第23師団 (日本軍)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 第23師団 | |
|---|---|
| 創設 | 1938年(昭和13年)4月4日 |
| 廃止 | 1945年(昭和20年) |
| 所属政体 | ファイル:Flag of Japan.svg大日本帝国 |
| 所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
| 部隊編制単位 | 師団 |
| 兵種/任務/特性 | 歩兵 |
| 所在地 | 熊本-満州-ルソン島 |
| 編成地 | 熊本 |
| 通称号/略称 | 旭 |
| 補充担任 | 熊本師管区 |
| 最終上級部隊 | 第14方面軍 |
| 最終位置 | フィリピン ルソン島北部 |
| 主な戦歴 |
ノモンハン事件-太平洋戦争 (ルソン島の戦い) |
第23師団(だいにじゅうさんしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
目次 |
沿革
ノモンハン事件で壊滅
Template:Safesubst:4月に、第15・第17・第21・第22師団と共に、中国戦線の治安維持を目的に熊本で編成された歩兵三個連隊編制師団である。
当初中国戦線への投入が予定されていたが、満州北部のハイラルに駐屯していた騎兵集団が中国戦線に転用された事から、代わりに満州へ派遣された。
満州で師団はハイラルの警備に当っていたが、Template:Safesubst:5月11日に満州と外蒙古の国境地帯であるノモンハンでソ連・モンゴルとの国境紛争が起こると、日本側の主力部隊として実戦を経験することになった(紛争の詳細はノモンハン事件参照)。
師団長の小松原道太郎中将は、関東軍の方針によって、まず師団の一部兵力からなる「東支隊」(支隊長:第23師団捜索隊長の東八百蔵中佐)を編成して派遣した。支隊が到着した時にはソ連側は撤退後であったが、支隊が帰還すると再びソ連側部隊が姿を現した。そこで師団は、先の東支隊に歩兵第64連隊(連隊長:山県武光大佐)を加えた「山県支隊」を編成し、再度派遣したところ戦闘となった。この戦闘で東八百蔵中佐は戦死し、山県支隊もまた後退した。
状況を見た関東軍は戦車第3連隊及び戦車第4連隊などを増派した。第23師団では歩兵第64連隊が戦車隊に編合されて「安岡支隊」(支隊長:安岡正臣中将)となったほか、師団本隊も出動することとなり、8月4日に第6軍が創設されるとその隷下となった。
しかし、7月初旬の総攻撃失敗で安岡支隊は大損害を受け、7月4日には師団参謀長の大内孜大佐が戦死した。8月20日からのソ連側の攻撃によって日本側はほぼ壊滅し、9月16日にソ蒙軍との間で停戦交渉が纏まるまでに第23師団は1万1958名にも及ぶ死傷者を出した。
師団の幹部では、歩兵第71連隊長の森田徹大佐(8月26日)、野砲兵第13連隊長の伊勢高秀大佐(8月29日)および歩兵第71連隊長代理の東宗治中佐(8月30日)が戦死したほか、歩兵第64連隊長の山県武光大佐(8月29日)と歩兵第72連隊長の酒井美喜雄大佐(9月15日)、師団捜索隊長の井置栄一中佐らが自決した。
戦死した大内参謀長の後任となった岡本徳三大佐[1]、第23歩兵団長の小林恒一少将らも重傷を負うなどしている。動員兵力のおよそ8割を失った事から「悲劇の小松原兵団」と呼ばれる。
- ^ 精神錯乱を起したとされる将校により、入院中に殺害された。
太平洋戦線
師団はノモンハン事件後に機械化師団のモデルケースとして編制を強化されて再建され、満州に駐屯し続けた。太平洋戦争勃発後も第8国境守備隊と共に国境付近の警備を担任していた。
しかし、太平洋方面の戦局悪化から、Template:Safesubst:になって師団の台湾派遣が決まった。台湾へ移動中にさらに派遣先がフィリピンに変わり、同年12月にフィリピンのルソン島へ進出して第14方面軍隷下に加わった。満州からの移動の際にふたたび大きく編制が変わって重装備が減少しているほか、移動途中でヒ81船団などでの輸送船の沈没により損害を受けている。なお、残置人員・装備は、第8国境守備隊とともに、主に新設の第119師団の基幹に流用されている。
Template:Safesubst:1月からのルソン島の戦いではリンガエン湾沿岸に配備され、上陸するアメリカ軍と交戦したが3月頃から飢餓状態に陥り、ボコド陣地に後退して防御戦闘の最中に終戦を迎える。ルソン島の戦闘に参加した将兵は現地補充を含め29,636名であったが、生還したのは5,128名に過ぎない。師団の勇戦に対し感状が送られている。
師団概要
師団長
- 小松原道太郎 中将:1938年(昭和13)7月7日 - 1939年(昭和14)11月6日
- 井上政吉 中将:1939年(昭和14年)11月6日 - 1941年(昭和16年)3月1日
- 西原貫治 中将:1941年(昭和16年)3月1日 - 1942年(昭和17年)11月10日
- 及川源七 中将:1942年(昭和17年)11月10日 - 1944年(昭和19年)1月7日
- 西山福太郎 中将:1944年(昭和19年)1月7日 - 終戦
参謀長
- 大内孜 大佐:1938年(昭和13年)7月7日 - 1939年(昭和14年)7月4日(戦死)
- 岡本徳三 大佐:1939年(昭和14年)7月6日 - 1949年(昭和14年)9月11日(戦傷して入院中に死去)
- 木村松治郎 大佐:1939年(昭和14年)9月11日 - 1940年(昭和15年)8月1日
- 川俣雄人 大佐:1940年(昭和15年)8月1日 - 1941年(昭和16年)10月15日
- 松田巌 大佐:1941年(昭和16年)10月15日 - 1942年(昭和17年)8月1日
- 高津利光 大佐:1942年(昭和17年)8月1日 - 1944年(昭和19年)3月1日
- 吉川浩 大佐:1944年(昭和19年)3月1日 - 1944年(昭和19年)11月17日(戦死)
- 高津利光 大佐:1944年(昭和19年)11月27日 -
高級副官
- 亀川良夫 中佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1939年(昭和14年)8月1日
- 高畑洋平 中佐:1939年(昭和14年)8月1日 - 1940年(昭和15年)9月16日
- 青山清 中佐:1940年(昭和15年)8月16日 - 1940年(昭和15年)12月2日
- 立花啓一 中佐:1940年(昭和15年)12月2日 -
- 三好勇 少佐:
兵器部長
- 近沢義美 大佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1939年(昭和14年)7月3日
- 金子時之助 中佐:1939年(昭和14年)7月3日 - 1940年(昭和15年)8月1日
- 高畑洋平 中佐:1940年(昭和15年)8月1日 - 1941年(昭和16年)8月1日
- 大橋彦四郎 大佐:1944年(昭和16年)8月1日 -
経理部長
- 渦川正義 主計大佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年(昭和15年)3月9日
- 今田章 主計中佐:1940年(昭和15年)3月9日 - 1941年(昭和16年)10月15日
- 三浦日出雄 主計中佐:1941年(昭和16年)10月15日 -
- 伊知地俊雄 主計中佐:1944年(昭和19年)10月31日 -
軍医部長
- 村上徳治 軍医大佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年(昭和15年)3月9日
- 樋口四郎 軍医大佐:1940年(昭和15年)3月9日 -
- 倉原玉記 軍医中佐:
獣医部長
- 松尾義夫 獣医中佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年(昭和15年)3月9日
- 石坂九郎治 獣医中佐:1940年(昭和15年)3月9日 - 1942年(昭和17年)11月9日
- 慶家星 獣医中佐:1942年(昭和17年)11月9日 -
隷下部隊
1938年(昭和13年)当時の編制
- 師団司令部
- 第23歩兵団
- 第23歩兵団司令部
- 歩兵第64連隊
- 歩兵第71連隊
- 歩兵第72連隊
- 捜索第23連隊
- 野砲兵第13連隊
- 工兵第23連隊
- 輜重兵第23連隊
- 第23師団衛生隊
- 第23師団通信隊
- 第23師団制毒訓練所
- 第23師団兵器修理所
- 第23師団病馬収容所
- 第23師団防疫給水部
最終所属部隊
- 歩兵第64連隊(熊本):中島正清大佐
- 歩兵第71連隊(鹿児島):二木栄蔵大佐
- 歩兵第72連隊(都城):中島嘉樹大佐
- 捜索第23連隊:久保田尚平中佐
- 野砲兵第17連隊:吉富徳三少将
- 工兵第23連隊:水野捷海中佐
- 輜重兵第23連隊:駒木嘉太郎中佐
- 独立野砲兵第13大隊:宇田豊作少佐
- 第23師団通信隊:奥川弘毅大尉
- 第23師団兵器勤務隊:本井秋太大尉
- 第23師団衛生隊:西田喜春大尉
- 第23師団第1野戦病院:塩田浩政軍医大尉
- 第23師団第4野戦病院:花牟礼孝二郎軍医大尉
- 第23師団防疫給水部:谷口良碩軍医少佐
- 第23師団病馬廠:西川春雄獣医大尉
| ファイル:Tank template.svg | この「第23師団 (日本軍)」は、軍事に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆・訂正等して下さる協力者を求めています。 (ポータル:軍事/PJ軍事/PJ軍事史) |




