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藤田宗一 (投手)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤田 宗一
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 京都府綴喜郡八幡町(現:八幡市
生年月日 1972年10月17日(39歳)
身長
体重
175cm
80kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1997年 ドラフト3位
初出場 1998年4月4日
年俸 1500万円(2011年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム ファイル:Flag of Japan.svg 日本
WBC 2006年

藤田 宗一(ふじた そういち、1972年10月17日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手投手)。京都府綴喜郡八幡町(現:八幡市)出身。

中日岩瀬仁紀に抜かれるまで連続救援登板日本記録保持者であった。

目次

来歴

プロ入り前

中学校までを京都府八幡市で過ごし、長崎県島原中央高等学校に野球留学した。卒業後は社会人野球西濃運輸硬式野球部に入部。抑えとして素質が開花し、1996年社会人野球日本選手権大会ではチームが準優勝し、自身も敢闘賞を受賞した。翌年も都市対抗でのベスト8入りに貢献している。

1997年同年のドラフト会議千葉ロッテマリーンズから3位で指名されて入団。

ロッテ時代

ルーキーイヤーの1998年4月4日近鉄戦の8回に初登板。4月11日西武戦で初セーブ。5月4日西武戦で初勝利。河本育之に次ぎ、チーム2位の7セーブを挙げる。

1999年には65試合登板でリーグ最多試合登板。以後退団するまで薮田安彦と共に、抑えの小林雅英(現オリックス・バファローズ)につなぐ中継ぎを担うことになる。

2000年、70試合登板で2年連続最多試合登板。最多ホールドのタイトルを獲得。

2001年オールスターゲームに初出場した。

2003年、わずか28試合の登板にとどまり、6年連続50試合以上登板を逃す。

2004年、4年ぶりの勝利を挙げるなど62試合に登板。

2005年、千葉ロッテの勝利パターン継投「YFK」の一角として31年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。

2006年にはWBC日本代表に選ばれ、優勝メンバーとなった。この時の登板記録は3試合 0勝0敗0セーブ 防御率9.00 1投球回 1奪三振 自責点1であった。

2007年5月3日に史上79人目の通算500試合登板を達成。全てリリーフ登板であり、初登板から500試合連続リリーフ登板は史上初である。同年6月20日には、連続リリーフ登板が512試合連続となり、パ・リーグ新記録となった。31試合に登板したものの防御率12点台と極度の不振で、左打者のワンポイントで登板しては打ち込まれるという試合が続き、肩の故障も相まって二軍落ちも経験した。 10月27日に球団から戦力外通告を受ける。

球団からはコーチ就任を要請されるが、あと3試合に迫った日本記録(橋本武広の526試合)もあり現役続行を希望し退団。12球団合同トライアウトには参加せず他球団のオファーを待ち、交渉解禁日の11月7日読売ジャイアンツが獲得。背番号は「初心に返りたい。12番以外なら」ということで37

巨人時代

2008年4月5日阪神タイガース戦で中継ぎ登板。当時日本記録となる527試合連続救援登板を達成した(2011年、岩瀬仁紀に更新されるまで日本記録保持)。以後39試合に出場した。しかし、2009年はわずか19試合の登板。2010年はプロ入り初の一軍登板なしに終わり、10月29日、球団から2度目の戦力外通告を受ける。現役続行を希望し、古巣・ロッテの入団テストを受け、2回目の合同トライアウトに参加。

ソフトバンク時代

2011年1月24日、福岡ソフトバンクホークス育成選手として契約[1]。同年3月7日付けで支配下登録された[2]。同年10月22日に古巣の千葉ロッテマリーンズ戦で通算600試合登板を達成。しかし、同年11月21日に球団側より来季の契約を結ばないことを通告された[3]

プレースタイル

主な球種ストレートスライダー。ほぼこの2球種のみだが、他にカットボールシュートも投げる。スライダーは「伝家の宝刀」とも言われ、左打者に強い。また牽制クイックも得意。

人物

家族は妻と子供が2男1女。娘はNICE GIRL プロジェクト!研修生の藤田彩加[要出典]。妻と娘は『ピラメキーノ』の1コーナー「おんなごころ!おかあさんといっしょ」(2010年4月28日放送分)に出演したことがある。

テーマ曲はGeorge Thorogood & the Destroyersの「Bad to the Bone」。

社会人時代に肩を壊し、リハビリ生活を余儀なくされた経験が故障しない頑丈な体を作っている。

プロに入って先発登板したことは未だにないため「中継ぎのスペシャリスト」とよく言われる。当時、薮田、藤田から小林に繋ぐリレーは千葉ロッテの“勝利の方程式”であり、一部メディアからは阪神タイガースの勝利の方程式「JFK」を捩ってYFKと呼ばれた。

入団から5年連続で50試合以上に登板した。これは岩瀬仁紀(継続中)の12年連続、秋山登の9年連続に次ぐ3位の記録である。

千葉ロッテ時代は「中継ぎ」という仕事の評価が低い事に不満を持ち、例年契約更改がこじれていた。

2005年10月17日、千葉ロッテが31年ぶりのリーグ優勝を成し遂げたときに誕生日を迎える。また、同日の試合で勝利投手になった。

2007年5月27日の阪神戦で金本知憲に3球続けて胸元に投げ、結果死球を与えて乱闘騒ぎになった(この試合はそれまでに福浦和也が二死球を受けるなど荒れていた)。ファンから激しい罵声を浴びて、プロ野球に入ってこれが一番恐怖を感じた経験だという。翌日には謝罪し、金本も「こういうのは仕方ない」と言い、2人の間にわだかまりはないと言う。

WBC出場選手としては初めて戦力外通告を受けた選手でもある。それもあり、2007年年末にプロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達で取り上げられた。

戦力外を受けた後、複数球団が興味を示し、福岡ソフトバンクホークス王貞治監督(兼GM)などは「(費用対効果もあるが、前年の年俸程度の)1億出す。千葉ロッテ戦に優先的に投げさせる」とまで言い切った。それもあって争奪戦も予想されたが、交渉が解禁されたわずか90分後に読売ジャイアンツと契約した。理由は巨人から真っ先に声をかけられたことに誠意を感じたから。

2008年5月20日に古巣の千葉ロッテとの交流戦で二死満塁のピンチで登板。千葉マリンスタジアムの観客席から彼に対するブーイングも飛び出す中、見事救援に成功した。そして翌日の登板では、前日にブーイングを浴びせられた古巣のファンからも拍手で迎えられた。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1998 ロッテ 560000647--.60027066.16231921544118162.171.22
1999 650000310--.75024961.15751311570123223.231.14
2000 700000210--.66726159.06492021462031284.271.42
2001 600000010--.00013230.2363620240017164.701.37
2002 500000020--.0009823.1273300160011103.861.29
2003 280000010--.0008418.223372217001194.341.61
2004 620000110--.50020044.05242032351025224.501.64
2005 45000014024.20015438.22721321311012112.561.03
2006 56000043023.57116940.2421712350019163.541.20
2007 31000012110.3337615.22822011210232212.641.91
2008 巨人 39000000013.00012329.0302801210013103.101.31
2009 19000010021.0007217.12011001000542.081.21
2011 ソフトバンク 1900000105.000459.110150380010109.641.61
通算:13年 60000001921877.4751933454.0478391241515366922181963.891.33
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

背番号

  • 12 (1998年 - 2007年)
  • 37 (2008年 - 2010年)
  • 136 (2011年 - 同年3月6日)
  • 63 (2011年3月7日 - )

脚注

  1. ^ 育成選手入団のお知らせ - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2011年1月24日
  2. ^ 藤田投手とデレオン投手が支配下登録。藤田投手は「嬉しい。一歩進んだ」と活躍を誓う - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2011年3月7日
  3. ^ 選手契約について - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2011年11月21日

関連項目