力に関し疑念が呈されることもある。だが、海軍航空隊発祥の地の海軍航空の総本山で、優秀な搭乗員と重要な実験的任務が多い横須賀海軍航空隊での任務や実戦ではない“源田サーカス”と当時呼ばれていたアクロバット(曲技飛行)の披露では各地で活躍した。
戦闘機無用論
戦闘機無用論[注釈 3]とは、1930年代中頃、一時期、迎撃戦闘機の速度が侵攻する爆撃機の速度に追いつけない状況になった時期があり、迎撃戦闘機の発動機が低出力発動機しかない状況下では、上昇に時間のかかる迎撃側は、高度と速度を確保してやってくる侵攻側を捕捉できない、侵攻側は護衛戦闘機は不要であるとする考えである[166]。小福田晧文(海軍航空技術廠飛行部)は戦闘機無用論について、戦闘機で制空権を確保しても敵艦船や地上施設を撃破できないため、限られた軍事予算で航空兵力を増強をはかるにあたって直接攻撃力(爆撃機、攻撃機)を増やすという考え方と述べている[167]。空母機動部隊においては攻撃偏重の姿勢であり、三和義勇(横須賀航空隊戦術教官。真珠湾攻撃時の連合艦隊参謀)は『戦闘機が攻撃機を有効に阻止できないことは演習(九六式陸上攻撃機と複葉の九五式艦上戦闘機の航空演習)で実証されている』として、艦爆・艦攻の搭載による攻撃力増加を力説した[168]。柴田武雄(同隊戦闘機分隊長)の戦闘機活用論に、三和は『君はそれでも日本人か』と罵倒したとされる[169]。
源田の自著によれば、Template:Safesubst:第一航空戦隊研究会にて、敵空母の飛行甲板を破壊して敵戦闘機活動を封殺するという発想から、戦闘機隊の半数・攻撃隊の半数を単座急降下爆撃機に変更することを訴えた…とある[170]。山本五十六(海軍少将、第一航空戦隊司令官)は「飛行機を防御に使用すること自体誤った考えである」としつつ、航法の問題から単座急降下爆撃機は開発されないだろうと述べたとされる[171]。他にも大型爆撃機重視だった新田慎一(海軍少佐、源田の一期上)について「急降下爆撃機を主張する私とは論敵の間であった」などの表現がある[172]。
このように、日本海軍の航空主兵論は爆撃機を主体に考え戦闘機を軽視した思想で、極端な考え方と言える。航空主兵論から派生した戦闘機無用論の旗振り役となったのは源田である[173]。昭和9年11月以降で、源田は大尉で横須賀航空隊分隊長だった[注釈 4]。リストラ等、転科強制があった時期は日中戦争前(昭和12年以前)の話である。戦闘機無用論は日本海軍航空隊の方針となり、その結果戦闘機パイロットが爆撃機に転向させられたり、養成削減されたりというリストラにつながった[174]。源田は戦後の自著においてこの責任を明確にしておらず[175]、まるで他の誰かの提唱であったかのような表現をしている[176]。この時に転科を強制された事を遺恨とし、後年源田が参院選に立候補した際に応援を断った旧海軍軍人もいたという。[要出典]日中戦争での渡洋爆撃で、戦闘機なしの長距離侵攻を行った陸攻隊が敵戦闘機の迎撃により大損害を被った上、敵攻撃機を撃退するには戦闘機で迎撃するより手段がなく、海軍は方針転換を行った[167]。だがリストラ期間の影響は大きく、太平洋戦争開戦当時の戦闘機要員不足という結果を招いた[177]。太平洋戦争を通じてパイロット損耗に養成が追いつかなかった原因の一つである。
格闘戦への固執
源田は戦闘機の戦闘においても「一騎打ち形式の格闘戦」に固執し、欧州や米国における「高速での一撃離脱を主とする新しい戦闘形態」(エネルギー空戦)に対する理解が遅れていた。自身も熟練パイロットとしての自負を持っていたが実戦経験がなく、曲技飛行等においての経験のみによる「飛行機の優劣」に固執した結果、重戦闘機や防弾装備を極端に嫌い、航空機メーカーから乗員保護について提案がなされても「腕よりも機械に頼る腰抜けどもを増やすだけ」と一蹴、一貫して否定的であった[注釈 5]。自書では、欧米機の一撃離脱戦術を『他の性能を犠牲にしても機体の強度を増さなければならないので必ずしも得策でないし、逃げることを予期して機体を設計するという手もない。』と批判、優秀な技量の搭乗員なら低高度で撃墜できるとしている[178]。そのため、戦況に即した機種開発を望む航空機メーカーの意見が黙殺され海軍機の多くは開戦時の機材の手直し程度の進化に留まる事を余儀なくされ、諸外国はもとより日本陸軍の航空機にも技術的に遅れを取った。なお、日本陸軍は格闘戦重視の九七式戦闘機と一撃離脱戦法を行うソ連空軍機の空中戦(ノモンハン事件)、九七戦と同時期に出現したメッサーシュミット Bf109やスーパーマリン スピットファイアの性能から軽戦闘機(格闘戦重視で軽武装・軽防御の戦闘機)の限界に気付き、重戦闘機志向を強めている[179]。
源田の批判者として、海軍兵学校同期で戦闘機畑を歩んだ柴田武雄が有名である。柴田は戦闘機の開発や運用について源田と対立した。柴田は前述の「戦闘機無用論」の最も強硬な反対派の一人であり、また零式艦上戦闘機の仕様決定の際、格闘性能を過度に重視する源田に対して速度や武装、航続距離などの性能を犠牲にすることを認めず、激しく対立した[注釈 6]。しかし、海軍内の影響力で源田に劣り、源田の方針で決まる事が多かった[180]。柴田は、源田がたびたび会議の記録を一切取らせなかったと指摘、言論がぶれていることを詰め寄ると「きのうのオレと今日のオレは全然ちがう」と切り返されたと回想[181]。源田も柴田を嫌っており、内藤雄(連合艦隊航空参謀)は柴田に、源田が柴田の主張が間違っており「たとえ正しくともオレの気にくわねえ奴の言うことなど絶対にきくもんか」と言明していたことを教えたという[182]。Template:Safesubst:3月、第三航空隊に勤務していた柴田は、連合国軍が零戦を上回る機体を投入することを懸念し[注釈 7]、新型戦闘機の開発を戦訓所見として提出したが省みられなかった[183]。柴田は、敗戦の責任は源田と、目先の大戦果に陶酔していた中央当局にあると主張している[183]。
真木成一(零戦テストパイロット、海軍大尉)によれば、零戦は堀越が源田(空戦性能重視)と柴田(航続距離重視)の意見を折衷して開発した戦闘機であり、優秀な戦闘機であったがエンジン出力不足から防弾が不十分であったとしている[184]。現在の評価では柴田の思想が正しかったとされる。柴田、源田双方の部下だったこともある坂井三郎も戦後の発言や著書で源田を批判している。
戦艦無用論
Template:Safesubst:4月、海軍大学校甲種学生だった源田は「対米戦争を見据えた海軍軍備について」という課題に対し、将来の日本海軍は基地航空隊と航空母艦を主力、潜水艦を支援とし、巡洋艦・駆逐艦は最小限の保有、戦艦・高速戦艦はスクラップにするか、繋留して桟橋の代用にするという「戦艦無用論」を展開した[29]。当時、ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮会議により、米英日が保有できる主力艦船・補助艦艇の比率はそれぞれ5対5対3に定められており、海軍休日により軍艦の建造が制限されていた。各国海軍も「航空機ではなく戦艦が戦争の勝敗を決する」という「大艦巨砲主義」を奉じていたが、日本では山本五十六(ロンドン海軍軍縮条約随員)が基地航空隊で主力艦の劣勢を補うことを主張、さらに航空主兵論を唱えはじめていた[185]。山本は佐々木彰連合艦隊航空参謀に『戦艦などは床の間の飾りみたいなもので連合艦隊の旗艦と、その予備艦があればいい。通信施設と居住施設はよくしなければいかん』と語っているが[186]、大西(航空本部教育部長)はさらに過激だった。マル3計画で建造がはじまる大和型戦艦2隻に対し『大和1隻で2億円かかる。むしろ南洋諸島に航空機地を建設し、余裕があれば空母をつくれ』と主張、伏見宮博恭王軍令部総長によって戦艦無用論を封印させられている[187]。
源田は『大砲がなかったら自分たちは失業するしかない。多分そういうことでしょう。兵術思想を変えるということは、単に兵器の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。人情に脆くて波風が立つのを嫌う日本人の性格では、なかなか難しいことです』と戦後回想した[188]。源田の「秦の始皇帝は阿房宮を造り、日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した」というミッドウェー海戦直前の戦艦「大和」における戦訓研究会での発言は、当時から有名であった[189]。その後も、Template:Safesubst:の横須賀海軍砲術学校において、源田が出張して生徒達に航空講義をした際、「万里の長城」「ピラミッド」「大和、武蔵」は世界の笑い物だと発言し、教頭だった黛治夫が源田を叱っている[190]。また、源田は大和型戦艦をスクラップにして空母にすることを主張し、彼の発言は大和型戦艦三番艦を空母に改装した「信濃」として現実のものとなった。また自分達の主張が戦前に通っていれば大東亜戦争の犠牲は少なくなったとも主張しているが、例え航空主兵・戦艦無用の軍備に切り替えたところで圧倒的国力の米海軍に勝つことはできないとの指摘もある[191]。柴田武雄は『戦闘機を、軽視または無用視した「航空主兵主義」、および、現有する戦艦の活用に気付かなかった「戦艦無用論」は、当初から重大な欠陥と危険性を孕んでいた』と指摘している[192]。実際、米海軍は制空権を握った上で、第二次世界大戦中に10隻竣工した大和型戦艦の同世代艦を艦砲射撃や機動部隊護衛任務に投入、有効に活用した[193]。
戦史家の原勝洋によれば、吉田満(戦艦大和ノ最期著者)と纏めた『日米全調査戦艦大和』を源田(参議院議員)に差し出したところ「俺は大和は嫌いなんだ」と一喝、原を退散させたという[194]。
特攻
特攻自体を起案したのは、当時の軍令部第二部長の黒島亀人である。当時の軍令部総長は及川古志郎、軍令部次長は伊藤整一、軍令部第一部長は中澤佑。Template:Safesubst:4月、黒島少将は海龍、震洋、回天などの特殊兵器を中沢第一部長に提出した[195]。
航空特攻の提案者は、城英一郎大佐である。初編成、初実行の現場の最高責任者は大西瀧治郎中将である。神風特攻隊の命名は、当時の第1航空艦隊首席参謀の猪口力平である。人間爆弾「 桜花」の発案者は大田正一特務少尉である。特攻は一航艦のみならず二航艦も巻き込み、福留繁二航艦長官の指揮下に進められた。 大西は終戦時に遺書(ウィキクォート:大西瀧治郎に全文有り)をしたため割腹自決を遂げ、源田は『大西の立場に立たされば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃しただろう。それが海軍軍人である』としている[196]。そして源田は戦後も生き、特攻に関して自著で『余りにも数多い特攻兵器は、何を重点にして整備すべきか選択に迷うべき程であった。何もかも航空部隊に依存し飛行機がなければ、水上部隊は何事も出来なかった状況を憤慨し、「痩せ馬に荷を負わせ過ぎる」と言って水上、水中の特攻兵器を強調する人が居る反面、航空特攻を第一義とすべしという考えの人も相当に居た。殊に航空関係において然りである』として、表面的な回想を行っているのみである[197]。
特攻に関しては、源田は主導的に動いていたことが明らかになっており、人間爆弾「桜花」の開発に関しては、大田正一特務少尉に紹介状を書いて渡したことが明らかになっている。 また、渡邉恒雄が中央公論2006年10月号で『桜花』の命名者として源田実の名をあげて源田らを批判している。『海軍神雷部隊』戦友会編によれば航空本部が〇大(マルダイ)を「桜花」と命名したという記述もある。他、最初の神風特攻隊の隊名呼称を大西の第一航空艦隊に伝える電文大海機密第261917番電「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」[198] を1944年(昭和19年)10月13日に起案したのも源田であることが明らかになっている[199]。ただし、この電文は発表時期と攻撃隊名も忘れず発表されたいという指示である。
特攻指揮官でも戦後特攻隊員遺族との対面を極力避けた陸軍特攻隊指揮官の菅原道大とその部下の倉澤清忠と正反対に、戦後の慰霊祭に源田は出席してそこで特攻隊員の遺族に詰め寄られた。源田は特攻慰霊碑[200]に「青年が自らの意志に基づいて赴いた」と記した[201]。TV番組でも、特攻隊編成は(源田が)軍令部転出後であり関係ないと発言、吉松正博(零戦搭乗員。海軍大尉、兵学校71期)は「よくもぬけぬけと」と評している(源田の三四三空着任は1月15日)[202]。実際には、大西に零戦150機の準備を約束している[203]。
太平洋戦争中最後に指揮した第三四三海軍航空隊からは、特攻を出すことはなかった。第五航空艦隊から三四三空に対し特攻攻撃の要請があった時、飛行長の志賀淑雄少佐が「もし行くんであれば、まず私が、隊長、分隊長、兵学校出の士官をつれて行って必ず敵空母にぶち当たってみせます。最後は司令も行ってくれますね、予備士官や予科練の若いのは絶対に出しちゃいけません」と言うと、源田は「よし、わかった」と言って源田は二度と特攻攻撃の話を持ち出すことが無かった[204]。
一方で、『日本海軍 400時間の証言』[205] によると、特攻で命を落とした兵士達全ての氏名や出撃日(命日)を記録した資料や戦死した特攻隊員達の膨大な遺言を大切に保存し、それらを納め生涯を閉じるまでに仏壇に祈っていた事がわかった。戦時中の自身の行いを悔いていたともとれる。源田自身は、ミッドウェー海戦の教訓と述べている。日本軍索敵機が米軍機動部隊を発見した時、ちょうど南雲機動部隊上空に日本軍第一次攻撃隊100機がミッドウェー島攻撃を終えて帰還し、着艦収容を待っていた。源田は第二次攻撃隊を発進させれば第一次攻撃隊100機が燃料切れで不時着着水すると判断し「戦友を見殺しにできない。第二次攻撃隊の発進より第一次攻撃隊の収容を優先」と決断した[206]。この結果、南雲機動部隊は第二次攻撃隊を発進できぬまま米軍艦載機の攻撃により壊滅、源田は「部下の生命を惜しんだために決定的な敗北に終わった。以後は『仏心』を戒め、戦死するのがわかっていても心を『鬼』にして出撃命令を出すようになった。私にとって最大の責任、苦労は、心を鬼にして残酷な命令を出し続けることだった」と述べている[207]。しかし元部下達には戦時中の無茶な作戦指揮も相まって嫌われていた。坂井三郎は晩年のインタビューで`源田`と呼び捨てにし、罵っている。
戦後のエピソード 航空自衛隊
1956年(昭和31年)、航空自衛隊でジェット機のパイロットの資格(パイロットライセンス)を取ったことは生前に自身の宣伝材料となったが、源田の教官を務めたパイロット(米空軍大尉)が源田の死後、そのジェット戦闘機の操縦技量について「いちじるしく劣る」と証言している[要出典]。ただしこの点に関しては、52歳という当時の年齢や搭乗員としての長いブランク(終戦まで、実機には搭乗しない要職を務めた期間が長い)があること、現役時代の複葉戦闘機と戦後のジェット機では使い勝手が全く違うことなどを考慮に入れる必要がある。
また、1959年(昭和34年)8月、FX機種選定の為、官民合同の調査団の調査団長として渡米した際は、操縦が難しい機体であるF-104戦闘機の操縦桿を握っていた。[要出典]。二ヵ月半にわたる調査の結果提出された報告書に基づく再選定の結果、F-104C [208]が選定された [209]。当初、源田は「もしそれロッキードを採用するならば、航空自衛隊は平時にして壊滅するだろう」として国防会議においてグラマン社戦闘機を採用するよう所信を表明していた[210]。ところが「乗ってみなければわからない」として渡米、帰国するとロッキードの採用を決定し、議論を巻き起こした[211]。
源田が航空幕僚長に在職した当時、空将である源田の階級章は星章3つの「中将」相当のものであった。次期戦闘機調査団の団長として渡米した源田は現地で「自分は日本空軍の大将であると主張、(米空軍参謀総長は、当時も今も4つ星の大将)大将相当の待遇を要求したが受け入れられなかった。これを悔しがった源田は現地で勝手に星章を一つ増やして「4つ星」の階級章を付けた。こうした源田の行動を規定違反として問題視する声が上がったが、帰国後、自衛隊の服装規則そのものが改正され、源田の行動は、事後承諾されて、1962年12月1日以降、統合幕僚会議議長と、陸海空各幕僚長は、4つ星(又は金帯に線3本)の、米軍の大将相当の階級章を付けるようになった。
ハイジャック対策として乗客乗員を着席、シートベルト着用の上機体を上下に揺さぶり、着席するわけにはいかない犯人のみを壁に激突させて無力化する「源田方式」を提唱したが、存命中に採用される事はなかった。漫画「ファントム無頼」に使用される描写がある。
戦後のエピソード 参議院議員
- ルメイ受勲に関しては、東京大空襲に代表される無差別爆撃戦術の考案者、カーチス・ルメイの叙勲を小泉純也と共同で推薦。[要出典]Template:Safesubst:12月4日受勲が閣議により決定され、いままで米国の都合で実現されなかった佐藤首相とジョンソン大統領との会談の実施が翌日5日に決定し、ルメイは「航空自衛隊創設に際する功績」により、同年12月7日、勲一等旭日大綬章をルメイ受章[212]。受勲後のTemplate:Safesubst:1月ジョンソン会談。また源田自身もアメリカから、Template:Safesubst:に「リージョン・オブ・メリット勲章」(勲功章)[213] を受けている。なお源田は著作中で山口多聞を評価する際、『ネルソン提督とか、米空軍のルメイ将軍に匹敵すべき人』と表現している[214]。
- Template:Safesubst:3月、源田は1日から米海軍協会の招きで渡米、講演や記者会見で「日本も原爆を持っていたら使用しただろう」「日本本土にも米(軍)の核持ち込みを認めるべき」と発言。3日、社会党など野党側が源田の「原爆発言」を追及。12日、佐藤首相も「源田発言は不謹慎」[215]。
- Template:Safesubst:10月、長沼ミサイル訴訟の第6回口頭弁論で、元航空幕僚長として源田が「米(軍)の極東戦略は全面核戦争は考えていない。自衛隊が核戦争を想定した作戦、演習を考えたことはないと思う」と証言[216]。
- Template:Safesubst:5月3日には、日本青年協議会主催の「5・3政府主催記念行事糾弾国民大会」[注釈 8]で、源田は「日本民族は原爆の3つや4つ落としても降伏するような民族ではなかった。戦争をやめたのは、天皇陛下のご聖断が下されたからだ。このご聖断で日本民族は救われた。我々は天皇制を護持しなければならない」と発言した。5月11日、 広島県労働組合会議(広島県労会議)の今田正義議長が「原爆の3つや4つ…」と発言した源田に辞任要求した[217]。
- 消防庁は南関東直下地震に備えてボンバルディア・エアロスペース社が開発したカナディア CL-215(消防飛行艇)の購入を検討・予算要求を準備していた[218]。すると源田議員は海上自衛隊のPS-1飛行艇を消防飛行艇にして導入することを主張、改造機体の実験そのものは成功したが、予算上や運用上の問題点が指摘され、カナディア飛行艇・PS-1消防飛行艇仕様の双方とも採用されなかった[219]。
著作一覧
- 『海軍航空隊始末記 発進篇』 文藝春秋新社、1961年
- 新版 『海軍航空隊、発進』 (文春文庫、1997年)、ISBN 4-16-731004-X
- 『海軍航空隊始末記 戦闘篇』 文藝春秋新社、1962年
- 新版 『海軍航空隊始末記』 (文春文庫、1996年)、ISBN 4-16-731003-1
- 『指揮官 人間掌握の秘訣』 時事通信社(時事新書)、1968年
- 『指揮官 魅力あるリーダーとは』 善本社、1975年
- 『真珠湾作戦回顧録』 読売新聞社、1972年
- 新版 『真珠湾作戦回顧録』(文春文庫、1998年)、ISBN 4-16-731005-8
- 『源田実語録 防衛と人生を考える』 善本社、1973年
- 『統率力 源田実の経営戦略』 読売新聞社、1973年
- 『敗中勝機を識る』 善本社、1978年
- 『風鳴り止まず』 サンケイ出版、1982年
- 新版 『パールハーバー 運命の日 日米開戦の真実』 (幻冬舎文庫、2001年) ISBN 4-344-40131-X。
- 『平和の探究 兵器に託す未来はない』 善本社、1990年、自由派青年の集い編-遺著
- 千早正隆ほか 『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』 プレジデント社、1994年。ISBN 4-8334-1530-5。
- 源田実「グラマンも恐れた三四三『紫電改』部隊」/源田実・野中郁次郎「参謀が語る連合艦隊の蹉跌」
源田実を演じた俳優
- 佐藤允 - 『連合艦隊司令長官 山本五十六』(1968年、東宝)にて
- 三橋達也 - 『トラ・トラ・トラ!』(1970年、20世紀フォックス)にて
- 加藤嘉 - 『不毛地帯』(1976年、東宝)原田空幕長役
- ロバート・イトー - 『ミッドウェイ』(1976年、ユニバーサル映画)にて
- 齋藤真 - 『連合艦隊』(1981年、東宝)にて
- ケイリー=ヒロユキ・タガワ - 『パール・ハーバー』(2001年、ブエナビスタインターナショナル)にて
注釈
- ^ アリゾナ、オクラホマ完全破壊。ウェストバージニア、カリフォルニアは復帰。
- ^ 紫電改14、紫電1、艦上偵察機「彩雲」1、地上炎上または大破5機
- ^ 「源田實論」によると、山本航空本部長の時代に源田實が戦闘機不要論を唱えだし、大西瀧治郎も同調し、山本も昭和11年から支那事変勃発までの1年間同調したと記載されている。戦闘機不要論とは、技術革新や新兵器の登場等により、従来の戦闘機は不要になるだろうという考えである。
- ^ 柳田邦男 「零式戦闘機」 P.129 「戦闘機無用論を最初にいい出したのは、戦闘機乗りのパイロットたち、横須賀航空隊の源田実大尉ら」
- ^ NHK・ETV特集 「零戦ニ欠陥アリ」でも触れられている。しかも番組ではそんな技術陣の話す問題と、戦局悪化に関しても、黙殺するような言動があったという。
- ^ 吉村昭の『零式戦闘機』でも、現場の実技面と格闘戦を重視する源田と、今後の運用面や技術面を注視する柴田との口論が描かれている。
- ^ F6Fヘルキャットの量産型は1942年10月初飛行。
- ^ 改憲政党であるはずの自由民主党(=三木武夫内閣)が憲法記念行事を開催しようとしたため、これに反対して開いた集会。日本青年協議会
脚注
- ^ #生出・源田398頁
- ^ #海軍航空隊発進16頁、#生出・源田329頁
- ^ #海軍航空隊発進17頁
- ^ #生出・源田330頁
- ^ #海軍航空隊発進20-21頁
- ^ #海軍航空隊発進22頁
- ^ #海軍航空隊発進43頁、#生出・源田330頁
- ^ #海軍航空隊発進61頁
- ^ #海軍航空隊発進77頁
- ^ #海軍航空隊発進78-79頁
- ^ #海軍航空隊発進83頁
- ^ #海軍航空隊発進95頁
- ^ #海軍航空隊発進101頁
- ^ #海軍航空隊発進111頁
- ^ #海軍航空隊発進117頁
- ^ #源田実論38頁
- ^ #源田実論38-39頁。源田は実戦に参加したわけではない。
- ^ #海軍航空隊発進213頁、#生出・源田330頁
- ^ #生出・源田330頁
- ^ #海軍航空隊発進52頁
- ^ #生出・源田331頁
- ^ #海軍航空隊発進157頁
- ^ #海軍航空隊発進160頁
- ^ #海軍航空隊発進161頁、#生出・源田331頁
- ^ #海軍航空隊発進163頁
- ^ #海軍航空隊発進165頁
- ^ #生出・源田337-338頁
- ^ #海軍航空隊発進177頁、#生出・源田341頁
- ^ a b #海軍航空隊発進180-181頁、#生出・源田343頁
- ^ #海軍航空隊発進182-183頁
- ^ #生出・源田344-345頁
- ^ #生出・源田344頁
- ^ #海軍航空隊発進184頁
- ^ #海軍航空隊発進214頁
- ^ #海軍航空隊発進246、249頁
- ^ #海軍航空隊発進247頁
- ^ #生出・源田152頁
- ^ #生出・源田5頁
- ^ #海軍航空隊発進223頁
- ^ #海軍航空隊発進279頁
- ^ #海軍航空隊発進288頁
- ^ #生出・源田117頁
- ^ #生出・源田117頁
- ^ #海軍航空隊始末記10頁
- ^ #生出・源田351頁。空襲開始は1940年8月8日から。
- ^ #海軍航空隊始末記9頁
- ^ #海軍航空隊始末記9-10頁、#生出・源田351頁
- ^ #海軍航空隊始末記26頁
- ^ #生出・源田351頁
- ^ #海軍航空隊始末記23頁
- ^ #海軍の回想224頁
- ^ #海軍航空隊始末記34-35頁、#生出・源田34頁
- ^ #海軍航空隊始末記61頁
- ^ #生出・源田7-10頁
- ^ #良い参謀良くない参謀151頁
- ^ #生出・源田5-7頁
- ^ #生出・源田13-14頁
- ^ #生出・源田16頁
- ^ #生出・源田17頁
- ^ #淵田自叙伝80-81頁、#生出・源田27頁
- ^ #生出・源田56頁
- ^ #風鳴り止まず66-67頁、#生出・源田56-57頁
- ^ #風鳴り止まず103頁、#生出・源田74-75頁
- ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』41頁
- ^ #源田実論13-14頁
- ^ #生出・源田198-199頁、#続 炎の海93頁
- ^ #亀井戦記165頁、#良い参謀良くない参謀152-153頁
- ^ #生出・源田88頁
- ^ #生出・源田91-93頁
- ^ #風鳴り止まず145頁、#生出・源田101-103頁
- ^ #生出・源田104頁
- ^ #生出・源田138頁
- ^ #海軍航空隊始末記93頁、#生出・源田139頁
- ^ #海軍航空隊始末記112頁、#生出・源田158頁
- ^ #生出・源田142頁
- ^ #海軍航空隊始末記113頁、#生出・源田159頁
- ^ #生出・源田161頁
- ^ #続 炎の海92頁。「赤城」の風呂にて。
- ^ #海軍航空隊始末記181頁
- ^ #良い参謀良くない参謀160頁
- ^ #生出・源田204-205頁
- ^ #海軍航空隊始末記122-123頁
- ^ a b c #生出・源田217-218頁
- ^ #生田・源田214頁
- ^ #風鳴り止まず224頁、#生出・源田245頁、#亀井戦記217頁
- ^ #海軍航空隊始末記174頁
- ^ #亀井戦記296-297頁
- ^ #生出・源田281頁、#海軍功罪306-307頁、#海軍航空隊始末記176頁
- ^ #亀井戦記306頁
- ^ #海軍航空隊始末記183頁、#生出・源田284頁
- ^ #続 炎の海161頁
- ^ 福地周夫『続・海軍くろしお物語』(光人社、1982年)210頁
- ^ #海軍航空隊始末記216頁
- ^ #海軍航空隊始末記201頁、#海軍功罪289頁
- ^ #亀井戦記35頁
- ^ #亀井戦記35-36頁
- ^ #亀井戦記16頁
- ^ #亀井戦記24頁
- ^ #亀井戦記43頁
- ^ #海軍功罪302-304頁
- ^ #源田実論8頁
- ^ a b #生出・源田311-312頁
- ^ #海軍航空隊始末記233頁、#生出・源田319頁
- ^ 淵田\奥宮『機動部隊』448頁
- ^ #海軍航空隊始末記234頁
- ^ #海軍航空隊始末記246頁、#生出・源田324頁
- ^ #海軍航空隊始末記240.250頁
- ^ #海軍航空隊始末記269頁、#良い参謀良くない参謀161頁
- ^ #海軍航空隊始末記270頁
- ^ #海軍航空隊始末記271頁
- ^ #良い参謀良くない参謀165頁
- ^ #海軍航空隊始末記259頁
- ^ #生出・源田361頁
- ^ 淵田\奥宮『機動部隊』226頁
- ^ 淵田\奥宮『機動部隊』227頁
- ^ #生出・源田362頁
- ^ #生出・源田364頁
- ^ #生出・源田365.368頁
- ^ #海軍航空隊始末記277頁
- ^ #海軍航空隊始末記256頁、#生出・源田368頁
- ^ #海軍航空隊始末記306-307頁
- ^ #生出・源田372頁、#良い参謀良くない参謀168頁
- ^ #生出・源田374頁
- ^ #生出・源田375頁
- ^ #良い参謀良くない参謀47.169頁
- ^ #生出・源田387頁、#良い参謀良くない参謀171頁
- ^ #生出・源田383頁
- ^ #生出・源田386頁
- ^ #海軍航空隊始末記310頁、#生出・源田389頁
- ^ #海軍航空隊始末記311頁「19年の末期になって、私はつくづくと考えた。戦争に負けているのは、海軍が主役をしている海上戦に負けているからである。海上戦に負けるのは航空戦で圧倒されているからである。航空戦が有利に展開しない原因は、わが戦闘機が制空権を獲得出来ないからだ。つまり、戦闘機が負けるから戦争に負けるのだ。」
- ^ #生出・源田393頁、#海軍功罪110-111頁
- ^ #生出・源田394頁
- ^ #海軍航空隊始末記330-331頁、#生出・源田395頁
- ^ #海軍航空隊始末記334頁、#海軍功罪110頁
- ^ #海軍功罪118頁
- ^ #海軍功罪307頁
- ^ #海軍航空隊始末記371頁。解説より。
- ^ #海軍航空隊始末記372頁
- ^ 国立公文書館 本館-4E-006-00・平16内閣00011100
- ^ 第77回国会(常会)答弁書 答弁書第三号 内閣参質七七第三号
- ^ 愛媛新聞
- ^ a b c d #生出・源田329頁
- ^ #海軍航空隊発進19頁
- ^ アジ暦「霞空教第1号の21卒業式施行の件」
- ^ アジ暦「横空機密第164号の28.4.20 90式艦上戦闘機90式機上作業練・・・」
- ^ アジ暦「職課1 兵科士官1 自1月至9月(5)」
- ^ アジ暦「官房第1947号 10.5.8 昭和9年恩賜研学資金受賞者の件 海軍大尉源田 實 外9名」
- ^ アジ暦「官房機密第1700号 昭和10.7.13 甲種学生候補者最終試験に関す・・・」
- ^ #生出・源田341頁
- ^ アジ暦「第1御召艦及供奉艦 審判官 青軍 赤軍(2)」
- ^ #生出、源田342頁
- ^ 極東国際軍事裁判の供述書の内容より。「昭和11年11月海軍少佐第二総合航空隊参謀」 国立公文書館 本館-4B-021-00・平11法務02121100
- ^ 海軍大学校卒業生一覧
- ^ #海軍航空隊発進217頁。
- ^ 極東国際軍事裁判の供述書の内容より。国立公文書館 本館-4B-021-00・平11法務02121100
- ^ 「海軍航空隊始末記」に 上海事変が初陣と記載あり。
- ^ 極東国際軍事裁判の供述書の内容より。国立公文書館 本館-4B-021-00・平11法務02121100
- ^ #海軍航空隊始末記8頁
- ^ 極東国際軍事裁判の供述書の内容より。「1940年11月1日第一航空戦隊参謀」国立公文書館本館-4B-021-00・平11法務02142100、「15年11月中佐、第一航空戦隊参謀」国立公文書館 本館-4B-021-00・平11法務02121100
- ^ 極東国際軍事裁判の供述書の内容より。国立公文書館 本館-4B-021-00・平11法務02142100
- ^ 極東国際軍事裁判の供述書の内容より。「1941年4月1日第一航空艦隊参謀」国立公文書館本館-4B-021-00・平11法務02142100
- ^ 国立公文書館 本館-4B-021-00・平11法務02121100 爆撃に関する根本方針
- ^ 国立公文書館 本館-4B-021-00・平11法務02142100 真珠湾攻撃の立案と実施
- ^ 第033回国会 内閣委員会 第10号
- ^ 愛媛新聞
- ^ #源田実論51-52頁。他、軍用機の設計思想
- ^ a b #指揮官空戦記262頁
- ^ #生出・源田155.336頁
- ^ #源田実論56頁、#生出・源田153.336頁
- ^ #海軍航空隊発進203頁。源田は「龍驤」分隊長。
- ^ #海軍航空隊発進204頁
- ^ #海軍航空隊発進235頁
- ^ #生出・源田340頁
- ^ #生出・源田152-153頁
- ^ #海軍航空隊発進208頁、#源田実論48頁、#生出・源田340頁
- ^ #源田実論48頁等。#海軍航空隊発進260頁「日華事変勃発前においては、中攻の出現と共に、戦闘機無用論まで一部に出ていたのであるが」
- ^ #源田実論49頁
- ^ #海軍航空隊発進128頁
- ^ 青木邦弘『中島戦闘機設計者の回想 戦闘機から「剣」へ-航空技術の闘い』(光人社、1999年)104-108頁
- ^ 「源田のような実戦に通用しない、人をたぶらかす魔力が強いだけで、実際的には弱い欠陥頭脳者が作戦を指導したので、勝てる戦さに負けたのだ」 柴田武雄『源田実論』(人間新書、1971年) 秦郁彦『昭和史の軍人たち』(文藝春秋、1982年)
- ^ #源田実論45頁
- ^ #源田実論64頁
- ^ a b #源田実論66頁
- ^ #生出・源田349-350頁
- ^ #良い参謀良くない参謀40.123頁
- ^ #生出・源田178.399頁
- ^ #生出・源田346頁
- ^ #海軍航空隊発進185頁、「日本海軍の功罪」
- ^ #生出・源田195.399-400頁
- ^ #ライオン艦長80-81頁
- ^ #生出・源田347頁
- ^ #源田実論57頁
- ^ #生出・源田367頁
- ^ #海軍航空隊始末記370頁
- ^ #生出・源田392頁
- ^ #生出・源田300頁
- ^ #海軍航空隊始末記308-309頁
- ^ 戦史叢書海軍捷号作戦<2> P108
- ^ #生出・源田391頁
- ^ 楢本神社 関行男慰霊碑 昭和50年3月21日元航空幕僚長源田実参議院議員により除幕。
- ^ 日本海軍400時間の証言
- ^ #生出・源田391頁
- ^ #生出・源田392頁
- ^ #生出・源田301頁、神立尚紀『零戦 最後の証言』、光人社NF文庫、2010年、ISBN 978-4769826712 p62
- ^ 日本海軍400時間の証言―軍令部・参謀たちが語った敗戦 NHKスペシャル取材班 (著)
- ^ #海軍功罪123頁
- ^ #海軍功罪122、124頁
- ^ 第033回国会 内閣委員会 第10号
- ^ 国立公文書館 分館-01-015-00・平2総00459100
- ^ #源田実論46頁、#生出・源田411-412頁
- ^ #源田実論47頁
- ^ 国立公文書館 分館-01-039-00・平3総00673100
- ^ 国立公文書館 分館-01-039-00・平3総00413100
- ^ #海軍航空隊発進170頁
- ^ 中国新聞
- ^ 中国新聞
- ^ 中国新聞
- ^ #飛行艇の時代136頁
- ^ #飛行艇の時代137-138頁
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)
- Ref.C04016622800「霞空教第1号の21卒業式施行の件」
- Ref.C05023333200「横空機密第164号の28.4.20 90式艦上戦闘機90式機上作業練・・・」
- Ref.C05022600400「職課1 兵科士官1 自1月至9月(5)」
- Ref.C05034044900「官房第1947号 10.5.8 昭和9年恩賜研学資金受賞者の件 海軍大尉源田 實 外9名」
- Ref.C05034008200「官房機密第1700号 昭和10.7.13 甲種学生候補者最終試験に関す・・・」
- Ref.C05034784400「第1御召艦及供奉艦 審判官 青軍 赤軍(2)」
- 柴田武雄 『源田実論』 思兼書房、1975年1月。
- 小福田晧文 『指揮官空戦記 ある零戦隊長のリポート』 光人社、1978年8月。ISBN 4-7698-0127-0。
- 源田実 『風鳴り止まず』 サンケイ出版、1982年11月。
- 杉本健 『海軍の昭和史 提督と新聞記者』 文春文庫、1985年8月。ISBN 4-16-739301-8。
- 生出寿 『ライオン艦長 黛治夫 ある型破り指揮官の生涯』 光人社、1988年1月。ISBN 4-7698-0372-9。
- 海辺和彦『日本大使館付駐在武官』 徳間書店 1993年 ISBN 4-19-860044-9
- 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ1 奇襲ハワイ作戦』(学習研究社、1995年) ISBN 4-05-401257-4
- 亀井宏 『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』 光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7。
- 生出寿 『航空作戦参謀 源田実』 徳間書店、1995年8月。ISBN 4-19-890357-3。
- 吉田俊雄 『良い参謀、良くない参謀 8人の海軍サブリーダーを斬る!』 光人社、1996年9月。ISBN 4-7698-0786-4。
- 源田實 『海軍航空隊始末記』 文春文庫、1996年12月。ISBN 4-16-731003-1。
- 源田實 『海軍航空隊、発進』 文春文庫、1997年8月。ISBN 4-16-731004-x。
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う』上(文春文庫、1999年) ISBN 4-16-745304-5
- 碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』(光人社、2000年) ISBN 4-7698-0955-7
- 碇義朗『激闘 海軍航空隊 「零戦」の柴田武雄と「紫電改」の源田実』(光人社NF文庫、2007年) ISBN 978-4-7698-2555-5 上記『鷹が征く』の文庫版
- 牧島貞一 『続・炎の海 激撮報道カメラマン戦記』 光人社、2002年。ISBN 4-7698-2339-8。
- 森史朗『運命の夜明け 真珠湾攻撃 全真相』(光人社、2003年) ISBN 4-7698-1097-0
- 帆足孝治 『世界の海を渡った豪華絢爛の翼 飛行艇の時代』 イカロス出版株式会社、2005年9月。ISBN 4-87149-737-2。
- 淵田美津雄 『真珠湾総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』 講談社、2007年12月。ISBN 978-4-06-214402-5。
- 淵田美津雄、奥宮正武『機動部隊』(学研M文庫、2008年) ISBN 978-4-05-901222-1
関連項目
外部リンク
- 官房第1947号 10.5.8 昭和9年恩賜研学資金受賞者の件 海軍大・・・(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
- ヒロシマの記録1963 3月中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター2011年10月7日 閲覧
- ヒロシマの記録1970 10月中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター2011年10月7日 閲覧
- ヒロシマの記録1976 5月中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター2011年10月1日 閲覧
- 第033回国会 内閣委員会 第10号2011年10月2日 閲覧
- 質問主意書第77回国会(常会)質問主意書情報参議院ホームページ 2011年10月14日 閲覧
- 質問主意書第77回国会(常会)答弁書参議院ホームページ 2011年10月14日 閲覧
| |||||




