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特別攻撃隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ファイル:Yokosuka D4Y3.jpg
1944年11月25日、空母エセックス」に突入直前の第4神風特別攻撃隊「香取隊」の艦上爆撃機「彗星」(山口善則一飛曹・酒樹正一飛曹搭乗)
ファイル:Chiran high school girls wave kamikaze pilot.jpg
1945年4月12日、知覧基地より出撃する陸軍特別攻撃隊第20振武隊穴沢利夫少尉(のち大尉)操縦の一式戦闘機三型甲「隼」と、それを見送る知覧町立高等女学校(現鹿児島県立薩南工業高等学校)の女学生達
ファイル:Kamikaze zero.jpg
1945年4月11日、戦艦ミズーリに突入寸前の神風特別攻撃隊「第5建武隊」の零式艦上戦闘機(石井兼吉二飛曹あるいは石野節雄二飛曹搭乗)

特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)とは

  • 太平洋戦争末期に日本軍が編成した、生還の可能性の無い(主に航空機による)連合国軍艦艇に対する体当たり攻撃を実行するための部隊。戦後から現在まで、普通に「特攻」と呼んだ場合はこれを指す。特攻隊(とっこうたい)・特攻(とっこう)と略す場合が多い。外国語においても「Tokko」(トッコウ)「Kamikaze」(カミカゼ)とは戦死を前提とした体当たり・自爆攻撃として通じている。本項参照。
    • 水中特攻、水上特攻に関しては本項の戦法の節の水上・水中特攻を参照、または戦艦大和以下第二艦隊の沖縄水上特攻に関しては坊ノ岬沖海戦を参照。
    • 陸上特攻に関しては本項の戦法の節の陸上特攻を参照
    • B-29への体当たり攻撃については本項の戦法の節の空中特攻を参照、または震天制空隊飛行第244戦隊を参照。
    • 日本以外の各国軍隊における特攻事例は本項の諸外国における特攻事例の節を参照。またはドイツ空軍の『エルベ特別攻撃隊』などの各項を参照
  • 日本海軍が漸減作戦用に開発した甲標的を用いて編成した泊地攻撃部隊。低い確率ながら生還の可能性もあり、作戦的に帰還者受け入れの準備も成されていた。このような通常の兵器ではない兵器も「特攻(特種攻撃)」兵器のカテゴリーに入るため、通例で言う特攻としばしば混同されることに注意を要する[1]

目次

概要

特攻(=特別攻撃)とは、爆弾を搭載した軍用機や、爆薬を載せた高速艇等の各種兵器を、敵艦船等の目標に乗組員ごと体当たりさせる戦法である。太平洋戦争末期の日本で、陸海軍あげての大規模な作戦として実施されたが、乗員が生還する可能性は皆無に等しく[注 1]「突入」すなわち「死」を意味すると言えた。

背景には、太平洋戦争末期における日本軍の航空機の数的不利と航空機燃料の品質悪化や航空機の生産過程での品質の低下、近接信管(VTヒューズ)やF6Fヘルキャット戦闘機に代表されるアメリカ軍イギリス軍の対空迎撃能力の飛躍的向上により、日本軍の航空戦力が劣勢になって、通常の航空攻撃では充分な戦果を敵艦隊から挙げにくくなったことがある。

海軍の特攻

従来より特攻を提案する者はいたが海軍組織が特攻に傾いた第一のきっかけは1944年2月のマーシャルの陥落、トラック空襲であった。[2]これにより最初の特攻兵器人間魚雷の試作が1944年2月26日に命じられることになる。[3] そして1944年6月マリアナ沖海戦の悲報が第二のきっかけとなり今まで考慮しなかった空中特攻を採用する動機になった。[4]また1944年7月10日に後の回天による特攻部隊である第一特別基地隊が編成される。[5] さらに台湾沖航空戦の結果、フィリピンでの稼動航空機数が激減し、少数の兵力で有効な戦果を挙げるために最も確率の高い方法として計画的に実行されたのが始まりである[要出典] これらの動きとは別に1945年10月大西瀧治郎が事前に軍令部の了承を取りフィリピン沖海戦において神風特別攻撃隊を編成し体当たり攻撃を敢行する。[6] ここまで建前として特攻は現地部隊の自発による編成の形をとっていたが1945年2月10日には第五航空艦隊の編成で軍令部連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われ沖縄戦の特攻へと進む。[7]


ファイル:Lt Yukio Seki in flightgear.jpg
最初の特別攻撃隊となる第1神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として戦死し軍神と畏敬された関行男大尉

レイテ沖海戦より始まった特攻であるが、「一機一隻撃沈」という事実は日米双方に衝撃を与え、硫黄島ウルシーサイパンへの作戦を経て、沖縄戦において最高潮に達した。沖縄周辺に侵攻したアメリカ海軍イギリス海軍オーストラリア海軍を中心とした連合国軍の艦隊に対し、日本軍は菊水作戦を発動して特攻隊を編成し、九州・台湾から航空特攻を行った。これと連動して戦艦大和以下の艦艇による“水上特攻”や回天、震洋などの体当たり艇など、各種特攻兵器が大量に投入された。

結果として特攻は護衛空母3隻を撃沈、複数の正規空母を終戦まで戦列から去らせるなど相応の戦果を挙げ、戦後の米戦略爆撃調査団はその有効性をかなり高く評価している。フィリピンで特攻による損害を強いられた連合国軍は、沖縄戦の頃にはピケット艦や空母艦載機編成の改編等様々な対策を採っており、特攻の有効性は大きく減じられることとなった。日本側はこの後も当初より問題視されていた威力不足の改善を図る等の対策を採り、想定される本土決戦に向けて大量の特攻戦備を整えている段階で終戦を迎えた。

陸軍の特攻

陸軍において特攻作戦の導入は1944年2月頃に本格的な検討が始まったと推定されている[8]。航空本部長の安田武雄は特攻導入に反対したが3月に更迭され、陸軍大臣兼参謀総長でもあった首相の東條英機と親しい後宮淳に交替した[8]。後宮や東條は航空本部や参謀本部において、体当たり攻撃の有効性について言及した[8]

サイパン島失陥直後の7月7日に参謀本部以下関係部門の幹部将校が大本営近くの市ヶ谷で開いた秘密会議で体当たり攻撃の導入論が強まり、特攻機の開発が促進された[9]。同月、鉾田教導飛行師団浜松教導飛行師団に特攻隊の編成が内示された[10]。8月中旬からは四式重爆撃機「飛龍」九九式双発軽爆撃機の体当たり機への改修が秘かに進められた[10]。9月28日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる[11]。 10月20日、大本営陸軍部から鉾田教導飛行師団に初の特攻隊編成命令が下される[12]

沖縄戦では、第6航空軍航空参謀を務めていた倉澤清忠少佐の証言[13]によると当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の戦闘部隊志願によって戦闘する特攻部隊に区別し、特攻部隊には(決号作戦の為に航空機を温存する為と操縦が容易な機体である)九七式戦闘機などの旧式機が主に配備されたという。 終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍東京)の指揮下で神鷲隊が編成された。 また、満州では、8月15日の玉音放送終了後も、8月9日に侵攻してきたソビエト軍と日本軍との間で戦闘が続いていたが(ソ連対日参戦)、8月19日には、満州に展開していた練成飛行隊の一部の操縦者が自発的に編成した「神州不滅特別攻撃隊」(九七戦を使用)が、ソビエト軍の機甲部隊に突入・自爆した。


名称の由来

特攻隊は、海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの部隊が編成されているが、最も著名なものが海軍の神風特別攻撃隊(命名者は猪口力平)で、これは海軍航空機からなる特別攻撃隊である。名称の由来は元寇を追い払ったと言われる「神風」から、本来の読みは「しんぷうとくべつこうげきたい」であるが、初出撃を報じる「日本ニュース」第232号[注 2]ナレーションで「かみかぜとくべつこうげきたい」と読んで以降、「かみかぜ〜」が定着した。あまりにも著名であるために、戦後には特別攻撃隊の別称として「カミカゼ」(Kamikaze)が使われる場合も多い。 陸軍の(航空)特別攻撃隊は、当初は海軍の「神風」のような統一した隊名を用いなかった。フィリピン戦線に投入された富嶽隊(浜松、四式重爆)と万朶隊(鉾田、九九双軽)に始まり、その都度命名された。

背景

ファイル:USS White Plains attack by Tokkotai unit 25.10.1945 kk1a.jpg
1944年10月25日、護衛空母「ホワイト・プレーンズ」に肉迫する第1神風特別攻撃隊「敷島隊」の零式艦上戦闘機。この直後、対空砲火に右翼を直撃され撃墜された。

大日本帝国陸海軍は、日露戦争において白襷隊旅順閉塞隊といった決死隊を編成したことはあったが、これは決して生還を期さない任務ではなく、ただ決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすと言う目的で作られた部隊であった。

太平洋戦争中、組織的特攻作戦実施以前にも航空機による体当たり攻撃が自主的・偶発的に行われており

  • 真珠湾攻撃の際、制空隊中隊長の飯田房太大尉(戦死後中佐)が、被弾。母艦蒼龍への帰還が困難と判断して、米軍カネオヘ基地に突入する。後に、この行為を「軍人の模範である」として、敵でありながら米軍は、飯田大尉顕彰碑をカネオヘ基地内に建立した。今でもその顕彰碑はカネオヘ基地に残り、飯田大尉の命日にして日米開戦の日である12/7前後には、慰霊の行事が執り行われている。
  • 珊瑚海海戦で機動部隊の上空直衛を行っていた宮沢武男兵曹の零戦が空母 翔鶴へ雷撃態勢に入ったTBD デバステーター1機を撃墜し、更にもう1機に対しては撃墜の暇なしと見て体当たりを敢行し撃墜、戦死。

また、既に形勢の決まっていた戦争後期に、本来地上で指揮をとる筈の第26航空戦隊司令官有馬正文少将(戦死後中将に特進)が、台湾沖航空戦において自ら攻撃部隊の空中指揮をとるとして、攻撃部隊の一式陸攻に搭乗し攻撃参加して未帰還、戦死するなど、特攻の下地は醸成されつつあった。後年、この有馬司令官の挺身攻撃が「特攻の先駆け」とも呼ばれるようになった。

日本軍では、東条内閣発足以来「生きて虜囚の辱めを受けず」(「戦陣訓」)という、捕虜に対する強い否定的意識が兵隊に訓育されていたことや、実際に真珠湾攻撃時に日本軍捕虜第一号となった酒巻和男少尉の存在を隠匿した海軍上層部(海軍省)に見られる様に、陸海軍共に捕虜となる事は恥であるとされ、負傷や乗機の損傷によって帰還が絶望的な場合は、自爆や敵に突入するという、他国の兵隊にはあまり見られない選択をする者が多かった。もっとも、連合国の国の兵士も、同じような状況に陥ったときに必ず降伏したわけではない[15]

ファイル:HMS Formidable (67) on fire 1945.jpg
沖縄近海で特別攻撃隊機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍空母ヴィクトリアス

編成

陸軍の特別攻撃隊編成

ファイル:USS Louisville hit by kamikaze.jpg
1945年1月8日、重巡洋艦ルイビル に陸軍特別攻撃隊「石腸隊」あるいは「進襲隊」の九九式襲撃機が命中した瞬間

陸軍において特攻作戦の導入は1944年2月頃に本格的な検討が始まったと推定されている[8]。航空本部長の安田武雄は特攻導入に反対したが3月に更迭され、陸軍大臣兼参謀総長でもあった首相の東條英機と親しい後宮淳に交替した[8]。後宮や東條は航空本部や参謀本部において、体当たり攻撃の有効性について言及した[8]

サイパン島失陥直後の7月7日に参謀本部以下関係部門の幹部将校が大本営近くの市ヶ谷で開いた秘密会議で体当たり攻撃の導入論が強まり、特攻機の開発が促進された[16]。同月、鉾田教導飛行師団浜松教導飛行師団に特攻隊の編成が内示された[10]。8月中旬からは四式重爆撃機「飛龍」九九式双発軽爆撃機の体当たり機への改修が秘かに進められた[10]。9月28日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる[17]

陸軍の(航空)特別攻撃隊は、当初は海軍の「神風」のような統一した隊名を用いなかった。フィリピン戦線に投入された富嶽隊(浜松、四式重爆)と万朶隊(鉾田、九九双軽)に始まり、その都度命名された。その当時の陸軍特攻隊指揮官は第4航空軍富永恭次中将である。


陸軍の最初の特攻隊の編成は鉾田、浜松の両教導飛行師団の腕利きを集めて行われた。10月20日、大本営陸軍部から鉾田教導飛行師団に編成命令が下され、翌日岩本益臣大尉以下16名が選ばれた[12]。鉾田の九九双軽は26日にフィリピンに到着後万朶隊と名づけられた後、初出撃を待つが11月5日、第4航空軍の命令で作戦打ち合わせに向かった隊長の岩本大尉以下5名が米戦闘機と遭遇し戦死。浜松の四式重爆はフィリピンに到着後富嶽隊と命名され、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還。山本機は未確認ながらも突入したと推定されている。富嶽隊は13日に、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死(戦果未確認)。残った富嶽隊、万朶隊はその後順次出撃し、万朶隊の佐々木友治伍長が戦後復員しただけで、ほかは全滅したが、航続距離を超えた遠距離目標を指示されて未帰還となるなど第4航空軍は焦りから無理な特攻隊運用を行っていた。
ところで万朶隊では、出撃を待つ間に爆弾を投下できるよう改造が施されていた[12]高木俊朗の『陸軍特別攻撃隊』によるとこの改造は岩本大尉自らが命じたとされ、岩本は「爆弾を命中させて帰ってこい」と隊員に語ったという[18]。これに従うと特攻とはいえ「生還を期さない」ものではなかったということになる。また、佐々木伍長は不時着や敵と遭遇できなかったりして数度にわたって出撃したが、その際に参謀から「体当たり」を強く求められたのに対し「必中攻撃で死ななくてもいいと思います。そのかわりに死ぬまで何度も行って爆弾を命中させます」と答え、その後も生還した[19]

沖縄戦では、第6航空軍福岡)所属の振武隊と第8飛行師団(台湾)所属の誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。また飛行第62戦隊の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、第6航空軍司令官は元陸軍航空総監菅原道大中将が務め、知覧都城などを基点に作戦が遂行された。また、海上から海上挺進戦隊など(マルレ)による攻撃も行われた。なお、第6航空軍航空参謀を務めていた倉澤清忠少佐の証言[20]によると当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の戦闘部隊志願によって戦闘する特攻部隊に区別し、特攻部隊には(決号作戦の為に航空機を温存する為と操縦が容易な機体である)九七式戦闘機などの旧式機が主に配備された。

また、本特攻作戦は陸海軍合同のもと実施されたが、戦死特攻隊員数の陸海との大きな差に代表される様に、元々特攻作戦自体が上述の通り海軍主導によるものであり、陸軍は当初消極的であった事や、陸軍航空部隊の搭乗員は陸軍航空という経緯や海軍航空との役割分担、太平洋戦争直前までソ連仮想敵国としたものだったことから、陸上沿岸部での運用をメインとした思想のもと航空機の設計開発、搭乗員の訓練がなされており、なんら目標の無い遠洋海上を天測によって自機の進路を決めるといった航法教育の分野も十分になされてなかった。そのため海上運用・対艦攻撃に適したものではなく、それ程大した戦果を望めなかった[注 4]。同作戦に参加した振武隊員1,276名のうち、航空機の故障などの理由によって帰投した605名は福岡県振武寮(福岡女学院女子寮)に収容され、その存在は秘匿された。振武寮では、担当者だった倉澤清忠らによって「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵倒されるなど、差別的待遇を受けた[21]。特攻隊員の生き残りは、その後、本土決戦のための特攻要員として全国に配備された。

終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍東京)の指揮下で神鷲隊が編成された。これらの隊は主に太平洋側に配備され、1945年(昭和20年)8月9日には第255神鷲隊(岩手より釜石沖に出撃)が、13日には第201神鷲隊(黒磯より銚子沖に出撃)、第291神鷲隊(東金より銚子沖に出撃)、第398神鷲隊(相模より下田沖に出撃)と3隊が出撃している。

終戦時には、特攻出撃を前にしての敗戦や特攻の生還を悔いて、浅間山伊勢湾などに愛機諸共に突入・自爆したり、自刃する隊員もいた。

また、満州では、8月15日の玉音放送終了後も、8月9日に侵攻してきたソビエト軍と日本軍との間で戦闘が続いていたが(ソ連対日参戦)、8月19日には、満州に展開していた練成飛行隊の一部の操縦者が自発的に編成した「神州不滅特別攻撃隊」(九七戦を使用)が、ソビエト軍の機甲部隊に突入・自爆した。

海軍の特別攻撃隊編成

海軍における特攻は1943年に既に一部から声が上がっていた。1943年7月19日黒島亀人が軍令部第二部部長微就任したことは海軍特攻採用に決定的な意義を持つと言われる。黒島は連合艦隊主席参謀のころからモーターボートによる特攻の構想を幕僚に語っており軍令部二部部長に就任後も1943年8月6日戦備考査部会議において必死必殺の戦を提案し例として戦闘機による衝突撃の戦法を挙げ1943年8月11日には必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備確立を主張している。[22]

1943年7月ごろ城英一郎が飛行機による肉弾攻撃を行う部隊を研究し大西瀧治郎に相談するが「意見は了とするが未だその時にあらず」と言われる。城英一郎は専門家などの協力で目標となる艦種ごとに具体的な戦法と効果をまとめていた。この構想が後に大西瀧治郎神風特別攻撃隊へとつながることになる。[23]

1943年12月28日最初の特攻兵器である人間魚雷が現場部隊から提案され永野修身軍令部総長に却下されるが、マーシャル陥落などにより1994年2月26日人間魚雷の試作を命じられた。[24] 1944年4月4日黒島亀人により作戦上急速実現を要望する兵力として各種特攻兵器が提案され軍令部で検討後海軍省へ緊急実験を要望した。艦政本部は仮名称を付して担当主務部定め特殊緊急実験を開始した。[25]

1945年6月25日元帥会議が行われ特攻が示唆される。会議後嶋田繁太郎総長は奇襲兵器促進班を設け実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日大森仙太郎が海軍特攻部長へ発令される(正式就任は9月13日)。[26] 水中水上特攻を重視しての人選であった。大森は全権を自分に委ねどの部署も自分の指示を聞くようにするという条件で引き受けた。マリアナ沖海戦の悲報が動機となっていた。[27] 1944年7月10日後の回天部隊の第一特別基地隊が編成される。[28] 以前より軍令部第二部部長黒島亀人や海軍省兵備局第三課課長大石保により空中特攻も要望されていたがマリアナ沖海戦敗北をきっかけに採用する動機が生まれた。岡村基春や大田正一城英一郎などから特攻に関する要望が上申される。また、サイパン失陥で国民からも必死必殺の兵器で皇国を護持せよとの声が軍に寄せられた。[29] 1944年7月21日軍令部総長嶋田繁太郎より連合艦隊司令長官豊田副武へ発令された大海指四三一号に特殊奇襲兵器(特攻兵器)の採用が含まれる。[30]

軍令部の特攻への動きとは別に大西瀧治郎による神風特攻隊が編成される。[31] 第一航空艦隊司令長官に内定した大西は出発前に海軍省米内光政大臣にフィリピンで特攻を行う決意を伝える。[32] また1944年10月8日及川古志郎軍令部総長に対し特攻を行う決意を述べ了承を取り付ける。 及川は命令ではないように念を押す。大西が総務局長であった時の部下杉山利一をはじめ様々な人へ特攻の決意を漏らし前任者である寺岡謹平にも特攻の構想を打ち明けている。また大西が出発前に既に部隊名や発表方法などを軍令部で打ち合わせいたことが分かる電文も存在する。[33] 一方で副官であった門司親徳によれば少なくとも台湾沖航空戦以前では被害や戦果で編成や攻撃目標は全く変わってしまうため決定していたということはありえないという。[34]

1945年10月19日夕刻マバラカットに到着後、二〇一空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平中佐などを招集し体当たり攻撃法を披瀝する。玉井が人選を行い猪口の意向で海軍兵学校出身者から選ばれ関行男が攻撃隊指揮官となった。10月20日に大西による訓示と部隊名発表があり、神風特別攻撃隊が編成される。[35]

海軍の神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日であった。大和隊、敷島隊、朝日隊、山桜隊の計24機が出撃したが悪天候などに阻まれ、ほぼ全機が帰還したが、大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった[注 5]。さらに連日のように各隊は出撃を繰り返すも空振りに終わり、23日に大和隊・佐藤馨上飛曹がスルアン沖の連合国軍艦船に突入(これも戦果未確認)。そして25日、敷島隊の関大尉(戦死後、中佐に特進)以下6機が、4度目の出撃で1機(一説には2機)がアメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈したのをはじめ、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げた。これを大本営は大々的に発表、敷島隊指揮官であった関は軍神として祀り上げられることとなった。

ここまで実態はともかく特攻は現地部隊の自発による編成の形をとっていたが1945年1月19日天皇へ全軍特攻化の説明を行い、1945年2月10日には第五航空艦隊の編成で軍令部連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われ沖縄戦の特攻へと進む。第五航空艦隊長官となった宇垣纏は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた。[36]

一説として強制は陸軍に多かったとも言われる[要出典]が、海軍の「第一号」の関行男大尉は志願ではなく(決して命令による強制はしてはならない、と言う事前の上層部の合意があったにもかかわらず)上官の指名による事実上の強制であった。一昔前の文献[37][38]では指名されたその場で熟考の後即答したといわれているが、近年の文献[39]では「一晩考えさせてくれ」と即答を避け、悩んだ末に家族を守るため(関は新婚だった)最終的には本人の決断により受け入れており、食い違いがある[注 6]

本来、一航艦はレイテ沖海戦において突入してくる連合艦隊の艦隊上空の護衛を行い制空権を確保する手筈になっていたが、前述の台湾沖航空戦で受けた大打撃により残存兵力では作戦遂行不可能になっており、この作戦目的を果たすためには米軍空母部隊の飛行甲板を一時的にでも使用不能にさせ、米機動部隊の圧倒的な航空戦力を麻痺させて空襲を阻止するしかなかった。この、敵空母攻撃をするにしても連合軍との兵力差は圧倒的であり、兵力が無い状態でこれを出来るだけ確実に遂行するには、爆撃機より速度の速い(敵迎撃網を突破しやすい)零式艦上戦闘機に積載上限一杯の250kg爆弾を積んだ上で、操縦者諸共体当たりすることにより命中率を上げることで行うしかなかったのである。大西は生還を全く見込めない戦法を自ら「外道の統率」であると認識していたが、アメリカ機動部隊の航空戦力を一時的に麻痺させることは栗田艦隊のレイテ突入支援に有効な戦法と判断し、実行を命じたのである。[要出典]

「特別攻撃隊航空特攻は、通常数機の特攻機と護衛の直掩機から編成されていた。直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による突入を見届けた後、帰還して戦果の報告を行った。しかし、直掩機も特攻機とともに連合軍艦隊の防空圏に突入を行うわけであり、特攻隊とともに未帰還になる機体も少なくなかった。敷島隊の直掩を行ったのも当時のエース・パイロットの一人西沢広義飛曹長であった[注 7]。一方で南義美少尉(第3神風特別攻撃隊「笠置隊」。1944年11月25日戦死)、角田和男少尉(神風特別攻撃隊「梅花隊」「葉桜隊」「大義隊」。特攻待機中に終戦)、坂井三郎少尉のように歴戦の搭乗員であっても特攻を命じられることがあった[注 8][注 9]。また逆に特攻を志願したものの、優れた戦闘技倆を惜しまれ受理されなかった菅野直大尉[注 10]杉田庄一上飛曹の例もある。」特別攻撃隊への参加者は本人の志願の上で司令部が選別する事とされたが、志願者が不足した場合、上官が指名せざるを得ない状況に追い込まれ、半ば強制的に志願させられた隊員もいたと言われる。一方で隊員のほぼ全員が「熱望」し(「熱望」・「希望」・「志願せず」から隊員が選択する)、志願者数がオーバーして編成に苦慮した部隊もあり、事情は様々だった。搭乗前に失禁、失神する隊員もおり、怖じ気づいて整備兵に抱えられて搭乗するものもいた[40]。 「たとえ志願者であっても、兄弟の居ない者や新婚の者はなるべく選考から外す」とされたが、戦局が極度に悪化した沖縄戦後半頃の大量編成時には、その規定が有名無実化した部隊もあった。また大戦末期には、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされ[41]、そこから志願者を募ると言う事もなされている。 特攻により戦死した搭乗員は、特別進級[注 11](特進)の栄誉を受けることが原則[注 12]であった。この様な進級制度の為、上層部には「どうせ通常攻撃でも戦死する可能性が高いのだから、特攻で確実に戦果をあげさせて特進の栄誉[注 13]を与える」という考えもあった。特攻隊として全軍に布告された航空部隊(特に、九州沖航空戦時以降の海軍の第一線の実用機による作戦部隊)の搭乗員の戦死者の中には、編成・出撃時には通常攻撃を実施する部隊として扱われたものの、攻撃実施後に特攻隊(特攻戦死)扱いとされる形で全軍布告された事例も少なくない。[要出典] 戦時中から見られる海兵出身の士官と予備士官の間での対立や待遇の差も多くあった[42]。一例として、海兵出身の関行男大尉の戦果を特攻戦死第一号とし、関よりも4日前に未帰還となっていた予備士官の久納好孚中尉を特攻戦死第一号に認定しなかったところにも現れている[注 14]。かくして、多数の若い命を呑み込んだ特攻であったが、機材、燃料の不足、本土決戦の為等から温存され始め、10次に渡る菊水作戦が終了すると出撃のペースは鈍化、沖縄方面への特攻は1945年8月11日、喜界島に最後まで残っていた第二神雷爆戦隊の岡島四郎中尉以下2機の爆戦が米機動部隊突入を行い途絶えた。本土からの特攻は1945年8月15日、百里原基地からの第4御楯隊の彗星8機、木更津から第7御楯隊の流星1機によって行われ全機未帰還。これが玉音放送前の最後の出撃であった。[43]

なお、自発的な体当たり攻撃としては、8月15日の玉音放送終了後にも、占守島に侵攻してきたソビエト軍に対し、日本軍が行なった反撃の際、8月18日には、現地(北千島)の陸海軍の航空部隊によるソビエト軍艦艇や輸送船団に対する攻撃が行なわれたが、その際、攻撃に参加した九七式艦上攻撃機4機のうちの1機が、ソビエト軍艦艇の対空砲火により被弾した後、別のソビエト軍艦艇に体当たりし自爆したと伝えられる例もある。おなじく18日には、ウラジオストクに停泊していたソ連タンカーに、第九〇一海軍航空隊所属鎮海海軍航空隊 塩塚良二中尉の操縦する二式水上戦闘機が特攻、対空砲火で撃墜された。塩塚の遺体はソ連軍によって回収された[44]

また、陸軍航空隊と同じように、終戦直後には、特攻出撃を前にしての敗戦や特攻からの生還を悔いて、東京湾などに愛機諸共に突入・自爆する搭乗員や自刃する特攻隊員もあった。ただし、東京湾などに突入・自爆した搭乗員の中には、厚木基地の第三〇二海軍航空隊などのように、特攻を実施しなかった航空部隊の搭乗員であるケースも多かった。

これらとは別に、菊水作戦の最高指揮官であった、第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将は、玉音放送終了後の8月15日夕刻、大分基地から艦上爆撃機・彗星43型に搭乗し、列機10機(長官搭乗機を含めて計11機)を率いて沖縄近海の米軍艦隊に突入、戦死した(うち3機は、途中で不時着した)。

特攻に反対した主な軍人

部隊に打診のあった特攻作戦を撥ね付けて、これが黙認された第343海軍航空隊(343空)飛行長志賀淑雄少佐[注 15]の例もある。戦争末期でのこのような事例は珍しい。また、熟練者による夜間通常襲撃の有効性を主張し、特攻を指示する上層部を論破して終戦まで沖縄に夜間襲撃を続けた芙蓉部隊隊長の美濃部正少佐も部下に特攻をさせなかった人間として後世の評価は高い。第203海軍航空隊戦闘第303飛行隊長であった岡嶋清熊少佐も、特攻には断固反対であり、国賊と言われても自らの部隊からは特攻隊を出さなかった。玉音放送後も徹底抗戦を唱えて反乱状態となった厚木航空隊第302航空隊司令の小園安名大佐も、特攻には反対していたという。[要出典]また、『桜花』(神雷特別攻撃隊)空輸の一式陸攻部隊の部隊長だった野中五郎少佐は、特攻には批判的だったが、自身は特攻作戦で戦死する。[要出典]エース・パイロットのひとり岩本徹三少尉は戦闘機搭乗員の立場から、「死んでは戦争は負けだ。戦闘機乗りは何度も戦って相手を多く落すのが仕事だ。一回の体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」と特攻拒否を公言して憚らなかった。陸軍では飛行第62戦隊の石橋輝志少佐・戦隊長は、大本営作戦課で第62戦隊を特攻部隊に編成訓練するよう要請されると「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死にしたくない」と拒否した[45]。石橋はその日のうちに戦隊長を罷免された[46]。この後、第62戦隊は特攻専用機に改造された四式重爆撃機を装備して特攻攻撃に借り出されている。

沿革

1944年 3月頃 海軍軍令部において特攻兵器の試作、開発方針固まる。遅れて陸軍も特攻戦法研究着手。
7~9月頃 海軍は震洋、桜花、回天を完成、部隊編成開始。陸軍もマルレ艇を完成、四式重爆、九九双軽の体当り機への改造着手。
8月20日 北九州上空にて野辺重夫軍曹以下2名、屠龍でB-29に体当り。2機を撃墜、戦死。
9月8日 第4航空軍司令官に富永恭次陸軍中将着任。
9月28日 参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる[47]
10月12日 台湾沖航空戦(〜16日)。在フィリピン陸海軍航空部隊壊滅。15日、有馬正文海軍中将戦死。
10月17日 大西瀧治郎海軍中将、第一航空艦隊司令長官に着任(発令は10月5日)。特別攻撃隊編成命令下る
10月21日 海軍、第一次神風特別攻撃隊初出撃。空振りに終わるも大和隊隊長、久納好孚中尉未帰還。
組織的体当り攻撃(特攻)戦法の使用開始
10月20日 大本営陸軍部から鉾田教導飛行師団に編成命令が下される[12]
10月25日 敷島隊(零戦6 隊長:関行男大尉)、突入に成功、米護衛空母「セント・ロー」を撃沈。
他に零戦10、彗星1が突入。米艦船5隻を撃破。
フィリピン沖海戦の趨勢決まる。連合艦隊壊滅。
11月7日 陸軍、特別攻撃隊"富嶽隊"初出撃。山本中尉機未帰還。
11月20日 海軍、回天特攻隊"菊水隊"4基、ウルシー環礁で初出撃。戦果未確認。
11月24日 B-29による東京初空襲。陸軍第10飛行師団第47戦隊見田義雄伍長、B-29に体当り。組織的空中特攻始まる
11月26日 義号作戦。ブラウエン飛行場に"薫空挺隊"降下。初の空挺特攻。戦果未確認。
1945年 1月9日 リンガエン湾にて陸軍海上挺身隊第12戦隊(戦隊長:高橋攻大尉)40隻(一説には70隻)が米上陸部隊に対して挺身攻撃(マルレ艇初出撃)。
戦車揚陸艇など撃沈6隻、撃破10隻の戦果を挙げるも、反撃により生存者2名を残し全員戦死。
1月12日 在フィリピン陸軍航空部隊、最後の特攻出撃。
1月25日 在フィリピン海軍航空部隊、最後の特攻出撃。フィリピンでの航空特攻終結
※フィリピンでの航空特攻はこれで終結した。特攻機数は陸軍202機、海軍333機。戦死者は陸軍252名、海軍420名であった。
 米軍が公式に認めている艦船の損害は、空母(護衛空母含む)撃沈2、撃破18、戦艦撃破5、巡洋艦撃破8、
 駆逐艦撃沈3、撃破22、上陸用舟艇撃沈14、計撃沈19、撃破53である。
 但し、これらの損害に米海軍所属外の艦船の被害は含まれていない。
2月19日 連合軍、硫黄島に上陸作戦開始。硫黄島戦始まる。海軍、硫黄島周辺の艦船に向け特攻作戦開始。
2月21日 千葉県香取基地から出撃した第二御盾隊(第六〇一海軍航空隊から抽出されて編成)が、八丈島飛行場を経由して、硫黄島沖の米軍艦隊に突入。
3月11日 鹿屋基地からウルシー環礁への長距離特攻、"梓隊"出撃。空母1撃破。
3月18日 九州沖航空戦始まる(〜21日)。
3月21日 第一神雷桜花隊(桜花15、一式陸攻(母機)18)出撃。桜花初出撃。進撃中、米戦闘機に迎撃され母機諸共全機未帰還。戦果無し。
3月26日 天号作戦発動
4月1日 連合軍、沖縄に上陸作戦開始。
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1945年5月26日、出撃前日の陸軍第72振武隊隊員達(中央が荒木幸雄伍長)。翌日九九式襲撃機10機で沖縄南部海面の米機動部隊に突入。10名の隊員のうち隊長の佐藤睦夫中尉(陸士56期)が25歳で最年長、10代が3人おり、最年少の17歳は2人いた。
4月6日〜7日 菊水一号作戦開始。菊水作戦(沖縄への大規模航空特攻作戦)始まる。
水上特攻隊、戦艦大和以下第二艦隊壊滅坊ノ岬沖海戦)。
4月10日 菊水二号作戦開始。
4月16日 菊水三号作戦開始。
4月17日 バギオ近郊イリサンにて、丹羽治一准尉以下11名が九五式軽戦車九七式中戦車各一両で
M4中戦車に体当り特攻。三両撃破(戦車の頭突き)。
4月22日 菊水四号作戦開始。
5月3日 菊水五号作戦開始。
5月11日 菊水六号作戦開始。
5月24日 菊水七号作戦開始。義烈空挺隊、沖縄の米飛行場に強行着陸(空挺特攻)。
5月28日 菊水八号作戦開始。
6月1日 菊水九号作戦開始。
6月21日 菊水十号作戦開始(最後の菊水作戦)。
6月23日 陸軍第32軍司令官 牛島満中将、参謀長 長勇中将と共に摩文仁で自決。沖縄での組織的戦闘終わる。
※以後、兵力、機材、燃料の枯渇及び本土決戦のための兵力温存の為散発的な特攻攻撃となる。
7月1日 第180振武隊が都城より出撃し、陸軍の沖縄航空特攻終わる。
8月11日 喜界島から海軍第2神雷爆戦隊2機が沖縄の連合軍艦船群に突入。沖縄への航空特攻終わる
※沖縄への航空特攻は海軍1026機、1997名、陸軍886機、1021名を数える。
8月15日 木更津から流星艦上攻撃機1、百里原から彗星8が特攻出撃(最後の特攻)。
正午に玉音放送、終戦。準備されていた第一次古鷹隊の出撃、取り消し。
午後(夕刻)、宇垣纒海軍中将、計11機を指揮して大分基地から沖縄に出撃。8機突入、戦果無し[注 16]

特攻隊員

構成人数・比率と戦死者数

殆どの特攻隊員は下士官学徒出陣士官将校)である。海軍では下士官・兵は予科練、陸軍では少年飛行兵出身であり、部隊編成上特攻の主軸となった。そして学徒出陣の士官は海軍は主に飛行予備学生、陸軍は主に幹部候補生特別幹部候補生特別操縦見習士官出身者からなる。

海軍の全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が648名と全体の85%を占めた[48]。これは当時の搭乗員における予備士官の割合をそのまま反映したものといえる。

あ号・捷号・天号作戦期間中の海軍搭乗員の戦死者数を下表[49]に挙げる。比島戦期間中の数字には同時期に行われた501特攻隊・第一御盾隊の戦死者数が含まれる。

階級あ号作戦期間中の戦死者数構成比率捷号作戦期間中の戦死者数(内特攻)構成比率天号作戦期間中の戦死者数(内特攻)構成比率
士官99名6.5%185名(内33名)9.9%190名(内52名)6.6%
予備士官23名1.5%163名(内75名)8.7%963名(内507名)33.6%
特務士官38名2.5%30名1.6%55名1.9%
准士官115名7.5%124名(内10名)6.6%67名(内17名)2.3%
下士官兵1,257名82.0%1,371名(内299名)73.2%1,591名(内1,014名)55.5%
合計1,532名100.0%1,873名100.0%2,866名100.0%

一見してわかるように、顕著に増加したのは天号作戦期間中の予備士官の戦死である。これはこの頃から予備士官の実戦配備が軌道にのり、以後急速に士官の数的主力を占めていく過程と連動している。

下表[49]は昭和20年4月1日現在の海軍航空隊の搭乗員構成比率である。すでに予備士官は士官の5倍近い数に達しており、この後さらに終戦までに海兵出身士官の補充0名に対して予備士官は実に6279名が新たに戦列に加わった。終戦時点で海兵出身士官1034名に対して予備士官は8695名にも及んでおり、全体の9割を占めるに至っていた[48]

階級S20.4.1現在数構成比率
士官1,269名5.3%
予備士官5,944名25.0%
特務士官675名2.8%
准士官827名3.5%
下士官兵15,114名63.0%
合計23,829名100.0%

海軍の特攻戦死者として認定されたのは捷号作戦期間中戦死者数1,873名中419名(22.4%)、天号作戦期間中戦死者数2,866名中1,590名(55.5%)であった。
※ 特攻戦死者数の合計が一致しないのは、資料の差異や後日調査結果の補完などに起因するものと推測される。

2010年8月現在確認されている特攻隊員戦死者数は

海軍
  • 海軍航空特攻隊員:2,531名
  • 特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
  • 回天特攻隊員:104名
  • 震洋特攻隊員:1,081名
  • 合計:4,156名
陸軍
  • 陸軍航空特攻隊員:1,417名
  • 丹羽戦車特攻隊員:9名
  • 陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名
  • 合計:1,689名

この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者、義烈空挺隊等の特攻作戦関連戦没者などが以下となる。

  • 第二艦隊戦没者:3,751名
  • 回天部隊関連戦没者:1,083名
  • 震洋部隊関連戦没者:1,446名
  • 陸軍航空関連戦没者:177名
  • 海上挺身隊関連戦没者:1,573名
  • 空挺部隊関連戦没者:100名
  • その他(終戦時自決、神州不滅特別攻撃隊、大分701空による「宇垣軍団私兵特攻」など)戦没者:34名
  • 合計:8,164名

以上合計14,009名を数える[50]

「特攻隊」生還者

特攻隊員に指名されるも生還したという例も多い(沖縄戦時の帰投例は全出撃の半数にも上る)。機材故障、体調不良、天候不良、理由を付け出撃を回避、突入直前に撃墜され捕虜となる、出撃日を指定されるもその直前に終戦、等々理由は様々である。戦中の場合、再度特攻の任を受け出撃するケース、特攻の任に耐えずと判断され休養に出されたケース、部隊から排除されたケースもあった。

戦後、特攻隊員の大多数は一様に心に傷を負いながらも戦後復興・経済発展の為に日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。しかし一部の者は社会や価値観の変貌に付いていけず、また彼らを「特攻くずれ」と称して蔑む風潮もあり、敗残兵として冷遇を受け、そのため自暴自棄になり反社会的な行為に走る者も出現した。また特攻と無関係の者が自らを元特攻隊員と偽り、犯罪を行うこともあった[要出典]

元特攻隊員の著名人

反社会的行為を行った人物に天下一家の会内村健一、元特攻隊員と偽ったとされる犯罪者に別府3億円保険金殺人事件の荒木虎美、等々がいる。また、自称特攻隊員の有名人としては鶴田浩二がいる。

特攻隊員の姿

角田和男少尉によれば特攻出撃前日の昼間に喜び勇んで笑顔まで見せていた特攻隊員たちが、夜になると一転して無表情のまま宿舎のベッドの上でじっと座り続けている光景を目の当たりにし、部下に理由を尋ねたところ、目をつぶると恐怖から雑念がわいて来るため、本当に眠くなるまであのようにしている。しかし朝が来ればまた昼間のように明るく朗らかな表情に戻ると聞かされ、どちらが彼らの素顔なのか分からなくなり割り切れない気持ちになったという。[51] 大刀洗陸軍飛行場に隣接した料亭経の娘は、黙々と酒を飲む組と、軍指導部を批判して荒れる組の二種類に分かれ、憲兵ですら手が出せず、朝まで酒を飲んで出撃していったと証言している[52]

岩本徹三少尉の手記には特攻による士気の低下を書きとめており、特攻を“勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後の悪あがき”と批判した。[53] 坂井三郎中尉は特攻で士気があがったと言われるのは嘘で士気は低下した、上がったというのは大本営と上の連中の大嘘だと戦後のインタビューに答えている[54]渡邉恒雄ニューヨーク・タイムズのインタビューにおいて、二等兵として入隊した太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは屠殺場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がる事が出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている[55]ある特攻隊員は「俺は国のために死ぬのではない、この命令をした上官にあてつけのために無駄死にするのだ」と乗艦前にやけくそ気味に離陸していくものなど、胸のうちは様々だったのが見て取れる。[要出典]

特攻隊の指揮官の冨永恭次の長男である冨永靖や寺岡謹平海軍中将の子息は特攻戦死し、阿部信行総理大臣、松阪広政司法大臣ら官僚の子息も特攻隊員として戦死、黒木國雄少尉は父・肇の目の前で見送られ特攻出撃、戦死するなど、いかに戦局が厳しかったのかを物語っていた。谷藤徹夫陸軍少尉は自機に新妻を乗せ、大倉巌陸軍少尉機は親戚の女性(許嫁)を同乗させて特攻した。[要出典]

特攻花

特攻隊員の間では特攻花と称し、機内にほか日本の花を持ち込み、その花を本土(大隅薩摩半島の岬)から離れる瞬間に投げたり、そのまま胸に抱いて戦場へということが多かった。しかし、特攻花といわれるものは実際、外来種のため議論を呼んでいる[56]

戦法

空中特攻

神風特別攻撃隊における戦術の考案は1943年7月ごろに城英一郎によって研究されたものである。城は研究のため専門家に攻撃効果を聞いて回り、艦政本部や航空本部第一部第一課宮川義平や造兵監督官森川敏人などの協力を得て爆撃効果や機材関係について研究を進めて計画を大西瀧治郎にも相談するが「意見は了とするが未だその時にあらず」と言われる。城英一郎の計画案は決死の志願者で編成し体当たり攻撃を行うというもので既に主力艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、輸送船などの艦種ごとに具体的な戦法や効果などがまとめられていた。専用の特殊攻撃機の構想も記載されている。[57]

目標艦艇に突入するためには、まずアメリカ軍やイギリス軍をはじめとする連合国軍の迎撃(護衛戦闘機)隊の防空網を掻い潜らなければならず、その次には目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕を潜らなければならない。こうした防空網を掻い潜るためには、本来なら最新鋭の機体に訓練を積んだ操縦者を乗せ、敵迎撃機を防ぐ戦闘機を含む大部隊が必要であり、さらに無事雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要であった。しかも戦争後半には、VT信管装備の砲弾による対空射撃やレーダー管制による迎撃、優秀な新型戦闘機の投入等が大きな難関となっていった。その為、戦果を挙げるにはその外縁に位置する哨戒用の艦艇、すなわち駆逐艦を狙わざるを得なくなった。こうした事情から、日本軍の攻撃対象は本来狙うべき正規空母戦艦などの主力艦艇から、駆逐艦や護衛空母などの補助艦艇に移行していった。実際、沖縄戦で特攻機によってアメリカ軍が受けた被害は、輸送船や駆逐艦に集中している。

当初は、連合国軍の意表をついてそれなりの戦果を挙げる事が出来た。しかし、アメリカ海軍を中心とした連合国軍は次第に特攻に対する防衛策を整えるようになった。先ずレーダーピケット艦や偵察機で出来るだけ特攻機を早く発見し、邀撃機で迎撃し、それらを通り抜け艦隊に達した特攻機に対しては、大型艦は円運動を小型艦は直線高速運動を行って、レーダーと連動した防御砲火によって、突入体勢に入る前に撃墜を容易にし、突入体制に入れても艦船への命中を難しくした。当初70パーセントの特攻機の命中率を、至近も含めて30パーセント以下に抑え得たが[要出典]、それでも防御可能射程範囲内へ突入されれば命中率は通常の攻撃よりかなり高く、硫黄島や沖縄での海軍艦艇の損害のほとんどが特攻機によるものであり米軍を悩ませた。零戦の様な、速度超過を防止する為のダイブブレーキを持たない機体は、突入直前に機体が浮き上がってしまったり、操縦不能になったり、被弾でフラッター現象等を起こし空中分解してしまう為、操縦者にはこれを抑制する技量や自制心も必要になった。また突入に成功しても機体強度と運動エネルギーが艦艇の装甲強度を上回れず、艦艇に命中しても機体ごと装甲に弾き返されることもあった。特に飛行甲板に厚い装甲を施したイギリス空母にその傾向が見られた[注 17]神雷部隊(零戦の新造機を使用した「建武隊」)などの一部の部隊では、突入直前に爆弾を投下する戦術も用いられている。

末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の九九高練二式高練、海軍の機上作業練習機「白菊」、複葉練習機(いわゆる「赤トンボ」)などの練習機も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存するためにアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300馬力から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していた為、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった[注 18]

艦隊網の外部に位置し早期警戒を行うレーダーピケット艦に、「現在特攻機を追跡中」[注 19]という打電をされたという逸話もある。だがまったく使えなかった訳でもなく、古い羽布張りの複葉機などの場合VT信管が作動しなかったり、機関砲弾が命中しても貫通するだけで炸裂しなかったり、また低速で突入艦への狙いが付け易い事等から、僅かながらも戦果を挙げている。九三式中間練習機による特攻は、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦「キャラハン」を撃沈し、30日には「キャシン・ヤング」と「プリチェット」に突入して損害を与えた。

陸軍は本土上空を護るための十分な能力を持つ高高度迎撃機が日本に当時存在しなかった為、体当たりをしてでも防ごうと、武装、防弾装備や通信アンテナすらも一切取り払った「無抵抗機」と称した機体を仕立て、これによってB-29に体当たりする迎撃部隊を発案した。最初に組織化されたのは昭和19年11月7日、首都防空部隊であった第10飛行師団の隷下部隊に対し師団長心得吉田喜八郎少将から、1部隊につき各4機ずつ体当たり機の編成命令(震天制空隊)が発令された時である。この後、大都市圏の防空任務部隊を中心に空対空特攻部隊が組織されていくこととなる。 初出撃は同年11月24日、サイパン島より東京に初来襲したB-29に対するものであった。この戦闘で飛行第47戦隊所属の見田義雄伍長が二式複戦「屠龍」で体当たりを敢行し1機を撃墜して戦死。同じく飛行第53戦隊入山稔伍長は突入間際に機体が空中分解、戦死した。 こう言った戦死が相次ぐ一方で、2回体当たりして2回とも生き残り、遂には沖縄艦船特攻で戦死した飛行第244戦隊の四之宮徹中尉や、同じくB-29に2回体当たりを敢行して生還した中野松美伍長[注 20]のような例もあり、搭乗員は落下傘降下やもしくは損傷した機体で生還出来る可能性があった為、対艦船特攻の様に100%死を覚悟しなければならないものではなかったが、死亡率は極めて高く、やはり特攻であることに変わりは無かった。 なお、これらの特攻は衆人環視の中で行なわれたものであった為、戦果の翌日は写真付で新聞紙面を飾ることが少なくなかった(参照:震天制空隊飛行第244戦隊)。実際、衆人環視の中で落下傘が開かず墜死する操縦者を見たという証言は多く、そのうち何人かは宮城(皇居)に向かって敬礼しつつ墜ちていったと伝えられている。

海軍も空対空特攻隊は組織としては結成しなかったものの(終戦直前に「天雷特別攻撃隊」を組織し、訓練に入っていたが実戦には参加せず)、自発的な特攻は相次いだ。陸軍空対空特攻隊の初出撃に先駆けること3日前の昭和19年11月21日、海軍352空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、北九州上空でB-29に体当たりして撃墜、戦死している。 だが、一部では1機で2機を体当たり撃墜したような戦果もあったものの、全体的に見ると重防御を誇るB-29は2機の体当たりを受けても生還出来た機体があったように、総合的な戦果はあまり芳しくなかった。B-29の日本本土爆撃において1回の攻撃あたりの最大の損失率は15.9%、平均1.38%であったと言われる。機数での数字としては延べ約33,000機の出撃に対し戦闘での喪失機数は450機であった。勿論この数字は特攻だけでなく、昼間戦闘機、夜間戦闘機、高射砲の戦果も含んだ数であり、対敵飛行機特攻のみの戦果はかなり低くなる。そして昭和19年6月15日の北九州初空襲以来、終戦までにB-29によって本土に落とされた爆弾は14万7,000トン[注 21]にのぼると言われている。)

結局こうした苦心の策も、硫黄島を占領され、B-29がP-51を初めとする優秀な最新鋭戦闘機を護衛に引き連れてくるようになると、組織的な空対空特攻隊の編成は下火となっていった。また空母艦載機群が本土空襲を始め、日本本土の各航空基地に来襲するようになると、地上撃破されていった。しかし、その様な状況の中でも僅かながら戦果を挙げている[58]

占領された飛行場に強行着陸ののち、搭乗した兵員が駐機中の敵機を攻撃し使い物にならなくしようとする「義烈空挺隊」やフィリピン戦末期に行われた台湾高砂族によって編成された「薫空挺隊」を使用した「義号作戦」、高千穂降下部隊を使用した「テ号作戦」の3つを行なった空挺特攻がある。

水上・水中特攻

第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将)の戦艦大和」と第二水雷戦隊による沖縄水上特攻(菊水作戦)では、片道燃料での出撃を命じられていた。具体的には軍令部より2,000トンの重油が割り当てられ、連合艦隊もこれを了承、軍令部第一部長の富岡少将は連合艦隊参謀副長の高田少将にこれを厳守するよう命じている。4月の時点で海軍の重油在庫は5万トンを切っており、南方航路が途絶し、各種資源、食料を日本に供給する最後の砦とも言える朝鮮、満州との日本海航路を護衛しようとすれば、月に7,000トンの重油が最低限必要と海上護衛総隊が要求している状況下では当然の帰結であった。もっとも2,000トンだから片道と言う訳ではなく、戦闘行動を行いながらでも何とか1往復は出来る量であった。

しかし連合艦隊の現場側は「はらぺこ特攻」など容認せず(参加駆逐艦長は「死にに行くのに腹いっぱい食わさないという法があるか!」と叫んだと言う)、呉鎮守府補給担当、徳山燃料廠まで巻き込み、責任追及を受けた場合には「命令伝達の不徹底であり過積載分は後日回収予定であったが果たせなかった」との口裏合わせまで行って燃料を補給した。結果、第一遊撃部隊(第2艦隊の所属艦から可動艦で編成)はタンクの底の通常は計量しない帳簿外の重油まで搭載しており、大和は満載6,300トンのところを4,000トン(約63%)、矢矧は満載1,400トンのところを1,300トン(約93%)、駆逐艦以下は満載で総計1万トン以上、当初予定の5倍の燃料が搭載された。基準速力の16ノットであれば4往復から5往復、燃料消費が5倍に達する全速を出しつづけても往復出来るだけの量であったが、日本の航路護衛はこの時点で破綻したとも言える[59]

陸上特攻

日中戦争以降、日本陸軍では九七式中戦車に対戦車地雷を取り付けて敵戦車に体当たりする戦法や、歩兵が爆弾を抱えて敵戦車に体当たりする戦法が行われることが多数あった。

対戦車特攻で有名なのはフィリピン、バギオ近郊イリサンでの丹羽戦車部隊によるM4中戦車に対する戦車特攻である。1945年4月12日、軍司令部の置かれていたバギオに対して侵攻してきたアメリカ陸軍に対して、第14方面軍司令官山下奉文大将は司令部直轄戦車隊であった戦車第10連隊第5中隊に対して決死特攻隊の編成を命じ、アメリカ陸軍戦車部隊の侵攻阻止を厳命した。

この命を受け、丹羽治一准尉以下11名が九五式軽戦車、九七式中戦車各一両の戦車前方に先端に20kgの爆薬を取り付けた長さ1mの突出し棒を取付け、体当り特攻を仕掛けることとなった。17日午前9時、イリサン橋西北200mの曲がり角に差し掛かったアメリカ陸軍のM4中戦車に対して丹羽戦車隊が奇襲。不意の出現に慌てたアメリカ陸軍の先頭戦車は操縦を誤り50mの崖下に転落。さらに丹羽戦車隊の2両が後続車に体当りを仕掛け、双方の戦車4両が大破、炎上した。狭隘な道であったためにこれらの残骸の除去は難航。アメリカ陸軍は約1週間の足止めを受け、その間にバギオの司令部は整然と撤退したのである。日本の公刊戦史ではこれを「戦車の頭突き」と称している。

このような戦法を採らざるを得なかったのは、陸軍に対戦車火器が不足していたからである。砲や砲弾の製造技術が低かったこと、成形炸薬弾や携行射出装置(他国ではアメリカのバズーカやドイツのパンツァーファウスト、イギリスのPIATとして大戦中に使用)への注目の遅れ、全体的な生産力や先見性の欠如などから対戦車火器の欠乏は絶望的であり、歩兵がM4やT-34などの連合軍戦車を正面から撃破する事はほぼ不可能だった(これは、民間人に対し、竹槍を用いた白兵ゲリラ戦訓練が強制されていた事からも窺える)。火力の不足は血で贖われ、効果の薄い挺身肉薄攻撃で多くの将兵が命を落とした。追い詰められた日本軍はさらに生還の可能性が無い自殺攻撃に手を染めるようになる。沖縄戦では本来軍が守るべき民間人(学生)を現地徴用した鉄血勤皇隊に地雷や爆薬を抱えて戦車に体当たりする戦法を行わせることまでしている。

満州国に展開していた関東軍では、ソ連軍の侵攻に備えて肉攻(特攻)班が編制された。これは国境線上に掘った蛸壷に隠れた2人1組の兵士が2人がかりで野砲の15センチ榴弾を抱え、先端の信管をソ連軍戦車にぶつけて破壊しようという戦法であった。実際に戦果がどの程度あったかは不明である。

特攻に使用された主な機体

戦闘機機
ファイル:A6M5 52c Kyushu.jpg
1945年、九州基地の零戦52型。

など。

爆撃機・攻撃機
練習機

など。

特攻兵器
ファイル:KaitenType1.JPG
特攻兵器回天一型。所謂人間魚雷で最初に考案された特攻兵器。ハッチの開閉は手動では内部からしかできなかった。外部から開けるには下部ハッチは六角レンチで、上部は十字の突起を工具で回した。(遊就館
ファイル:MXY7 Ohka Cherry Blossom Baka Ohka-3bs.jpg
特攻兵器桜花11型。所謂「人間爆弾」で、火薬ロケットを搭載し高速を誇ったが航続距離が短く、殆どが母機である一式陸攻諸共撃墜された。
その他の機体

など。

末期は数を揃える為に様々な機体が特攻用に爆弾装備可能に改修され実戦に投入された。

燃料・整備

「特攻では片道の燃料しか積んでいなかった」と言われることもあるが、実際はレーダーを避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。零戦の主任設計者である堀越二郎技師は、戦後に自著で「零戦を爆戦(戦闘爆撃型、52型以降)として運用するために胴体下に爆弾、両翼下に増加燃料タンクを振り分けたが、翼下燃料タンクの投下装置の不具合によって特攻作戦において中止帰投や未帰還となる例があった」としている。特に被害の大きかったアメリカ軍からは、「燃料が突入時の火災を大きくする効果があった」という評価もある。

整備員達は「片道燃料などという酷いことが出来るか」と命令を無視して満タンにしたという話も聞かれる。[要出典]しかし、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、鹿屋からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による戦闘空中哨戒(CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえる為に」必要とされた。ベテラン搭乗員の多くが戦死し、訓練のための燃料も機体も少なくなっていたために搭乗員の技量の低下が激しい当時、航法を誤ればあっという間に燃料をムダに消費してしまう訳で、日本側がわざわざ焼夷効果を狙って燃料を増載していた、「特攻だから片道燃料としていた」という話には疑問が出ている。一方で、陸軍第六航空軍の青木喬参謀副長が「特攻隊に帰りの燃料は必要ない」と命令していた姿も目撃されている[60]

特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかった[注 23]事や、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。

戦果と連合国の対応

ファイル:USS Bunker Hill burning.jpg
1945年5月11日、2機の特攻機に攻撃された空母バンカー・ヒル
ファイル:Ensign Kiyoshi Ogawa hit Bunker Hill (new).png
1945年5月11日、零式艦上戦闘機で空母バンカー・ヒルに突入した神風特別攻撃隊「第7昭和隊」所属・小川清少尉

戦果

特攻機が撃沈したとされるアメリカ海軍の護衛空母は3隻であるが、セント・ローはフィリピン上陸作戦、オマニー・ベイはフィリピン攻防戦、ビスマーク・シーは硫黄島上陸作戦において撃沈されている。空母は特攻作戦の全期間を通じて最重要目標とされたが、その理由は日本軍守備隊への最大の脅威が航空攻撃であったためであり、護衛空母は攻略目標近傍においてCAP(戦闘空中哨戒)を形成し、アメリカ軍の地上部隊の援護を行うため特攻機の目標とされた。碇泊中の米軍機動部隊への奇襲も計画され、3月11日、第五航空艦隊の「銀河」24機(7機故障脱落)・二式飛行艇3機(誘導)の梓隊がウルシー泊地の空母ランドルフを中破させた。

また、イギリス海軍のイラストリアス級航空母艦フォーミダブルが5月4日に、ヴィクトリアスが5月9日に攻撃を受け、沈没こそ免れたものの大きな被害を出した。

アメリカ海軍は沖縄戦において駆逐艦12隻を含む撃沈26隻、損傷164隻(31隻沈没、368隻損傷[61])、768機を失った。人的損害は1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名となっている。特攻の主力艦に対する戦果は、2月21日に海軍第二御盾隊が硫黄島沖において正規空母サラトガに突入、これを大破させ、同艦を終戦まで出撃不能とした。空母バンカー・ヒルは5月11日に特攻機2機の突入を受けてブレマートンに帰投を余儀なくされ、空母エンタープライズも5月14日の特攻機による損傷でピュージェット・サウンド海軍工廠に帰還しており、終戦時は修理中であった。以上、3隻の正規空母を使用不能状態とすることに成功した。

損傷を受けた正規空母は少なくないが、沈んだ艦は1隻もない。その要因として、

  • 特攻機の攻撃力は元々かなり低く、一定の装甲防御を有する中型以上の艦艇に対する効果は当初より懸念されていた。桜花のような専用機が開発されたり、大改造を施された飛龍のような事例が生まれたのはこの問題への根本的な対応を図るためである。
  • アメリカ海軍の正規空母の飛行甲板の装甲防御や、艦内のレイアウト等ダメージコントロールのノウハウが日本軍との戦闘を通じて飛躍的に向上していた。
  • アメリカ海軍が制空権・制海権を握っていたため、曳航退避が可能だった。例えばミッドウェー海戦で沈んだ日本空母4隻のうち、「赤城」と「飛龍」は曳航可能だったが、米軍制空権下では処分するしかなかった。
  • イギリス海軍の正規空母は戦艦のそれに匹敵する76ミリ厚の装甲を持ち、甲板上にいた航空機は大きな被害を受けたが、沈没に至るようなダメージは受けずに済んだ。

等が挙げられる。とはいえダメージコントロールや曳航も断念せざるを得ないとの判断が一時的にせよ下されるほどの損害[注 24]を特攻機が与えた事例もある。

特攻による攻撃隊は、突入機が1隊あたり2機から6機、多くて10機、少ないときは1機という規模の小ささであり、連合国軍からすれば1日の来襲機数は直掩機を含めても空母1隻分の攻撃隊にも満たないものであった。南太平洋海戦までのような反復攻撃を行えていたのであればさらなる戦果拡大も望めたと見られるが、現実には日本軍の戦力は特攻作戦に傾注してなお日に20機も数を揃えることができず、主要艦艇の撃沈のための攻撃を行える水準についに復帰できなかった。

唯一、1945年4月6日の菊水1号作戦発動時に、翌7、8日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入されたが、襲撃時刻を統一しなかった為に散発的な攻撃となる。突入に成功した機は比較的多かったものの、飛行技術の未熟さや興奮などの諸条件により、小型艦艇を目標にした特攻機が多かった[62]。その結果、駆逐艦「ブッシュ」、「コルホーン」、高速輸送艦「デッカーソン」、掃海駆逐艦「エモンズ」、輸送船「ローガンビクトリー」、「ホッブスビクトリー」、揚陸艇LST-447が沈没。護衛空母「サン・ジャシント」(至近距離突入)、正規空母「ハンコック」、戦艦「メリーランド」、駆逐艦「モリス」、「ハッチングス」、「ベネット」、「ロイツェ」、「マラニー」、「ハリソン」、「ニューカム」、「ホーワース」、「ヘインズワース」、「ハイマン」、「タウジング」、「ロングショー」、「グレゴリー」、護衛駆逐艦「ウィッター」、「フィバーリング」、「ウェスン」、敷設駆逐艦「ハリー・F・バウワー」、掃海駆逐艦「ロッドマン」、「ハーディング」、掃海艇「ファシリティ」、「ディフェンス」、「ラムソン」、「デバステーター」、掃海特務艇311号、321号、81号が損傷を受けた。また陸上砲撃により戦艦「ネバダ」が損傷を受け、水上特攻艇により駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」、「ポーターフィールド」、資材輸送艦「スター」、「LSM-89」が損傷。他にも友軍艦からの誤射や衝突で数隻が損傷した。米戦艦を護衛中だった駆逐艦「ニューカム」では、特攻機が戦艦ではなく自分達に突入した事に対し、乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという[63]。東京のラジオは、米戦艦2隻、巡洋艦3隻、小型艦船57隻撃沈、米空母5隻を含む61隻を撃破したと報じた[64]

アメリカ国立公文書館に保管されているアメリカ軍の機密文書には、アメリカ軍が視認できる距離まで接近できた特攻機のうち、至近自爆を含む命中効果率を半年間で56%と算定していた(日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26〜28%と推定)[65][66]。また、アメリカ軍損害分分析班が1945年4月に行った集計では、特攻作戦が始まった1944年10月から1945年3月までにアメリカ海軍艦隊の視界に入った特攻機は計356機で、うちアメリカ海軍艦船への命中が140機(39%)、至近距離での爆発による被害が59機(17%)だった。半年間の航空特攻作戦でアメリカ海軍艦船20隻が沈没した(データには視界に入る前に米軍機によって撃墜された特攻機は含まれていない)[67]。他にも特攻機が敵に損害を与えた最終的な確率は諸説あるが、2割弱[68][69][70]との見方が比較的多くなっている。ただし、視界に入らないうちに阻止されたものも含む実際の出撃数から算出される命中率は、5%程度である[要出典]

諸外国の反応

前近代的な狂信的な行動であるとして[要出典]欧米諸国、特にアメリカでは、特攻隊の攻撃方法は"クレイジー"と評された。 スプルーアンス提督は効果がきわめて高いと分析していた[71]。負傷もしくは機体の損傷によって死が避けられないならば、敵に損害を与える可能性が高い体当たりの方が合理的だということである。アメリカでは特別攻撃隊の報道はアメリカ軍兵士の戦意喪失を招き、銃後の家族に不安を与えるとして規制され、後に一括して報道された。しかしその報道はルーズベルト大統領の死と重なったために、国内での衝撃はほとんど無かったともいう。

一方でこの調子では日本上陸後の連合国側被害は何百万人にも及ぶと連合国側で危惧する者もあらわれ、無条件降伏にこだわらず講和を受け入れるべきだという意見も連合国軍で見られた。[72]


連合軍艦艇の被害

以下は日本軍特攻攻撃によって損傷・沈没した主要な連合軍艦艇である。

  • 駆逐艦
    • ドーシー (USS Dorsey, DD-117)
    • ウォード (USS Ward, DD-139)
    • ブルックス (USS Brooks, DD-232)
    • バリー (USS Barry, DD-248)
    • ベルナップ (USS Belknap, DD-251)
    • マグフォード (USS Mugford, DD-389)
    • ラルフ・タルボット (USS Ralph Talbot, DD-390)
    • ウィルソン (USS Willson, DD-408)
    • ヒューズ (USS Hughes, DD-410)
    • アンダーソン (USS Anderson, DD-411)
    • モリス (USS Morris, DD-417)
    • ハッチンス (USS Hutchins, DD-476) - 本艦はマルレ艇の攻撃により艦首を損傷し後に座礁、放棄された。
    • プリングル (USS Pringle, DD-477)
    • ロイツェ (USS Leutze, DD-481)
    • サッチャー (USS Thahcher, DD-514)
    • ルース (USS Luce, DD-522)
    • アブナー・リード (USS Abner Read, DD-526)
    • ブッシュ (USS Bush, DD-529)
    • エヴァンズ (USS Evans, DD-552)
    • ハガード (USS Haggard, DD-555)
    • モリソン (USS Morrison, DD-560)
    • ニューカム (USS Newcomb, DD-586)
    • ツイッグス (USS Twiggs, DD-591)
    • キャラハン (USS Callaghan, DD-792)
    • リトル (USS Little, DD-803)
    • エモンズ (USS Emmons, DD-457)
    • マナート・L・エベール (USS Mannert L. Abele, DD-733) - 本艦は、桜花の体当たりによって撃沈された唯一の艦艇
    • ドレクスラー (USS Drexler, DD-741)
    • ハーディング (USS Harding, DD-625)
    • バトラー (USS Butler, DD-636)
    • シュブリック (USS Shubrick, DD-639)
    • キッド(USS Kidd, DD-661)

他損傷艦多数。補助艦艇の撃沈破された艦は割愛。

対応

など

対空砲火

下表[73]はアメリカ軍が比島戦時に通常攻撃と特攻に対して、対空砲火の有効性を判定したものである。ただしアメリカ軍側からのみの判定であり、特攻と通常攻撃が一部混同されている可能性が高いことを付記しておく。
一般に有効とされた5インチVTが特攻に対しては意外に効果を挙げておらず、対して40mmボフォースは通常攻撃より少ない投射弾数で撃墜判定に至っていることがわかる。つまり通常攻撃機は追い払うか攻撃を失敗させれば良いが、特攻機は突入を図ってくるため確実に撃墜しなければならないこと、高角砲のレンジ(射程)では有効な打撃を与えきれずにボフォースのレンジへの突入をしばしば許していることがこの判定結果に現れている(さらに言えば撃墜判定数が少ない場合は小数機に多数の砲が集中されているということであり、結果的に消費弾量が大きく増加している)。
この高角砲の威力不足は深刻な問題とされ、戦後ボフォース4連装がVT付き3インチ両用砲に換装される大きな動機となった。

特攻機の撃墜判定記録
火砲 44.10 44.11 44.12 45.01
5インチ通常1,479発/機
(1.5機)
1,213発/機
(5機)
493発/機
(9機)
2,675発/機
(3.5機)
5インチVT242発/機
(6.5機)
324発/機
(6機)
218発/機
(4機)
402発/機
(8機)
3インチ通常59発/機
(1.5機)
392発/機
(1機)
戦果なし986発/機
(4機)
40mmボフォース2,201発/機
(23.5機)
2,408発/機
(27機)
1,003発/機
(33機)
3,576発/機
(30.5機)
28mm機銃戦果なし戦果なし戦果なし2,170発/機
(1機)
20mm機銃9,983発/機
(11機)
8,755発/機
(13機)
3,933発/機
(23.5機)
16,313発/機
(15機)
12.7mm機銃戦果なし戦果なし24,942発/機
(0.5機)
17,402発/機
(2機)
通常攻撃機の撃墜判定記録
火砲 44.10 44.11 44.12 45.01
5インチ通常748発/機
(23機)
2,601発/機
(1.5機)
795発/機
(5機)
1,765発/機
(4機)
5インチVT65発/機
(9.5機)
798発/機
(1機)
179発/機
(6.5機)
1,083発/機
(3機)
3インチ通常294発/機
(4機)
戦果なし戦果なし戦果なし
40mmボフォース3,672発/機
(23機)
1,249発/機
(6.5機)
2,151発/機
(9.5機)
5,633発/機
(7.5機)
28mm機銃戦果なし戦果なし戦果なし戦果なし
20mm機銃7,802発/機
(27機)
3,156発/機
(5.5機)
6,729発/機
(8機)
7,935発/機
(10機)
12.7mm機銃39,986発/機
(0.5機)
875発/機
(1機)
戦果なし9,929発/機
(1.5機)

戦後

日本

大西瀧治郎は旧部下と遺族に謝すると遺書を残して終戦直後の16日に割腹自決した。[74][注 25] 海軍の宇垣纏中将は玉音放送後に沖縄の米軍に対して部下11機を自ら率いて特攻を行った。

一方で「君らだけを行かせはしない。」と隊員に語りながら、多くの部下を残したまま敵前逃亡した陸軍特攻隊創設者の富永恭次[注 26][75]、 陸軍の菅原道大中将は隠遁し養鶏業を営んでおり、第6航空軍参謀であった倉澤清忠少佐は死の直前まで拳銃と軍刀を手放せず、特攻隊員や遺族からの報復に怯えながら死の床についた[76]

また旧軍人には戦後の慰霊活動に努めるものも多い[77] 戦後息子が特攻死した寺岡謹平と特攻指揮者の菅原道大も特攻平和観音奉賛会を設立し、菅原道大の三男の菅原道煕は特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会理事長を務めている。[要出典] 中央公論2006年10月号において渡邉恒雄は大西瀧治郎が責任転嫁の対象となり推進者の黒島亀人や中沢佑、『桜花』の発明者の大田正一と命名者源田実(しかし桜花の命名者は航空本部伊東裕満であることが分かっている[78])が生き延びた事を批判している。 戦後行われた海軍反省会では中央と現場で特攻の指示があったかについてなどの言い争いもあった。[79]

日本国外

大日本帝国が単なる軍国主義国家というだけでなく、ナチスドイツ以上の悪しき狂信的集団であるという見方、さらには日本人全般への差別と蔑視をも確定した。これは戦後の日本の民主化政策に大きく影響した。一方、一部の反米的なイスラム諸国では日本人は勇敢であるとの意見も存在する。[要出典]

フランス人記者のベルナール・ミローは、著書『神風』の中で、「散華した若者達の命は・・・無益であった。しかしこれら日本の英雄達はこの世界の純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた」と述べ評価している。且つ「西洋文明においてあらかじめ熟慮された計画的な死と言うものは決して思いもつかぬことであり、我々の生活信条、道徳、思想と言ったものと全く正反対のものであって西欧人にとって受け入れがたいものである」とも述べている。この理解不能性、恐怖や不安は、アメリカをして日本本土への無差別爆撃の強化や原爆投下、そしてソ連の参戦を促す一因になったとも言われる。

一方でフランス文学者、歴史学者で東京大学客員教授でのあったモーリス・パンゲは主著『自死の日本史』第12章において特にアメリカ人や西洋人一般にみられた嘲笑や中傷を否定し、『きけ わだつみのこえ』を基に特攻隊員が軍閥の言いなりではなく「正しいものにはたとえ敵であっても、誤りにはたとえ味方であっても反対する』という崇高な念に殉じたと彼らに称賛の意を示している。[80]

2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件において、欧米のマスコミの中には世界貿易センタービルに突入するハイジャックされた航空機を「カミカゼ」、「パールハーバーと同じだまし討ち」と表現するものもあった。これは「生還を考えない体当たり戦法」から、「カミカゼ(=旧日本軍の特攻隊)の様だ」と報道されたものである。実際、「(強者に一矢報いるための)自殺行為同然の無謀な突撃」を代名する表現として「KAMIKAZE」の語が用いられることは多い。

これに対して日本国内では、もともと特攻隊を肯定的に評価していた保守主義者を中心に反発の声が挙がり始めた。「確かに物理的には失敗したかもしれないが、アメリカ軍を畏怖させたと言う精神面においては成功している(精神論)」「戦果はどうあれ、隊員らの愛国心を見習うべきだ」と言うのが代表的なものである。また日本の世論も、自爆テロはあくまで非合法な犯罪者による「非戦闘員(=民間人)」を巻き込むことを厭わないテロ行為であり、戦時国際法でその身分が保障される正規軍の軍人が実施した敵戦闘員を対象にした軍事作戦である特攻とは本質的に異なる、との意見が主流である。 しかし、日本国外では「有志による自爆攻撃=カミカゼ」というレッテルはなお根強く、「テロ」が反米勢力全体へのレッテル化していることへの議論、2000年10月12日に発生したミサイル駆逐艦コールへの自爆攻撃等、武装組織が正規軍へ行った場合の評価などが曖昧で、国際的な議論、再評価を巻き起こすには至っていない。また、戦時国際法では武装勢力(含むテロ組織)は正規軍に準じる存在と位置づけられ、戦闘員の身分は基本的に保証されている。 また民間人に対する武力行使は戦時国際法で厳格に禁止され、罰則対象になっているが、この条項自体が事実上空文化している(代表的なところでは米軍の原爆投下や無差別絨毯爆撃、イラク戦争の掃討作戦、イスラエル軍の入植地攻撃、ロシアのアフガン、チェチェン侵攻など)ため、この辺りもテロ行為と特攻の線引きを難しくしている。更にはタミル・イーラム解放のトラハマスでも、なぜ自爆テロを行なうのかとの問いには「カミカゼ」の答えが返って来るという[81]

諸外国における特攻事例

第一次世界大戦

ファイル:Nesterov taran.jpg
世界初の航空機による体当たり攻撃を描いたイラスト
ファイル:Ussr0227.jpg
ドイツ爆撃機にタラーンを行うソ連機を描いたポスター

第一次世界大戦においても航空機による体当たり攻撃が行われており、1914年9月8日ロシアピョートル・ネステロフ大尉がオーストリアの飛行機に対して行った行動が、世界初の航空機による体当たり攻撃とされる[82]。これにより墜落した二機の乗員三名は死亡した。

ソビエト連邦

第二次世界大戦初期のソビエト労農赤軍には旧式化していたI-16が多数存在していたが性能が劣っていたため、「タラーン」と呼称される航空機による体当たり攻撃が行われた[82]。これは一種の流行となり、戦争後半になって高性能の戦闘機が登場するようになっても、ベテランパイロットが体当たり攻撃を行うことが多々あり、空軍はわざわざタラーン禁止令を発している。

ドイツ

ドイツにおいても、その場の判断で敵機に体当たりを行い撃墜した事例など特攻というべき攻撃が自主的・偶発的に行われたことはあったが、第二次世界大戦末期には組織的に連合軍の爆撃機に体当たりする戦法が行われた[15]

ドイツのゲーリング空軍元帥は『(自滅を前提とするのは)ゲルマン的な戦い方ではない』との見解を示している[15]。また、開戦当時イギリス空軍機がドイツ海軍艦艇に対して爆撃時被弾後突っ込んでおり、それを評して「英軍はパイロットが負傷して帰還不能となると突っ込んでくる場合がある」と防空上の警戒をしている。もっとも、戦争末期帰還が極めて難しい人間魚雷(攻撃時に脱出し、後捕虜になるという前提)に志願者が女性も含めて多数の応募の事実があり、実際少ないながらも戦果があった。

エルベ特別攻撃隊

ドイツ空軍大佐ハヨ・ヘルマンレイテ沖海戦より日本軍が投入した神風特別攻撃隊に触発され、その戦法が周囲でも話題になっていた事もあり、最終手段として劇的な戦法を試案するため、当時の駐独大使である大島浩デーベリッツの司令部に招き特攻について質問して情報を得た[15]。その効果については疑問を持ちつつも、第二次世界大戦末期はドイツでも航空機やその燃料が不足し通常の防空戦は困難になりつつあったことや「カミカゼ」戦術が衝撃的だったこと、過去にもその場の判断で敵機に体当たりを行い撃墜した事例、最新鋭のジェット機が圧倒的な速力で唯一大きな戦果を上げており機体生産を確保するための被害回避、等の理由から「爆撃機への体当たり攻撃」を立案した[15]。この作戦にヒトラーは難色を示し、空軍総司令官のゲーリングも当初は反対したが、燃料も戦闘機も不足する中ではやむを得ない戦法だと説得し許可を得て、ハヨ・ヘルマンが指揮官となって「自己犠牲攻撃」として志願者を募り、作戦が独北部のエルベ川周辺に展開したため「エルベ特別攻撃隊」(en:Sonderkommando Elbe)と呼称された[15]

この作戦は1945年4月7日に実行され、内容はメッサーシュミットBf109フォッケウルフFw190を使用し、機関銃の銃弾を撃ちながら敵機めがけて一直線に突進するものであり、衝突と同時にパラシュートで脱出することで生還の可能性は残しており[15]、必ず体当たりすることを要求されたのではなかったが、死を覚悟しなければ志願できない作戦であり、周囲も彼らが戦死することを前提にすべての用意を整えていた。「敵重爆の直前で射撃し、各自1機は撃墜すること。必要とあれば激突せよ」と命じられ彼らは無線で流されるドイツ国歌を聞きながら突撃したと言う。しかし、P-51を始めとする多数の護衛戦闘機群に阻まれ、推定189機が出撃したが出撃機の大半とパイロットの約半数(約80人との資料もある[15])を失い、8機(「B-17、5機撃墜」との資料[83]や、二十数機との資料もある[15])の爆撃機を撃墜したに留まり、効果への疑問から作戦はこの一度のみで終了となった[15]。この部隊は解散したがドイツ空軍は別の特攻作戦「オーデル川作戦」を発動した。

ミステル

「ミステル(宿り木)」と呼ばれる機体があり、これはいわゆる親子飛行機で、子機はユンカースJu88爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付け、機体の上部に連結器を装備して親機の Bf109 を乗せたものである。目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。無論子機は無人であり、言うなれば大型のミサイルである。

ミステルは若干ながら戦果を挙げ、更なる組み合わせとして親機にFw190を使用した型も生産された。しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。

その他

ハンナ・ライチュ等によって提唱された、He111の下部に有人型のV1飛行爆弾を搭載、空中発射されたV1飛行爆弾に搭乗した乗員が誘導し[注 27]対艦攻撃する計画があり、試験飛行も行われたが実施されなかった[83]

イギリス

イギリス海軍が、ドイツ海軍の誇る巨大戦艦ティルピッツを撃沈するために、1942年にチャリオット人間魚雷による攻撃を実行しようとしていたが、事故で失われた為に、チャリオットによる特攻攻撃は実行されなかった。

また、1943年9月末に有人の小型潜行艇二隻がティルピッツに肉迫攻撃をかける為に、火薬を積んで突入してきた。これも生還を期さない特攻に近いものがあったとされるが、この場合は回天と違い、隊員の命を確実に奪うというものではなかった。

しかし、ハイリスクの攻撃であった事は確かであり、船底に2000kg爆弾を据え付けて、ティルピッツに深手を負わせることには成功したものの、イギリス海軍は二度とこの作戦を採ることはなかった。


特別攻撃隊を描いた作品

映画

音楽

テレビ

DVD

  • ドキュメンタリー『ドキュメント 特攻〜日本海軍による対艦体当たり攻撃機の記録〜前篇・後篇(全2巻)』(DVDアートデイズ 2007年

舞台

  • 『前世』〜魂揺れし(小説
  • 『雲の墓標』(小説)
  • きけ わだつみのこえ』 (遺書集)
  • 特攻の島佐藤秀峰漫画
  • 『すみれ島』(絵本
  • 『群青に沈め〜僕たちの特攻』(熊谷達也
  • 『陸軍特別攻撃隊 第一巻〜第三巻』(高木俊朗
  • 『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』
  • 『特攻へのレクイエム』
  • 『指揮官たちの特攻 〜幸福は花びらのごとく』

注釈

  1. ^ 、突入失敗で海面に激突し、奇跡的に助かった航空機乗員の例もあるが極めて稀なことであった。
  2. ^ この号の神風特別攻撃隊出撃の映像は、この模様を撮った稲垣浩邦の記録によれば10月25日ではなく、10月21日に撮影されたものである
  3. ^ この決死の攻撃は成功せず、結局魚雷1本が命中した。この件に関しては事実は体当たりではなく、魚雷を知らせる為に離陸直後に急激な操作を行った為の墜落という説もある。
  4. ^ 反面、夜間飛行や編隊空戦、無線電話や防弾装備などについては海軍に比べ陸軍の方が優れており、総合的にみて陸海の航空部隊や乗員の力量に大差はない。渡辺洋二『液冷戦闘機 飛燕 日独合体の銀翼』文春文庫、2006年
  5. ^ 久納は未確認ながらも、豪重巡に突入したのではないかとも言われている。
  6. ^ 関は元々艦上爆撃機乗りであったが、この作戦の直前に急遽戦闘機乗りとして一航艦に異動になっており、意図的に第一号にされたのではないかという説もある。
  7. ^ 翌日西沢は搭乗していた輸送機を撃墜されて戦死し、これが生涯最後の任務となる
  8. ^ 但し特攻隊に編入されたとはいえ、南少尉、角田少尉ともに直掩隊として出撃しており、戦死した南少尉は本述にもあるように、直掩任務中に米軍機と交戦あるいは対空砲火によって撃墜された可能性がある
  9. ^ 但し、坂井少尉の事例は特攻戦法正式導入以前の例ではある。坂井三郎「大空のサムライ」より
  10. ^ 菅野には特別攻撃の開始にあたり、最初の特別攻撃隊隊長として菅野がほぼ内定していたものの、その直前に当時所属していた201空が新しく受領する零戦のテストのため本土に帰国していたため、菅野と海軍兵学校の同期である関行男大尉が神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として任命されたという経緯があった。
  11. ^ 兵→飛行兵曹長・下士官→少尉、士官→二階級
  12. ^ 部隊間で徹底されていなかった為、例えば、同部隊で出撃した搭乗員でも「進撃中に迎撃機に攻撃されている事を基地に無線連絡後に未帰還」は戦果無しとし通常の戦死者の1階級特進留まり、「進撃中に消息不明で未帰還」は戦果を挙げたものと認め特攻による特進が認められる、というような矛盾も見られた。またこの様な例も出撃した時期によって様々であった。[要出典]
  13. ^ 遺族に支給される軍人恩給の金額は階級により差があった。
  14. ^ “戦果が確認されていないために手続きが後回しになった結果”との見方もある。
  15. ^ 真珠湾攻撃時、航空母艦加賀の戦闘機隊長
  16. ^ この攻撃は玉音放送後の戦闘行動として、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなっていない。
  17. ^ 英軍の空母の被害は米軍よりもかなり少ない。
  18. ^ 当時のアメリカ軍の戦闘機は2000馬力級、時速600-700km級。
  19. ^ 「艦艇で追跡出来てしまう程に遅い」という皮肉。
  20. ^ うち1回は、1機のB-29の水平尾翼を自機のプロペラでかじり取った後、そのまま、そのB-29の背面に馬乗りになった状態で飛行し、そのB-29が失速して高度を下げ始めた直後に、体当たり時に損傷を受けた機体を巧みに操縦して東京郊外の農地に不時着した。終戦時は軍曹。現在も健在
  21. ^ 単純に全てをTNT火薬だとすると広島型原爆約10発分の威力
  22. ^ 「彗星」や「銀河」などと比較すると、特攻に投入された機体は極めて少数であった。
  23. ^ 工場生産における品質管理の思想が日本に入るのは戦後の朝鮮特需の時であり、この当時は量産品に関しては生産量優先で品質は全く考慮されていない。例としては層流翼を採用した紫電の完成機は、工作不良による左右の主翼揚力や主翼取付け角の不均衡により真っ直ぐ飛ばない機体の方が多かったと言われる
  24. ^ 例えば45年3月19日の九州沖航空戦時の空母フランクリン(これは、日本海軍機の急降下奇襲爆撃による被害であるが)では、戦死だけで739名というダメージコントロールにあたる人員そのものが大量に失われた
  25. ^ 大西に関しては戦後彼を知る複数の人間が口を揃えて「もし、特攻によって戦争に勝っていたとしても、彼は自決していただろう」と証言している。[要出典]
  26. ^ その後、配置転換され満州の敦化に赴き、その地で終戦を迎えた後、ハバロフスク収容所に抑留され、1955年4月18日に引揚船で帰国した(富永恭次#敵前逃亡より)。
  27. ^ 着弾寸前に脱出することになっていたが、操縦席後方にパルス・ジェット・エンジンがあることや、狭いコクピット等を考慮すると実際には脱出は極めて困難であったと考えられている(V1飛行爆弾#Fi-103の派生型より)。

脚注

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  1. ^ 「図説 帝国海軍特殊潜航艇全史」(奥本剛)などより
  2. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 327頁
  3. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 326頁
  4. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 330-333頁
  5. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 328頁
  6. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108-114頁,戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 346頁,戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 705-706頁
  7. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 708-709頁
  8. ^ a b c d e f 大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』p.48 - 49
  9. ^ 『特攻隊振武寮』p.53
  10. ^ a b c d 『特攻隊振武寮』P.55
  11. ^ 『特攻隊振武寮』p.57
  12. ^ a b c d 『特攻隊振武寮』p.69
  13. ^ NHK番組の「ETV特集」『許されなかった帰還 〜福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争〜』(2006年10月21日 22:00-22:45放送,NHK教育)
  14. ^ 土井全二郎『失われた戦場の記憶』80-86頁(光人社 2000年)
  15. ^ a b c d e f g h i j 『日本のカミカゼに触発』独・エルベ特攻隊ウェブ魚拓) TOKYO Web(東京新聞)2008年5月25日掲載・東京新聞 2008年5月25日朝刊
  16. ^ 『特攻隊振武寮』p.53
  17. ^ 『特攻隊振武寮』p.57
  18. ^ 『特攻隊振武寮』p.70
  19. ^ 『特攻隊振武寮』P.71 - 72
  20. ^ NHK番組の「ETV特集」『許されなかった帰還 〜福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争〜』(2006年10月21日 22:00-22:45放送,NHK教育)
  21. ^ #重爆特攻3頁
  22. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322
  23. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322-324
  24. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p325-326
  25. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p326-327
  26. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p34-39
  27. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p327
  28. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p328
  29. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p331-333
  30. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p212-216
  31. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p346
  32. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』p224
  33. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p503-504
  34. ^ 神立尚紀『特攻の真意』 p126-127
  35. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111-114
  36. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 708-709頁
  37. ^ 神風 > 最初の特攻 > 最初の特攻 隊長関行男大尉より
  38. ^ 中島正/猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』 ISBN 4-7928-0210-5
  39. ^ (当時)副司令玉井浅一副長による戦後の証言より
  40. ^ 『昭和の名将と愚将』 ISBN 978-4-16-660618-4
  41. ^ 『白菊特攻隊 還らざる若鷲たちへの鎮魂譜』 ISBN 4-7698-2363-0
  42. ^ 予備学生のつぶやき(4)大村航空隊元山分遣隊1より
  43. ^ 『特別攻撃隊』(特攻隊慰霊顕彰会)より
  44. ^ 土井全二郎『失われた戦場の記憶』212-220頁(光人社 2000)
  45. ^ #重爆特攻59-60頁
  46. ^ #重爆特攻61頁
  47. ^ 『特攻隊振武寮』p.57
  48. ^ a b 『海軍飛行科予備学生・生徒史』より
  49. ^ a b戦史叢書95 海軍航空概史』付表より
  50. ^ 『特別攻撃隊全史』(特攻隊慰霊顕彰会)より
  51. ^ 『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』光人社 ISBN 4-7698-1041-5
  52. ^ #重爆特攻131-133頁
  53. ^ 『零戦撃墜王』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2050-X
  54. ^ 加藤寛一郎によるインタビュー『零戦の秘術』講談社文庫P.304
  55. ^ New York Times,THE SATURDAY PROFILE; Shadow Shogun Steps Into Light, to Change Japan. Published: February 11, 2006. accessed February 15, 2007
    International Herald Tribune, Publisher dismayed by Japanese nationalism. Published: February 10, 2006. accessed March 11, 2007
  56. ^ 特攻花の真実 より
  57. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322-324
  58. ^ 一例として、1945年5月29日飛行第5戦隊静岡県榛原町上空にて横浜へ爆撃(横浜大空襲)に向かうB29の大編隊に対して屠龍にて体当たり攻撃を行い、一機撃墜し散華した河田清治少尉がいる(参考資料:[1][2]インターネット・アーカイブ)・『内なる祖国へ』ISBN 978-4-562-03873-2
  59. ^ 大井篤『海上護衛戦』 ISBN 978-4059010401
  60. ^ #重爆特攻155-156頁
  61. ^ ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』153頁
  62. ^ ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』148頁
  63. ^ ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』150頁
  64. ^ ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』153頁
  65. ^ Yahoo!ニュース時事通信2006年11月15日「旧日本軍の航空特攻作戦、命中効果率は56%=予想以上の戦果-米軍機密文書」(参考資料[3][4])より
  66. ^ 原勝洋『写真が語る「特攻」伝説』ベストセラーズ ISBN 9784584189795
  67. ^ 神戸新聞 2006年11月15日(時事通信 後半部分:参考資料)より
  68. ^ 東海大学教養学部人間環境学科 鳥飼行博研究室 Torikai Lab Network「カミカゼ特攻機命中率56%の虚構」より
  69. ^ 小沢郁郎『つらい真実─虚構の特攻隊神話』ISBN 978-4-88621-014-2
  70. ^ 特集「神風特別攻撃隊」特攻による戦果より
  71. ^ 神風 > 外国人から見た"KAMIKAZE" > 特攻に対する米軍報告(「ドキュメント神風」)より
  72. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』p225
  73. ^ 『NAVAL WEAPONS OF WORLD WAR TWO』(Conway)より
  74. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p475
  75. ^ 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』1/2/3(文春文庫、1986年) 1/ ISBN 4-16-715104-9、2/ ISBN 4-16-715105-7、3/ ISBN 4-16-715106-5
  76. ^ #重爆特攻4頁
  77. ^ NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部参謀たちが語った敗戦』神立尚紀『特攻の真実』など
  78. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p70『海軍神雷部隊』戦友会編など
  79. ^ 『日本海軍400時間の証言 軍令部参謀たちが語った敗戦』NHKスペシャル取材班
  80. ^ 『自死の日本死』、モーリスパンゲ著、竹内信夫訳 :第12章『奈落の底へ』ISBN 4062920549
  81. ^ 「自爆テロ」 旧日本軍が世界に残した負の遺産―ハマス党員、スリランカのLTTE兵士にまでその名をはせる「カミカゼ」田中龍作ジャーナルより
  82. ^ a b 三浦耕喜『ヒトラーの特攻隊 歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち』作品社 ISBN 9784861822247
  83. ^ a b 秦郁彦『第二次大戦航空史話(上)』中央公論社、1996年、ISBN 978-4122026940

参考文献

  • NHK取材班編 『太平洋戦争 日本の敗因3 電子兵器 カミカゼを制す』 角川文庫 ISBN 4041954142
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  • 海軍飛行予備学生第十四期会 編『あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記』 光人社 ISBN 4769807139
  • 北影雄幸『特攻の本 これだけは読んでおきたい』 光人社 ISBN 476981271X
  • 草柳大蔵『特攻の思想 大西滝治郎伝』 文藝春秋 文春文庫 ISBN 4167315017
  • 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』 光人社 ISBN 4769808291
  • 鈴木勘次『特攻からの生還 知られざる特攻隊員の記録』 光人社 ISBN 4769812337
  • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』 1~3 文藝春秋 文春文庫 1 ISBN 4167151049、2 ISBN 4167151057、3 ISBN 4167151065
  • 高木俊朗『特攻基地知覧』 角川書店 角川文庫 ISBN 4041345014
  • 知覧高女なでしこ会『群青 知覧特攻基地より』 高城書房出版 ISBN 4924752622
  • 特攻隊慰霊顕彰会 「特別攻撃隊」非売品
  • 長嶺五郎 『二式大艇空戦記 海軍八〇一空搭乗員の死闘』 光人社NF文庫、1998年11月。ISBN 978-4-7698-2215-4 長嶺は梓隊誘導機操縦。
  • 日本戦没学生記念会(わだつみ会) 編『新版 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』 岩波書店 岩波文庫 ISBN 4003315715
  • 林えいだい 『重爆特攻「さくら弾」機 日本陸軍の幻の航空作戦』 光人社NF文庫、2009年。ISBN 978-4-7698-2608-8
  • 日本戦没学生記念会 編『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記〈第2集〉』 岩波書店 岩波文庫 ISBN 4003315723
  • 原 勝洋『真相・カミカゼ特攻 必死必中の300日』 KKベストセラーズ ISBN 4584187991
  • 保阪正康『「特攻」と日本人』 講談社現代新書 講談社 ISBN 4061497979
  • 保阪正康『『きけわだつみのこえ』の戦後史』 文春文庫 文藝春秋 ISBN 4167494051
  • ラッセル・スパー『戦艦大和の運命 英国人ジャーナリストのみた日本海軍左近允尚敏訳、新潮社、1987
  • 三浦耕喜『ヒトラーの特攻隊 歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち』作品社 ISBN 9784861822247
  • ロバート・C・ミケシュ「破壊された日本機」三樹書房
  • 宮本雅史『「特攻」と遺族の戦後』 角川書店 ISBN 4048839136
  • 森山康平、太平洋戦争研究会 編『図説 特攻』(ふくろうの本 太平洋戦争の戦場) 河出書房新社 ISBN 4309760341
  • 平義克己『我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』扶桑社、2002

関連項目

外部リンク