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萩原淳 (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

萩原 淳
愛媛マンダリンパイレーツ コーチ #77
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 東京都保谷市(現:西東京市
生年月日 1973年8月20日(38歳)
身長
体重
182cm
88kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1991年 ドラフト2位
初出場 1996年8月1日
最終出場 2009年9月1日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴

萩原 淳(はぎわら じゅん、1973年8月20日 - )は、東京都西東京市出身の元プロ野球選手投手)。現在は、愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチを務めている。

目次

経歴

東海大甲府高校で、1990年1991年選抜大会に出場。高校通算25本塁打の強打を誇り、強肩強打が売りの内野手として注目を集めた。1991年のドラフト会議オリックス・ブルーウェーブに2位指名を受けて入団。同期に田口壮イチローらがいる。

入団当初は田口、イチローと同じく期待されたが、なかなか野手としての才能が開花せず、プロ入り9年間で6打数1安打に終わる。2000年シーズン途中に、当時の仰木彬監督の指示を受けて投手に転向した。転向後2年目の2001年に一軍初登板。1イニングを無失点に抑えた。2002年には直球を武器に活躍し、夏場にはヘルニアで離脱した大久保勝信の後を受けて一時抑えも務め、48試合で防御率2.64、チーム最多の10セーブを記録した。当初は変化球を投げられず、以降2年間は防御率は悪化したが、新たにカーブを習得し、中継ぎ投手として活躍した。

2005年選手分配ドラフトによりオリックス・バファローズと契約。中継ぎだけでなく、中1日で先発したり(3イニング限定)、8回から延長12回まで一人で投げぬいたりとフル稼働し、49試合に登板して81イニングを投げ、3勝2敗1セーブ、防御率3.89という好成績を挙げた。2006年シーズンは不本意な成績だったが、5年連続30試合以上の登板とタフな所を見せている。2007年6月28日清水章夫木元邦之との交換トレード歌藤達夫とともに北海道日本ハムファイターズへ移籍。シーズンが終盤に差し掛かるにつれて徐々に安定感を発揮し始め、9月28日に移籍後初勝利。11月2日には日本シリーズにも中継ぎとして登板するも、閉幕すると日本ハムから戦力外通告を受けた。11月7日12球団合同トライアウト参加直後、その年まで日本ハムのゼネラルマネージャーを務めていた高田繁が監督に就任した東京ヤクルトスワローズから契約の誘いを受け、12月4日に入団した。

2008年ロングリリーフ敗戦処理ながらも完全に再生を果たし、度々150km/hを超える速球を連発するなど安定した投球をみせ、磐石のリリーフ陣の一角を担った。2009年、自己最速の154キロを計測。ロングリリーフ敗戦処理としてシーズン序盤からチームを支えるも、9月に右肩痛を発症しシーズンを終えた。2010年は移籍後初の一軍登板無しに終わり10月3日に2度目の戦力外通告を受け現役を引退した。

2011年1月14日、四国アイランドリーグplus愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任した。

人物

高校以降の投手経験がなく、プロ入り9年目に内野手から投手に転向した、異色の選手として知られている。きっかけは、練習で150キロの速球を投げたことからである。

仰木彬1994年から8年間オリックス監督を務めていた時に野手から投手に転向したのは、萩原以外に嘉勢敏弘今村文昭がいる。しかし嘉勢と今村が高校時代はエースだったのに対して、萩原は高校以降は投手経験がまったくなかった。

2試合連続で先発投手を務めたことがある。2005年6月5日広島東洋カープ戦では3回を2安打無失点、移動日を挟んだ6月7日阪神タイガース戦では3回1失点と言う成績であった。

2006年のオリックスの宮古島キャンプに同級生のイチローが訪れ、旧交を温めた。その際イチローは紅白戦に出場し、そこで萩原と対戦した。高校時代に「投手・鈴木」と「打者・萩原」として対戦したことがある2人は(結果はイチローが完璧に萩原を抑え込む)、その頃と立場が全く逆になって対戦することに対し感慨深いものがあったという。結果はイチローが「あいつに抑えられるわけにはいきませんから」の宣言どおりヒットを放ち、高校時代からイチローの2連勝となった。

かつてオリックスで打撃コーチを務めた新井宏昌は、身体能力が抜群だった萩原が野手として大成しなかった理由として「動体視力(瞬時にボールの変化や遠近感を捉える能力)が他の選手に比べて少し弱かったのでは」と語っている。

オリックス時代は、オフシーズンになると神戸市をサブホームとするアジアリーグアイスホッケー日光神戸アイスバックスの応援にも駆けつけていた。観戦成績は非常によく、アイスバックス側からもオリックス時代と同じ42番のジャージを進呈されている。ちなみに萩原本人は西東京市出身ということもあり東伏見アイスアリーナにも子供の頃にアイスホッケー観戦に来ていた。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2001 オリックス 10000000------41.000100100000.001.00
2002 4800003410--.42925864.24282641550019192.641.05
2003 421000134--.25029661.17874661578049476.902.02
2004 330000010--.00017836.041102712261028287.001.89
2005 4950003218.60033481.066133403733041353.891.23
2006 3300003404.42921249.04872703314029285.141.53
2007 日本ハム 5000010011.000388.083401500555.631.50
2008 ヤクルト 25000010001.00014432.0445900162023205.631.66
2009 3400001107.50017539.15031414361121214.811.63
通算:9年 270600013151520.4641639372.13775618812153001912152034.911.52

年度別打撃成績

















































O
P
S
1996 オリックス 4330100010000000010.333.333.333.667
1997 1210000000001000010.000.000.000.000
1998 2220000000000000001.000.000.000.000
2001 1000000000000000000----------------
2002 48000000000000000000----------------
2003 42000000000000000000----------------
2004 33000000000000000000----------------
2005 49110000000000000010.000.000.000.000
2006 32000000000000000000----------------
2007 日本ハム 5000000000000000000----------------
2008 ヤクルト 25220000000000000020.000.000.000.000
2009 34320000000001000010.000.000.000.000
通算:12年 27613110100010002000061.091.091.091.182

記録

背番号

  • 55 (1992年 - 2001年)
  • 42 (2002年 - 2007年、2010年)
  • 19 (2007年)
  • 48 (2008年 - 2009年)
  • 77 (2011年 - )

関連項目