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真田重蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

真田 重蔵
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 和歌山県和歌山市
生年月日 1923年5月27日
没年月日 1994年5月30日(満71歳没)
身長
体重
173cm
73kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手三塁手
プロ入り 1943年
初出場 1943年
最終出場 1955年
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
選出年 1990年
選出方法 競技者表彰

真田 重蔵(さなだ じゅうぞう、1923年5月27日 - 1994年5月30日)は、プロ野球選手投手内野手)。1948年から1954年までの登録名は真田 重男和歌山県和歌山市出身。

目次

来歴・人物

現役時代まで

実家は和歌山市内で果物菓子商を営む家庭で、七人兄弟の末として生まれる[1]。和歌山市立吹上尋常小学校(現:吹上小学校)から和歌山高等小学校を経て1938年に海草中(現:向陽高校)に入学。嶋清一の3年後輩に当る。2年生の1939年には夏の甲子園大会三塁手・5番で出場、嶋の伝説的な快投による全国制覇のメンバーとなる。嶋の進学を受けて投手に転向[2]明治大学OBの長谷川信義監督の厳しい指導を受けて嶋の後を継ぐエースとなり、1940年同大会に優勝して2連覇達成に貢献。戦前最後の怪腕と呼ばれた。3連覇を目指していた1941年に夏の甲子園大会が文部省の指示で中止となる。秋の明治神宮中等野球大会では海草中の3連覇をもたらした。1942年、文部省主催の全国中等学校野球大会が開催されるが、この大会では出場規定に「満19歳未満」という年齢制限が追加されたため、真田は出場することができなかった。秋の明治神宮中等野球大会では4連覇を達成。卒業後、1943年朝日に入団。これは中学時代の活躍に注目した朝日のオーナー田村駒治郎の肝いりによるものだった[3]。同時に日本大学大阪専門学校(現:近畿大学)にも学籍を置いた。しかし、これにより学徒とみなされ、同年秋の学徒出陣により海軍に入隊する。このため、戦前のプロでの実績は1943年のシーズンのみだった。

海軍では航空隊を志願するも不合格となり、1944年6月に横須賀の通信隊に配属される。ここで嶋と再会した[4]。嶋と真田は9月に揃って和歌山・由良の紀伊防備隊に転属したが、2ヶ月足らずで真田は特殊潜航艇の要員として石川県に再び転属し、終戦を迎えた[5]

1946年に田村が新たに創設したパシフィックでプロ球界に復帰。速球と「懸河のドロップ」を武器に、1948年9月6日大阪タイガース戦でノーヒットノーランを達成。

1950年には年間39勝と最多勝を獲得[6]し、リーグ優勝に大きく貢献した。日本シリーズでは第3戦と5戦に先発。3戦は打ち込まれながらサヨナラ勝ち、逆に5戦は味方の失策で9回に決勝点を奪われる対照的な結果となった。日本シリーズ終了後に実施された最高殊勲選手(MVP)投票では小鶴の12票に対し、真田は7票(投票総数41票)で次点にとどまり、獲得はならなかった(これに関する詳細は後述)。

1951年はそれまでの酷使で肘を痛め、24試合の登板(7勝6敗)にとどまる。オフに大阪タイガースに移籍。田村は経営する田村駒の業績悪化で球団にまで手が回らず、移籍は田村の知らない所で決まった。

1952年5月7日広島戦で2回目のノーヒットノーラン。現役晩年は内野手としても出場した。1954年7月25日中日戦大阪球場)では、3点をリードされた延長10回裏に代打として起用され、三振に終わったが、3ストライク目がファウルチップで捕手が落球したとして阪神の松木謙治郎監督と藤村富美男が抗議。ファンがグラウンドになだれ込み一時中断。その後、この試合は結果として阪神の放棄試合となった。

1956年オフの藤村排斥事件では排斥派の一人となる。12月4日に球団から金田正泰とともに「来季の契約更改をおこなわない」との通告を受ける。球団側は12月25日に金田は復帰させたが、真田については「力の衰えから戦力にならないため」という理由で方針を変更せず、真田はそのまま退団した。真田自身は後年「(球団との仲介をした外部の人間から)金田も帰るからお前も帰ってこいといわれた。しかし、そんな気になれんかった」と述懐している[7]

プロ通算178勝は、甲子園大会とプロの両方で(現役選手として)優勝を経験した投手としては、2009年シーズン終了時点で最多勝記録である。この記録には桑田真澄があと5勝まで迫っていたが、2007年に米球界に移籍(そのまま未勝利で引退)した。

引退後

引退後はスポーツニッポンの評論家となる。1960年からは、東海ラジオ放送・初代プロ野球解説者などの評論家を務めた後、大阪明星学園中学校・高等学校野球部の監督となり、1963年夏の選手権で優勝した。甲子園優勝投手が甲子園優勝監督となった第1号である[8](その後は1967年夏優勝投手・1975年夏優勝監督の習志野・石井好博と、決勝戦には登板しなかったが1999年春のエースで2008年春優勝監督の沖縄尚学・比嘉公也のみ)。

1964年にプロ球界に復帰、東京オリオンズのコーチに就任。以降は阪急ブレーブス近鉄バファローズでコーチを務めた。1979年の近鉄初優勝にもコーチとして貢献した。1990年野球殿堂入り。

晩年にはボーイズリーグチームの監督を務め、弱小だったチームを全国大会出場に導いている[9]。1994年5月30日死去。享年71。

1950年のMVPをめぐって

中野晴行の『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』によると、1950年のシーズン中、オーナーの田村は最高殊勲選手(MVP)は真田と考えて、真田に「もし最高殊勲選手を取ったら、小鶴誠には自分から賞金を出す」と話した[3]。これは「真田ばかりかわいがられている」と見られることを案じたものであったが、真田が「もし小鶴が取った場合は自分に金を出すということか」と問うと田村は「そういうことになるか」と返答する。日本シリーズ敗退後に最高殊勲選手が小鶴と発表されると、真田は「最高殊勲選手が取れなくても社長が金をくれると言っている」とチームメイトに話してしまい、これがチーム内に波紋を広げ、監督の小西得郎には「日本シリーズ中に田村から金を渡された」と歪んで伝わることになった。

この件に関しては小西の回想録『したいざんまい』(実業之日本社、1957年)では、シリーズ前にMVPが小鶴に決まったことで田村が真田に「おれがそれ以上のことをしてやる(金でやる)」と告げたことを真田が他の選手に話したとある(同書P166)。また、鈴木龍二は回顧録で「日本シリーズ中(シリーズ前と書いた箇所もあり)に最高殊勲選手が小鶴と発表されたので、田村が真田に金を渡し、チーム内に内紛が生じてシリーズに敗れた」と記している。しかし、実際に最高殊勲選手が発表されたのは日本シリーズ終了後の11月30日で、前後関係からは「シリーズ前または途中にMVPが決まったため、田村が真田に金を渡す話をした(または渡した)」という話は成り立たない。中野の本にはこの二つの著作も「参考文献」として挙げられており、その上で異なる記述をしている点に留意する必要がある。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1943 朝日
パシフィック
太陽
大陽
松竹
372924711313----.5001147278.01962135--31063078611.971.19
1946 634943412526----.4901996464.24224205--92001002021633.151.35
1947 524442522321----.5231720424.03439156--2152201411122.381.18
1948 584234962519----.5681574392.231710102--217230116972.221.07
1949 332415221313----.500826191.12012156--18711107884.131.34
1950 613628553912----.7651583395.23403981--3191301511343.051.06
1951 241211076----.53841894.21101525--0330062565.311.43
1952 阪神 38281442169----.640919228.01981350--4800071501.971.09
1953 221971086----.571516128.1124621--3280055463.211.13
1954 21720072----.77838993.291929--1261039363.451.28
1955 7611121----.66711126.029292180014113.811.46
通算:11年 4162962113920178128----.582111992717.02371130869229108323110368542.831.19
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
  • 朝日は、1946年にパシフィックに、1947年に太陽(太陽ロビンス)に、1948年に大陽(大陽ロビンス)に、1950年に松竹(松竹ロビンス)に球団名を変更

年度別打撃成績

















































O
P
S
1943 朝日
パシフィック
太陽
大陽
松竹
42115104423020276203--7--18--.221.277.260.536
1946 6318817720425315616000--10--19--.237.282.316.598
1947 5517316615393325417212--5--09--.235.257.325.583
1948 6616615517326114313305--6--011--.206.236.277.513
1949 521059614274224113001--8--06--.281.337.427.764
1950 73197172285413227736203--22--0193.314.392.448.839
1951 3965609192012413100--5--062.317.369.400.769
1952 阪神 7814112911414004518110--12--0102.318.376.349.725
1953 33696410145001910200--5--094.219.275.297.572
1954 7315012816335114329202415--1173.258.340.336.676
1955 1619192510061000000041.263.263.316.579
1956 77128116824302331000021010302.207.270.284.554
通算:12年 667151613861543535114124681821521661051313817.255.309.338.646
  • 朝日(朝日軍)は、1946年にパシフィックに、1947年に太陽(太陽ロビンス)に、1948年に大陽(大陽ロビンス)に、1950年に松竹(松竹ロビンス)に球団名を変更

タイトル

表彰

記録

  • ノーヒットノーラン:2回
    • 1948年9月6日、対大阪タイガース戦、阪神甲子園球場
    • 1952年5月7日、対広島カープ戦、阪神甲子園球場

背番号

  • 18 (1943年、1946年 - 1951年)
  • 6 (1952年 - 1953年)
  • 5 (1954年 - 1956年)
  • 52 (1964年 - 1965年)
  • 51 (1966年 - 1971年)
  • 70 (1978年 - 1981年)

登録名

  • 真田 重蔵(さなだ じゅうぞう)(1943年、1946年 - 1948年9月25日、1955年 - )
  • 真田 重男(さなだ しげお)(1948年9月26日 - 1954年)

参考文献

  • 中野晴行『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』筑摩書房、2001年
  • 南萬満『真虎伝』新評論、1996年
  • 山本暢俊『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』彩流社、2007年

脚注

  1. ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P112。
  2. ^ 当初、真田は転向を渋っていたという(『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P26)。
  3. ^ a b オーナーの田村は入団時から真田に目をかけ、他の選手が田村邸の敷地にある合宿所住まいだった中で自邸の離れに住まわせる程だった。後年の小鶴誠らとの不和には、生え抜きである真田といわゆる赤嶺一派に属し大映スターズから移籍した小鶴らの確執に加え、こうした差別待遇も背景があったと言われている。
  4. ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P224。
  5. ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P228、230。
  6. ^ ちなみにこの年の真田の39勝とチーム全体での98勝は、現在でもセ・リーグ記録となっている。
  7. ^ 『真虎伝』P234。真田は後日藤村が「野球界の一匹オオカミは真田だけだった」とコメントしているのを読んだという。
  8. ^ 大阪・明星 公立勢に対抗した「私学の雄」”. SANKEI DIGITAL. 2011-10-29閲覧。
  9. ^ 『真虎伝』P234。

関連項目

外部リンク