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石橋湛山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石橋 湛山
ファイル:Tanzan Ishibashi 2.jpg
石橋の肖像写真
生年月日 1884年9月25日
出生地 ファイル:Flag of Japan.svg 東京市芝区芝二本榎(現在の港区
没年月日 1973年4月25日(満88歳没)
出身校 早稲田大学
前職 東洋経済新報社合名社員
所属政党 日本自由党民主自由党自由党分党派自由党 → 自由党 → 日本民主党自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
名誉博士(早稲田大学・1956年
配偶者 石橋うめ

内閣 石橋内閣
任期 1956年12月23日 - 1957年2月25日
天皇 昭和天皇

内閣 第1次吉田内閣
任期 1946年5月22日 - 1947年5月24日

内閣 第1次鳩山一郎内閣
第2次鳩山一郎内閣
第3次鳩山一郎内閣
任期 1954年12月10日 - 1956年12月23日

内閣 石橋内閣
任期 1956年12月23日 - 同12月27日

その他の職歴
ファイル:Flag of Japan.svg 衆議院議員
1947年4月26日 -同5月17日
ファイル:Flag of Japan.svg 衆議院議員
1952年10月2日 -1963年10月23日
ファイル:Flag of Kamakura, Kanagawa.svg 神奈川県鎌倉町会議員
1924年 -1928年
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石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年明治17年〉9月25日 - 1973年昭和48年〉4月25日)は、日本ジャーナリスト政治家教育者立正大学学長)。階級陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階従二位勲等勲一等

大蔵大臣第50代)、通商産業大臣(第121314代)、内閣総理大臣第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。

早稲田大学から名誉法学博士(Doctor of Laws)を贈られている。

目次

概要

戦前は『東洋経済新報』を拠点に、一貫して日本植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱えて、日本の敗戦後は日中米ソ平和同盟を主張して政界で活躍する。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣する。退陣後は中華人民共和国との国交回復に力を尽くした。

実父は身延山久遠寺第81世法主杉田日布

生涯

生い立ち

日蓮宗僧侶杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三(せいぞう)[1]として生まれる。 実父の湛誓は、当時東京大教院(現・立正大学の前身)の助教補(助手助教)を務めていた。母・きんは、江戸城内の表一式を請け負う大きな畳問屋石橋藤左衛門の次女である。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で、同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓と親しくしていた。故あって母方の石橋姓を名乗った[2]

学生時代

1885年明治18年)に父・湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡富士川町)に在る昌福寺の住職へ転じる為に、母親のきんと共に甲府市稲門(現・甲府市伊勢2丁目)へと転居する。1889年(明治22年)に、甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居する事になり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校する。

1894年(明治27年)に湛誓が静岡市の日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職に転じる事になり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草村 → 若草町、現・南アルプス市)に在る長遠寺の住職である望月日顕(後に身延山久遠寺83世法主)に預けられる。以来実質的な親子の関係は絶たれて、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。

中学生時代、かつて札幌農学校(現・北海道大学の前身)第一期生としてクラーク博士の薫陶を受けた校長・大島正健との出会いは、湛山の人生観に大きな影響を与えており晩年に至る迄湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。

1902年(明治35年)3月に、山梨県立第一中学校卒業する。中学を卒業する頃に、湛山と改名している[3]。 翌月に、第一高等学校(現・東京大学教養学部)受験の為に上京。その際に、正則英語学校[4]に通っている。

だが同年7月の試験は、不合格であった。翌年に再度受験するが、またもや失敗し、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して9月に入学する。こうして、東京での下宿生活が始まる[5]

ジャーナリスト時代

早稲田大学を卒業して、更に一年間研究科で勉強する。1908年(明治41年)12月に、 島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は東京毎日新聞を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社する。

兵役を経て東洋経済新報社に入社する。大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。また三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張する等(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。1924年大正13年)12月に第五代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降)に就任する。また同年から1936年(昭和11年)まで鎌倉町議会議員を務める。

部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては1円=金2分(1/5匁・0.75g。旧平価)での金本位制復帰に反対して、実体経済に合わせて通貨価値を落とした上での復帰(新平価金海禁)を勝田貞次らと共に主張し、旧平価での復帰や財界整理を主張する池田成彬堀江帰一大蔵大臣として金解禁を旧平価で行う井上準之助と論争している。行政面では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張する。

日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。同誌は署名記事を書く事が困難だった多くのリベラリスト(清沢洌等)にも匿名での論説の場を提供する。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいておりかつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていた為に、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが廃刊は免れる。

太平洋戦争では、次男和彦が召集され戦死している。

日本敗戦直後の1945年昭和20年)8月25日には、論説「更正日本の進路~前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べている。10月13日『東洋経済新報社論』で、「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張している[6]

政界へ

戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、1946年(昭和21年)に日本自由党から総選挙に出馬して落選するものの、第1次吉田内閣大蔵大臣として入閣する。

大蔵大臣在任時にはデフレーションを制える為のインフレーションを進めて、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進する。

しかし戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立する。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げる様に、石橋は要求する。アメリカ合衆国は諸外国の評判を気にしたことと以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなった。戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令によりGHQによって公職追放された。この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。1951年(昭和26年)の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。

1954年(昭和29年)の第1次鳩山内閣通商産業大臣に就任した。石橋は中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。1955年(昭和30年)11月、日中輸出入組合の結成を支援し中国との貿易が軌道に乗るようになる。

同年11月15日保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、石橋も合流入党した。

総理総裁

ファイル:Tanzan Ishibashi.jpg
内閣総理大臣に就任した頃
ファイル:Ishibashi cabinet.jpg
外務大臣岸信介(最前列左)、大蔵大臣池田勇人(最前列右)ら石橋内閣の閣僚と石橋(最前列中央)

1956年(昭和31年)10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退。これを受けてアメリカ追従を主張する岸信介自民党総裁選に立候補、これに対し石橋は社会主義圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。総裁選の当初は岸優位であったが、石井光次郎と2位・3位連合を組んだ。1回目の投票では岸が1位であったが、決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかしながら前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り、更に石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ足並みが乱れ、組閣が難航したため、石橋自身が一時的にほぼ全ての閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足している(一人内閣)。親中派でもある石橋政権の樹立によって日本を反共の砦としたいために岸を望んでいたアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは狼狽したという。岸派より主張された「党内融和の為に決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見が強かったため、石橋内閣成立の立役者だった石井の副総理が無くなり、副総理格は岸が就任した。

内閣発足直後に石橋は全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。しかし帰京した直後に自宅の風呂場で倒れる。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。1957年(昭和32年)度予算審議という重大案件の中で行政府最高責任者である首相が病気療養を理由に自ら国会に出席[7]して答弁できない状況の中での辞任表明には、野党でさえも好意的であり[8]、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたいもの」と述べたと言う。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説[9]や答弁をしないまま退任した唯一の首相となった。後任の首相には岸が任命された。

石橋はかつて『東洋経済新報』で、暴漢に狙撃されて帝国議会への出席ができなくなった当時の濱口雄幸首相に対して退陣を勧告する社説を書いたことがあった。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を欺く事態になると考えたのである。

退陣後

幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。

1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であるため日本政府とは一切関係ないものとする」と言われながらも中華人民共和国を訪問した。政府の一員ではない石橋は訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処はつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談を実現させた。冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張。この主張はまだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年(昭和35年)、大陸中国との貿易が再開した。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。

その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど自民党内ハト派の重鎮として活躍したが1963年の総選挙で落選し、そのまま政界を引退した。

略年譜

9月25日 - 東京市麻布区芝二本榎(現在の港区)に生まれる。
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3月 - 父親山梨県南巨摩郡増穂村(現在の富士川町)に在る昌福寺住職に転じた事に伴い、母親と共に甲府市稲門に転居。
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9月 - 父親が豊田村(現在の静岡市駿河区)に在る青龍山本覚寺住職就任の為に、山梨県中巨摩郡鏡中条村(若草村→若草町を経て、現在の南アルプス市)に在る長遠寺の住職を務めている望月日謙に預けられる。
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4月 - 山梨県立尋常中学校に入学。
  • Template:Safesubst:
3月 - 省三を湛山改名する。山梨県立山梨県第一中学校を卒業。
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9月 - 早稲田大学高等予科に編入。
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9月 - 早稲田大学大学部文学科(現在の文学部)哲学科へ進級(当時の學校長は、鳩山和夫)。
  • Template:Safesubst:
7月 - 早稲田大学大学部文学科を首席で卒業(英文科を含む)して、特待研究生として宗教研究科へ進級。
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7月 - 宗教研究科を修了して、島村抱月の紹介で毎日新聞社東京毎日新聞を出している方)に入社。
  • Template:Safesubst:
8月 - 毎日新聞社を退社。
12月 - 東京麻布歩兵第3連隊に入営。
  • Template:Safesubst:
11月 - 軍曹に昇進して除隊。
  • Template:Safesubst:
1月 - 東洋経済新報社に入社して、『東洋時論』の編集を担当する。
9月 - 見習い士官として、3ヶ月の召集を受ける。
11月 - 福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)生まれの岩井うめと結婚。岩井家は、旧藩時代米沢藩士として家老職を務めた名門だった。
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- 陸軍の、歩兵少尉となる。
  • Template:Safesubst:
11月 - 東洋経済新報社の合名社員に、選ばれる。
  • Template:Safesubst:
9月 - 鎌倉町町会議員に当選(~1928年8月)。
12月 - 東洋経済新報社第五代主幹に就任。
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1月 - 東洋経済新報社代表取締役専務取締役に就任。
9月 - 内閣調査局委員に任ぜられる。
  • Template:Safesubst:
11月 - 東洋経済研究所を設立して、所長並びに理事に就任。
  • Template:Safesubst:
2月 - 東洋経済新報社の社長制新設に伴い、代表取締役社長に就任。
  • Template:Safesubst:
3月 - 東京大空襲で、芝の居宅が焼失。
8月 - 連合国軍に対して日本が、アジア・太平洋戦争敗戦する。
  • Template:Safesubst:
3月 - 山川均提唱の民主人民連盟世話人会に参加。
4月 - 戦後初の衆議院議員総選挙に立候補して落選。
5月 - 第1次吉田内閣大蔵大臣に就任。
  • Template:Safesubst:
4月 - 静岡県第2区より総選挙に立候補して初当選。
5月 - GHQにより公職追放となる。
  • Template:Safesubst:
6月 - 公職追放が解除されて、自由党に復党。
  • Template:Safesubst:
12月 - 立正大学学長に就任。
  • Template:Safesubst:
3月 - 政策審議会会長に就任。
  • Template:Safesubst:
11月 - 岸信介と共に、自由党より除名処分を受ける。
12月 - 第1次鳩山内閣通商産業大臣に就任する。
  • Template:Safesubst:
12月 - 自由民主党第2代総裁に当選して、その後の国会指名により内閣総理大臣に就任する。
  • Template:Safesubst:
1月 - 脳梗塞を発症(公式発表は、老人性急性肺炎)。
2月 - 自由民主党総裁と総理大臣を辞任。
  • Template:Safesubst:
9月 - 中華人民共和国を訪問して、周恩来と会談。
  • Template:Safesubst:
9月 - 日本工業展覧会総裁として中国を訪問。
11月 - 第30回衆議院議員総選挙落選し、政界を引退。
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9月 - ソビエト連邦を訪問。
  • Template:Safesubst:
3月 - 立正大学学長を退任。
  • Template:Safesubst:
4月25日 - 88歳で死去。戒名は、謙徳院殿慈光湛山日省大居士

人物

思想・評論

明治天皇明治時代を記念した明治神宮建設計画に際して。

東京のどこかに一地を相して明治神宮を建つるなどということは実に愚な極みである。こんなことは、断じて先帝陛下(明治天皇)の御意志にもかなったことでないのみならず、また決して永遠に、先帝陛下を記念しまつる所以でもない。真に、先帝陛下を記念しまつらんと欲すれば、まず何よりも先帝の残された事業(注:憲政や産業、民の福利)を完成するということを考えねばならぬ。しかして、もし何らか形に現われた記念物を作らんと欲するならば、「明治賞金」の設定に越して適当なものはない。

(注:ノーベル賞はアルフレッド・ノーベルがその資産を世界文明のために賞金として遺したことにより、永遠に世界の人心に記念された。世界の人心を新たにし、その平和、文明に貢献するために、「明治賞金」こそ先帝陛下の御意志と最も合致する。)

大正元年(1912年)『東洋時論』

第一次大戦参戦(ドイツへの開戦)と対支21ケ条要求について

吾輩は我が政府当局ならびに国民の外交に処する態度行動を見て憂慮に堪えないものがある。その一は、露骨なる領土侵略政策の敢行、その二は、軽薄なる挙国一致論である。この二者は、世界を挙げて我が敵となすものであって、その結果は、帝国百年の禍根をのこすものといわねばならぬ。~英国がドイツに向かって戦を宣するや、我が国民は一斉に起って論じて曰く、ドイツが青島に拠るは東洋の禍根である。日英同盟の義によってドイツを駆逐すべし、南洋の独領を奪取すべし、帝国の版図を拡げ大を成す、この時にありと。当時吾輩はその不可を切言したけれども、朝野を挙げて吾輩の説に耳を仮すものなく、ついにドイツと開戦の不幸をとなり、幾千の人命を殺傷した上に、これらの領土を維持するために相当大なる陸海軍の拡張が必要のみならず、独米の大反感を招けるは勿論、あるいは日英同盟さえ継続し得ぬ破目に陥りはせぬかを危ぶまれる。実に対独開戦は最近における我が外交第一着のそして取り返しのつかぬ大失策であって、しかしてこれ一に、考えざる領土侵略政策と、軽薄なる挙国一致論の生産物といわねばならぬ。

対支談判は、ドイツと開戦して青島を取ったことから糸を引いて出た失策ではあるが、その我が帝国にのこす禍根に至っては一層重大である。我が要求が多く貫徹すればするほど、世人はこれを大成功として祝杯を挙げるだろうが、吾輩は全く所見を異にして、禍根のいよいよ重大を恐るるものである。~このたびの事件で、我が国が支那およびドイツの深恨を買えるは勿論、米国にも不快を起こさせたは争えぬ事実である。かつて世界が日本の手を以て、ロシアの頭を叩かせたように、これらの諸国は日英同盟の破棄を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、日本の立場を転覆せしむるか、それとも連合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか。その場合は、今回得た物の喪失だけでは到底済まず、一切の獲物を元も子もなく、取り上げられるであろう。これ吾輩の対支外交を以て、帝国百年の禍根をのこすものとして、痛憂おく能わざる所以である。

大正四年(1915年)『東洋経済』社説

一切を棄つるの覚悟

我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。~ もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか。

大正十年(1921年) 『東洋経済』社説

中央集権から分権主義へ

元来官僚が国民を指導するというが如きは、革命時代の一時的変態に過ぎない。国民一般が一人前に発達したる後おいては、政治は必然に国民によって行われるべきであり、役人は国民の公僕に帰るべきである。政治が国民自らの手に帰するとは、一は最もよくその要求を達成しうる政治を行い、一は最もよくその政治を監督しうる意味にほかならない。このため、政治はできるだけ地方分権でなくてはならぬ。できるだけその地方地方の要求に応じえるものでなくてはならぬ。現に活社会に敏腕をふるいつつある最も優秀の人材を自由に行政の中心に立たしめえる制度でなくてはならぬ。ここに勢い、これまでの官僚的政治につきものの中央集権、画一主義、官僚万能主義(特に文官任用令)というが如き制度は根本的改革の必要にせまらざれるを得ない。今や我が国はあらゆる方面に行き詰まってきた。しかしてこの局面を打開して、、再び我が国運の進展を図るためには、吾輩がこれまで繰り返しいえる如く、いわゆる第二維新を必要とする。第二維新の第一歩は、政治の中央集権、画一主義、官僚主義を破壊して、徹底せる分権主義を採用することである。この主義の下に行政の一大改革を行うことである。

大正十三年(1924年)『東洋経済』社説

憲法と軍隊

日本国憲法軍隊の在り方を巡る言動は、時代や状況によりいくつかの変遷がある。

1946年(昭和21年)3月に「憲法改正草案を評す」で、日本国憲法に関しては憲法九条に該当する草案第二章の戦争放棄を「最早日本は敗戦国でも、四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、予ねて日本に於て唱えられた真実の神国に転ずるものである。之れに勝った痛快事があろうか」と評価した。

だが1950年(昭和25年)頃からは、自衛軍設置の主張や共産・社会主義との対決姿勢(後に自ら廃稿した「第三次世界大戦と世界国家」)を鮮明にし、政治家としても「反吉田」路線に立ち、憲法改正・再軍備論者として活動した。同時期には「破局的な第三次世界大戦がいやだというなら、そこ(各国の軍備全廃)まで行かなきゃダメだ」と駄目を押し「その場合は国を亡ぼしてもいいという覚悟をしなければとてもできない」(1952東洋経済新報「問われるままに」)と現実と理想のギャップを示しながら、熟慮・覚悟の伴わない理想論を戒めている。一方で私的に記した日記の中でも、1950年の記述で、「今日の世界に於て無軍備を誇るのは、病気に満ちた社会に於て医薬を排斥する或種の迷信」と非武装中立の主張を公的な発言以上に辛辣に評してもいる。

1953年の総選挙では、鳩山自由党の政策委員長として政策をまとめて「憲法を国情に適するように改正」「戦争否定の精神は国策として存置するが、戦争発生防止のため自衛軍を組織する」などを明記した。これは後年の「国としての軍備を持たず国際紛争を武力をもって解決していくのではないと、世界に宣言したことは…人類最高の宣言であると信じている。これが少し時勢に早かったというのであれば、修正の箇所だけあとに加える…『九条は現代の世代において論理通りにいかぬので、世界の国々が恒久平和の理想に燃え、同一精神、同一歩調のとれるまで、しばらく停止する』という具合」という主張(1966「中小企業」)にも合致する。

1957年(昭和32年)、首相に就任した年の新春特大号の東洋経済「石橋湛山大いに語る」では「国連に対して義務を負うということは、軍備ということも考えられる」とし、同時期の「プレスクラブ演説草稿」では「世界の実情から判断して、国の独立安全を保つのに必要な最小限の防衛力はこれを備える国際義務を日本国民は負うものであると信じます」としている。但し同稿の中で「人類を救わんとするならば、われわれは軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません」と、冷戦の平和解決と軍縮を主張した。

米ソ日中平和同盟を提唱してからは将来の理想を語りながらではあるが、再び平和憲法の意義を強調(「池田外交路線へ望む」)しながら、各国の軍備でなく国際警察軍によって平和を守る「世界連邦」実現への努力を説いている(「日本防衛論」)。

湛山は後年「私の戦争反対論には、理屈の外に、実はこの(軍隊時代の)実弾演習の実感が強く影響していたと思う」「もし世の人が皆戦争をさように身近に考えたら、軽率な戦争論は跡を絶つに違いない」(「湛山回想」)と振り返っている。戦争を嫌悪した湛山だが、彼にとっての軍隊体験は、平和についての思索や公共生活の訓練として実のあるものだったようだ。

憲法は国民に義務を負わせるべきか、という議論に関しては、専制独裁に対抗するために主権を抑えようとした「十九世紀の憲法」からの脱却を説き、民主主義国においては国民が権利を持つ以上は義務を自覚しなければいけないと主張。「義務の規定に周密でない憲法は、真に民主的なものとはいえない」 と憲法における義務規定の充実を望んだ。

エピソード

石橋が首相を退陣した時にその潔さを国民は高く評価されることが多いが、弁護士正木ひろしは私的な感情で「公務(首相の地位)を放棄した」と厳しく批判している。そもそも、自民党総裁選で1位優位であった岸信介に対抗する形で2位候補だった石橋湛山と石井光次郎と2位・3位連合を組むことで1位当選を果たすことで岸総理を阻止するという性格があって、石橋総理総裁が誕生した経緯があった。しかし、冬場に自身の体調を考慮しない遊説を行ったために風邪を引いて寝込んだ後に絶対安静が必要との医師の診断を受けた石橋は、連合相手であるが閣内に入れていなかった石井を差し置く形で、閣内に留めておくために副総理格外相として迎えられていた岸信介をただちに総理臨時代理として副総理格の岸に総理総裁を禅譲をして、岸総理総裁が誕生した。予算審議が目前であるにも関わらず自身の体調不考慮が原因で寝込んだことで重たい責任がある首相として予算審議が最初となる国会で一度も演説や答弁を行うことができないまま首相退陣するという愚行を国民に晒した挙句、次期総理総裁を当初の連合相手の石井ではなく総裁選のライバルであった岸に渡し、総裁選時の岸総理阻止という2位3位連合の理念をすぐに反故にしたことになる。

その後、東洋経済新報社で石橋の「全集」が作成される時に、編集者は全集に入れる月報の執筆を正木に依頼した。かつて石橋の部下でもあったその編集者は、石橋への賛美一色のコラムを集めたのでは、一方の意見に偏らない言論の必要性を唱えて来た石橋の信念に反すると考えたのである。正木が書いた石橋への批判はそのまま掲載される事になった。

その他の活動

1952年(昭和27年)12月から1968年(同43年)まで立正大学学長を務めている。

栄典

家族・親族

実家(杉田家)
湛山は、「もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいはその余りに厳格なるに耐えず、しくじっていたかもしれぬ。…望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない」と『湛山回想』に記している[10]
  • 母・きん(問屋石橋藤左衛門の二女)
    石橋湛山の『私の履歴書』によれば、「母は“きん”と言い、芝二本榎の相当大きな屋の娘で、代々熱心な日蓮宗の信者であった。この畳屋は、私が幼年のころは相当繁盛していたようだが、主人である母の兄が死んだ後であったろう、つぶれてしまった。私は事情があって、この母方の姓を名乗って、石橋というのである。」という。
  • 他に妹が2人、弟が1人いる
    自家(石橋家)
    • 妻・うめ(岩井尊記の三女)
    • 長男・湛一(石橋湛山記念財団理事長)
    • 同妻・敏子(赤星喜介の娘)
    鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』(1965年)89頁によれば、「長男・湛一が、資産家赤星喜介の娘と結婚してから、その一族たちと、いささか閨閥的な形ができた。一族では、元蔵王鉱業取締役赤星四郎、元千代田火災副社長赤星五郎などが目ぼしい。また、長女の夫、千葉皓が外交官として知られていた。したがって、閨閥と政権の関係をうんぬんするような材料はない。かれの積極的な経済思想と、学識、能力を党内外に買われ、宰相の地位をえたのであって、石橋政権と閨閥は無縁である。」という。
    他家(その他の親戚)

    系譜

    石橋家(東京都)
                  杉田湛誓
                   ┃
                   ┃
                   ┣━━石橋湛山
                   ┃    ┃
           石橋藤左衛門━━きん   ┣━━━石橋湛一━━━久美子 
                        ┃           ┃ 
                 岩井尊記━━うめ           ┃
                                    ┃
                      足立正━━━足立龍雄    ┃
                              ┃   ┏足立正晃
                              ┣━━━┫
                              ┃   ┗啓子
                     山梨勝之進━━━泰子    ┃
                                   ┃
                                   ┃
                     伊藤忠兵衛━━伊藤恭一   ┃
                             ┃     ┃
                             ┃    ┏伊藤勲
                             ┣━━━━┫
                             ┃    ┗武子
                             ┃     ┃
                     本郷房太郎━━━周子    ┃
                                   ┃
                                   ┃
                           ┏河野謙三   ┣━━━河野太郎
                     河野治平━━┫       ┃
                           ┗河野一郎   ┃
                              ┃    ┃
                              ┣━━━河野洋平
                              ┃
                            ┏照子
                     田川平三郎━━┫
                            ┗田川誠治━田川誠一
                               
    

    脚注

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    1. ^ 石橋湛山の『私の履歴書』によれば「幼名は省三(せいぞう)と呼ばれ、愛称はセイチャンであった。“吾れ日に三たび吾が身を省みる”という論語の有名な言から出ている文字である」と述べている。
    2. ^ 『石橋湛山 リベラリストの真髄』3-4頁
    3. ^ 石橋湛山の『私の履歴書』によれば、「父が若くして弟子入りした山梨県の昌福寺という日蓮宗の寺院には古くから湛の字を名につけるならわしがあった。父は湛誓と称し、私もこの理由で中学を卒業するころ湛山と改名したのである」と述べる。
    4. ^ 湛山は『湛山回想』の中で、「明治三十五年三月、中学を卒業すると、東京に出た。六月か、七月かにある第一高等学校の入学試験を受けるためであった。…神田錦町の正則英語学校に通った。…ここで私は、入学試験の準備をすることにした。しかし私は、この学校に来てみて驚いた。…大きな教室に、生徒はげたばきのままで雑然と入り込み、出席簿をつけるでもない。人気のある先生の時間には、あふれて、立っている生徒もある。かと思えば、ある先生の時間には、数えるほどしか出席者がない。しかも講義の途中でさっさと持ち物をかたづけて帰って行く生徒もある。いなか者の私は、これでも学校かとあきれたのである。…入学試験準備のための、そのころの学校は回想してみても愉快なものではなかった」と書いている。
    5. ^ 『石橋湛山 リベラリストの真髄』9頁
    6. ^ 石橋湛山評論選集』東洋経済新報社、1990年、391-392頁
    7. ^ 日本国憲法第63条では首相は議院から要求されれば国会の出席にしなければならない規定が存在する。
    8. ^ 病気療養していた首相を議会決議してまで国会出席をすることはしなかった。
    9. ^ 首相として迎えた第26回通常国会の施政方針演説は岸が代読している。
    10. ^ 『石橋湛山 リベラリストの真髄』4-5頁
    11. ^ 佐藤朝泰著『豪閥 地方豪族のネットワーク』339頁

    主な著書

    評論集

    • 石橋湛山評論集 (松尾尊兌・編、岩波文庫、1984年:ISBN 4-00-331681-9、ワイド版岩波文庫、1991年:ISBN 4-00-007005-3
    • 小日本主義-石橋湛山外交論集 (増田弘・編、草思社、1984年5月、ISBN 4-7942-0186-9
    • 石橋湛山評論選集 (1990年6月、東洋経済新報社ISBN 4-492-06052-9
    • リベラリストの警鐘 石橋湛山著作集1-経済論 (長幸男・編、東洋経済新報社、1995年11月、ISBN 4-492-06081-2
    • エコノミストの面目 石橋湛山著作集2-経済論 (中村隆英・編、東洋経済新報社、1995年11月、ISBN 4-492-06082-0
    • 大日本主義との闘争 石橋湛山著作集3-政治・外交論 (鴨武彦・編、東洋経済新報社、1996年1月、ISBN 4-492-06083-9
    • 改造は心から 石橋湛山著作集4-文芸・社会評論 (谷沢永一・編、東洋経済新報社、1995年12月、ISBN 4-492-06084-7
    • 石橋湛山全集(全15巻、全集編纂委員会・編、東洋経済新報社、1970-72年)

    回想録・日記

    参考文献

    ※新版 『私の履歴書 反骨の言論人』 日経ビジネス人文庫・日本経済新聞出版社、2007年
    • 増田弘『石橋湛山 リベラリストの真髄中公新書 1995年
      • 姉妹書に『石橋湛山 占領政策への抵抗草思社
    • 半藤一利『戦う石橋湛山 昭和史に異彩を放つ屈伏なき言論』 東洋経済新報社(新版も)、中公文庫で再刊。
    • 小島直記『気概の人石橋湛山』 新潮社、新潮文庫/新版・東洋経済新報社 2004年
    • 長幸男『石橋湛山の経済思想 日本経済思想史研究の視角』 東洋経済新報社 2009年
    • 江宮隆之『政治的良心に従います 石橋湛山の生涯』 河出書房新社 1999年、※読みやすい伝記
    • 筒井清忠『石橋湛山 一自由主義政治家の軌跡』 中公叢書:中央公論社 1986年
    • 佐高信『孤高を恐れず―石橋湛山の志』 講談社文庫:講談社 1998年

    関連項目

    関連人物

    外部リンク


    官職
    先代:
    鳩山一郎
    ファイル:Flag of Japan.svg 内閣総理大臣
    第55代:1956年 - 1957年
    1957年1月31日より岸信介が臨時代理
    次代:
    岸信介
    先代:
    愛知揆一
    ファイル:Flag of Japan.svg 通商産業大臣
    第12・13・14代:1954年 - 1956年
    次代:
    水田三喜男
    先代:
    渋沢敬三
    ファイル:Flag of Japan.svg 大蔵大臣
    第50代:1946年 - 1947年
    次代:
    片山哲(臨時代理)
    先代:
    村上勇
    ファイル:Flag of Japan.svg 郵政大臣
    第9代:1956年(兼任)
    次代:
    平井太郎
    党職
    先代:
    鳩山一郎
    自由民主党総裁
    第2代 : 1956年 - 1957年
    次代:
    岸信介
    歴代内閣総理大臣
    第54代
    鳩山一郎
    55
    1956年 - 1957年
    第56代
    岸信介

    伊藤博文
    黑田清隆
    山縣有朋
    松方正義
    大隈重信
    桂太郎
    西園寺公望
    山本權兵衛

    寺内正毅
    原敬
    高橋是清
    加藤友三郎
    清浦奎吾
    加藤高明
    若槻禮次郎
    田中義一

    濱口雄幸
    犬養毅
    齋藤實
    岡田啓介
    廣田弘毅
    林銑十郎
    近衞文麿
    平沼騏一郎

    阿部信行
    米内光政
    東條英機
    小磯國昭
    鈴木貫太郎
    東久邇宮稔彦王
    幣原喜重郎
    吉田茂

    片山哲
    芦田均
    鳩山一郎
    石橋湛山
    岸信介
    池田勇人
    佐藤榮作
    田中角榮

    三木武夫
    福田赳夫
    大平正芳
    鈴木善幸
    中曽根康弘
    竹下登
    宇野宗佑
    海部俊樹

    宮澤喜一
    細川護熙
    羽田孜
    村山富市
    橋本龍太郎
    小渕恵三
    森喜朗
    小泉純一郎

    安倍晋三
    福田康夫
    麻生太郎
    鳩山由紀夫
    菅直人
    野田佳彦

    ファイル:Emblem of the Prime Minister of Japan.svg