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講談倶楽部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

講談倶楽部』(こうだんくらぶ)は、講談社が発行した大衆文学雑誌1911年明治44年)創刊、第二次世界大戦による中断を挟んで1962年昭和37年)廃刊。速記講談に始まり、時代小説などの大衆文学雑誌として人気を博した。

目次

戦前

創刊

野間清治は弁論の気風による青少年教育のために大日本雄弁会を起こし、1909年に『雄弁』を創刊していた。1900年代における三遊亭円朝の『牡丹灯籠』速記本のヒットに始まる講談速記本の流行、日露戦争後から始まる講談を口述に似せて書く「書き講談」の立川文庫などによる人気に触発され、野間は大衆啓蒙の手段として講談を出版に取り入れようとして、1911年11月に速記講談を主にした『講談倶楽部』を創刊した。これにより大日本雄弁会は講談社の名も持つことになる。創刊号は定価18銭、1万部刷って1200部売り上げと初期は返本の山だったが、1年後には8000部ほどが売れるようになった。

人気の定着

1913年大正2年)には臨時増刊「浪花節十八番」を出して好評となるが、講釈師たちが浪曲家と同列にされることに反発したのと、速記による講談落語を供給していた今村次郎が講談社に独占権を求めるのと浪花節掲載を見合わせることを申し入れたのを断られたことで、今村は文光堂が発行を始めていた同種の雑誌『講談世界』上で講談社攻撃を行う。それに対して『講談倶楽部』では、書き講談を「新講談」と称して掲載、これがかえって読者に支持されるようになり、紙面から速記講談を一掃する。この新講談の書き手には、それまでの半井桃水渡辺霞亭、稲岡奴之助、行友李風、大谷内越山などに、本田美禅、前田曙山、山野芋作(長谷川伸)などが加わることになった。これが大衆文芸がマスメディア化していく端緒となる。

その後1914年から大々的に懸賞募集を行い、吉川英治が入選してデビューし、販売部数も増えて翌年には2万部となり、姉妹誌『面白倶楽部』も創刊。1917年頃には新講談と家庭読物が人気を集め、佐藤紅緑らの長篇小説が注目され、第一次大戦による好景気の影響もあって売れ行きは飛躍的に増加、1924年には15万部ほどになる。その後も江戸川乱歩佐々木邦などの作品が人気を集め、昭和10年代には4、50万部となるる。

戦局が進むに連れて言論統制が強まり、1940年の川口松太郎「女浪曲師」は軍部の圧力で連載を打ち切られ、終戦の1945年には10万部程度に落ち、ページ数も32ページとなる。

戦後

CIEから戦争協力雑誌として「ワースト・マガジン」とされるなど、時代小説は民主化に逆行するものという第二次世界大戦後の風潮にあって、1946年2月号で休刊。講談社では『講談倶楽部』の復刊に踏み切れないでいたが、『冨士』『面白倶楽部』などの売れ行きのよさから、1949年1月号(1948年11月発行)から復刊。山手樹一郎が覆面で書いた「新篇八犬伝」連載が人気を呼んだ他、バラエティーに富んだ娯楽雑誌として再スタートした。海音寺潮五郎山本周五郎角田喜久雄らの戦前からの時代小説作家に加え、山田風太郎鳴山草平宮本幹也などの新しい作家が執筆した。戦後創刊された『小説新潮』や、戦前からの『オール讀物』などの中間小説路線に時代の人気は移っていく中、1952年には講談倶楽部賞を創設、第2回に春桂太(伊藤桂一)、第8回に司馬遼太郎がデビュー、また第1回の予選通過者には田辺聖子がいた。

しかし時流により講談社は『少年倶楽部』『少女倶楽部』とともに1962年11月で『講談倶楽部』を廃刊し、12月から中間小説誌『小説現代』を創刊する。これが、既に1960年に廃刊されていた光文社『面白倶楽部』などを含めた、いわゆる倶楽部雑誌の最後となった。廃刊に際し尾崎士郎朝日新聞に掲載した一文では、「ある時期、たしかに「講談社文化」の時代的影響は、批判の是非いかんにかかわらず、重要な意味を残している。その根柢を形成したものが「講談倶楽部」であったことだけは絶対に疑う余地もあるまい。」と述べられた。

参考文献