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特攻兵器

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

特攻兵器(とっこうへいき)とは、第二次世界大戦末期の日本軍で使用された特攻(体当たり攻撃)を目的として造られた、もしくは改装された兵器である。

目次

概要

現代でもイスラム過激派などによる自爆テロなどはあるが、正規軍が搭乗者の生還が不可能な兵器を正式に採用・運用した例は、日本ドイツでしか見られない。なお神風特攻隊を編成した大西瀧治郎海軍中将においてすら、当初は特攻・自爆攻撃は「統帥の外道」と称し否定的で、レイテ沖海戦に限って行う非常手段としていた。しかし戦局の悪化に伴い、本来は非常手段であったはずの特攻が恒常化していった。

空の特攻兵器

主な機体


など

日本軍の航空機の速度、上昇力、武装などの性能は、当初は連合国の機体に勝っており通常攻撃で戦果をあげることが出来たが、徐々に機体の性能も逆転され、更に敗北を重ねる度に機体や乗員の消耗も大きくなり配備数も減少、組織的戦闘が不可能となった。それゆえに、敵に効果的な打撃を与えるために、体当たり特攻が考案され、部隊編成後、実戦に投入された。

航空特攻では、当初は通常の軍用航空機(戦闘機攻撃機爆撃機など)に爆弾を装備(爆装)して行われていた。搭載する爆弾は、250キロ爆弾を標準とするが、双発以上の機体には、500キロ爆弾や800キロ爆弾も用いた。

既存の航空機は、体当たりを前提とした設計ではないために、構造も複雑であり、高価であった。そこで、低性能でも威力や生産性を向上させる必要性に迫られた。海上交通途絶による資源の不足、空襲による工場交通機関住宅の被災も含めて、戦局の悪化のなかで、特攻兵器の開発と生産が、最優先されるようになった。そして、日本本土へ侵攻してくる上陸部隊・支援部隊への攻撃などを考慮して、特攻専用機(特殊攻撃機)が開発、準備された。ただし、特攻専用機開発後も、航空機の絶対数が不足していたため通常機、偵察機練習機による特攻が主流である。

特攻隊の部隊編成は、学徒兵少年兵出身者を中心に行われた。軍の幹部である海軍兵学校出身者で特攻隊員として出撃したのは、神風特別攻撃隊敷島隊関行男大尉、人間爆弾桜花を装備した神雷部隊の野中五郎少佐(一式陸上攻撃機搭乗)等が有名で特攻戦死した士官搭乗員のうち15%程度、100名強であるが、絶対数が異なるために比較対象として妥当ではない。

日本軍では、1944年10月以降、フィリピン攻防戦で航空特攻を採用した。特攻に使用した戦闘機は、陸軍の一式戦「隼」、海軍の零式艦上戦闘機で、爆撃機は陸軍の九九双軽九九襲四式重爆撃機「飛龍」、海軍の九九式艦爆彗星が中心となる。なお、陸軍初の特攻隊となった万朶隊九九式双発軽爆撃機)、冨嶽隊(四式重爆撃機)の機体は特攻用に爆弾を内蔵し機首に約3mの信管を取り付けるなどした特別に改造された機体を用いた。また、日本本土上空でのB-29迎撃には、機銃を外し軽量化して性能向上を図った陸軍の二式単戦三式戦二式複戦などの無武装機が、体当たり特攻用に改造された。これを震天制空隊と呼ぶ。

1945年沖縄戦の時期には、数をそろえるために、陸軍の百式司令部偵察機九八式直協機、海軍の零式水偵零式水観九四式水偵などの偵察機、陸軍の九九高練二式高練、海軍の機上作業練習機「白菊」など練習機も、特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦に投入された。新型機は、本土決戦用に温存されていたため、本来戦闘には適さないこれらの低性能の機体が特攻機に仕立てられた。練習機はガソリンでなくアルコール燃料で稼動させる事が出来たのも投入理由の一つである。米軍が2000馬力級、時速600km級の戦闘機で迎撃するなか、300馬力から800馬力程度のエンジンを積んだ複葉機や固定脚を突き出した旧式機で出撃した特攻隊が戦果を挙げる事はあまりなかった。だが、まったく駄目だった訳でもなく、このような古い羽布張りの複葉機などの場合VT信管が作動しなかったり、機関砲弾が命中しても貫通するだけで炸裂しなかったり、また低速で突入艦への狙いが付け易い事等から、僅かながらも戦果を挙げている(九三式中間練習機による特攻は駆逐艦1隻を撃沈している)。

海の特攻兵器

航空戦と異なり、海戦で用いられる艦艇は数人以下で運用されるものは多くない。そのため海で使われた特攻兵器は基本的に新規開発されたもの(あるいは本来人間が乗り込まないものに人間を乗り込ませ効率を高めたもの)である。このあたり、航空特攻とは発想が逆である。

開発の背景

特攻兵器の開発は、前線・現場からの提案が元となったものが少なくない。例えば、回天の発案者は甲標的搭乗員だった黒木大尉である[1]。しかし黒木の案は幾度となく上層部から却下されている。一方で同様に特攻兵器の開発も、あくまで兵士たちの「自主的、自発的な提案」が基礎であるとして、中央・上層部が責任逃れを計ったのではないか、という意見もある[2]

前線・現場からの特攻作戦・特攻兵器への案は1940年以前から出されており、一方で1943年以前には一度として採用されていない。1944年以降の日本の敗色濃厚ぶりやレイテ沖海戦で特攻を行ったという「実績」が、これらの意見を受け入れやすくしたものといえるだろう。

特攻兵器の評価

乗員が必ず死にそれ自身も破壊される特攻兵器であるが、通常の戦闘によっても兵士は死ぬし戦闘兵器は壊れる。仮に通常の戦闘よりも敵軍の被害に対する自軍の死者が少なく(キルレシオが良く)、兵器も安上がりであったならば、特攻兵器も有用な兵器と言える。一方で、通常の戦闘と異なり出撃した兵士が原則全滅するため、各人が得た経験や戦訓が持ち帰られることなく喪失されてしまい、部隊全体のレベルが向上しないなど、数字に表れない損失も存在する。

特攻兵器には有人兵器としての限界も存在する。生還の可能性のない兵器といえども、少なくとも目標に到達するまでは搭乗員を生存させなければならないため、呼吸補助や防弾などある程度の保護策を講じる必要がある。結果、搭乗員の収容空間も含めて必然的に機体は大型化し、無人機のような高速性・高機動性も望めないため、迎撃は容易となる。また、人間が搭乗する以上、操縦のための訓練が不可欠だが、これを省略すれば命中率(キルレシオ)は低下し、訓練を充実させれば時間と費用がかかる上に、折角成長した搭乗員を一度きりの出撃で無駄死にさせることとなる。

経済性でも決して有利な兵器ではない。「使い捨て」の兵器である以上、大きな費用はかけられないが、開発・熟成の期間や費用が削られれば操縦性・操作性は悪化し、やはり命中率が低下する。装甲や防弾が省略されれば、目標への到達前に迎撃によって撃破される。無人兵器では目標に命中しなかった場合でも損失は限られるが、特攻兵器では弾頭のみならず搭乗員、機材の全てを喪失してしまうため、命中率の低下は、即、費用対効果の急激な悪化につながる。結局として特攻兵器は、(兵士も含めて)資源を再利用できる有人兵器の利点も、無人兵器の機敏性や経済性も持ち得ない、「中途半端な兵器」とならざるを得ない。

以上の様々な要素が絡み、特攻兵器が通常の戦闘に比べて有効であるか否かは結論づけられておらず、議論がタブー視されていることもあって研究も進んでいない。また、評価の基準となるべき戦果・運用の記録も、戦争末期の混乱の中で正確さに欠ける、あるいは逸失しているケースが多く、客観的な評価自体が困難である。

日本海軍における特攻兵器開発の経緯

1944年初めに、軍の指導の下に特殊奇襲兵器の名目で特攻兵器が、組織的に開発・準備された。

1944年3月、軍令部は、戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し、次のような特殊奇襲兵器を緊急に実験、開発するとした。

  • 金物 潜航艇(特殊潜航艇甲標的」丁型「蛟龍」)
  • 金物 対空攻撃用兵器
  • 金物 可潜魚雷艇(S金物、SS金物)小型特殊潜水艇「海龍」)
  • 金物 船外機付き衝撃艇(水上特攻艇「震洋」)
  • 金物 自走爆雷
  • 金物 人間魚雷(「回天」)
  • 金物 電探
  • 金物 電探防止
  • 金物 特攻部隊用兵器

1944年6月、マリアナ沖海戦で敗北した日本海軍は、空母機動部隊の再建を事実上諦めて、特殊奇襲兵器を優先的に開発、準備するようになる。

1944年7月、大海指第431号では作戦方針の要点の中で、好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅するために敵艦隊を前進根拠地において奇襲する、潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などによる各種奇襲戦を実施する、局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める、とした。

1945年1月、最高戦争指導会議において、全軍特攻化が、日本軍の最高戦略となる。

参考文献

渓 由葵夫『第二次世界大戦奇想天外兵器』シリーズ、新紀元社、1994 - 95年

脚注

  1. ^ なお黒木は日本の敗戦が濃厚になる以前から、人間魚雷の有効性について語っていた記録が残っている。
  2. ^ 渓 由葵夫『第二次世界大戦奇想天外兵器』シリーズ参考

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