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通州事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ファイル:Occupied Tongzhou by IJA.JPG
日本が防衛している通州

通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民に対する虐殺を指す。

目次

事件の概要

通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市であり冀東防共自治政府が置かれていた。当時の中国では北京議定書に基づき邦人保護のために欧米諸国と同様に日本軍が駐留していた。1937年7月7日に中国軍による駐留日本軍(この部隊は元々、通州に配置されようとした際に、梅津美治郎陸軍省事務次官が京津線から離れた通州への配置は北京議定書の趣旨では認められないと強く反対したために代わりに北京西北の豊台に配置された部隊であった[1])への銃撃に端を発した盧溝橋事件が勃発し、まもなく停戦協定が結ばれたが、7月25日に再び日本軍への銃撃事件が引き起こされ(廊坊事件)、続く7月26日にも日本軍への攻撃が繰り返された(広安門事件)。7月28日、日本軍は華北攻撃開始。その最中の7月29日、突如約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。

冀東防共自治政府保安隊が通州事件を起こした原因としては以下の3つの説が存在している。

  1. 日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復で起こったとする説[2](しかし誤爆の事後処理は通州事件以前には終わっている事実も存在している[3]) 。
  2. 中国国民党軍が冀東防共自治政府保安隊を寝返らせるために「日本が大敗した」と嘘のラジオ放送をおこなったが、冀東保安隊がそれに踊らされたという説[3][4]
  3. 1986年に冀東保安隊長であった張慶餘の回想録が公表され、また中国で出版された『盧溝橋事変風雲篇』によると、張慶餘、張硯田の両隊長は、中国国民党第29軍とかねてから接触しており、「日本打倒」の事前密約をし、これが「通州決起」と関係していると記されていることから、中国国民党と張慶餘・張硯田両隊長の密約によるものとする説[5]

また当時大使館付陸軍武官補佐官であった今井武夫は、「もっともこれは単に通州だけに突発した事件ではなく、かねて冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊がほとんど全部、29日午前2時を期して、一斉に蜂起し、日本側を攻撃したものである」と述べている[6]

主犯の張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している[7]

なお、中国側では「抗日蜂起」とも言われる。

影響等

通州虐殺事件

女性は強姦されて陰部にほうきを刺されて殺害されている者、喫茶店の女子店員の生首がテーブルの上に綺麗にならべられていた、斬首した女性に対する死姦、腹から腸を出されて殺害されている者、針金で鼻輪を通された子供など、日本人の平均的倫理観から見て殺され方が極めて異常かつ残虐であったため、この様子が同盟通信を通じて日本全国に報道されると日本の対支感情は著しく悪化した[8]。 これは、既に7月7日生じたあと現地で解決されていた日本軍と国民党の武力衝突につき、感情論に任せたなし崩し的戦線拡大を招いた。 その後1937年12月24日、冀東政府と日本側との間で交渉が成立、冀東政府は日本側に正式陳謝の上、120万円の賠償金を支払い、事件は解決した。

近年ではこの事件に対する報道は日中両国で皆無であり、歴史の闇に埋もれようとしている。中国政府公式対外宣伝刊行物の『南京大虐殺写真集』の目次では『盧溝橋にて「北支事変」勃発、日本は華北を侵略する。日本軍は第二次上海事変を起こし、上海へ出兵する。』と述べており、この事件については一切触れられていない。小林よしのり戦争論では細かく扱われているが、謝罪と賠償が終了していることと、冀東政府が行ったということは触れられておらず、何故か作品中では「中国軍が行った蛮行」と国民党軍や八路軍が行ったともとれるような曖昧な記述がなされている。

戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、弁護団は通州事件について、外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ裁判長によって却下された。

生存者の証言・記述

  • 九死に一生を得た日本人女性の発言「日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います。」[9]
  • 吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された者が、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという。[10]外部リンク[11]には家族の実名が出ている。

参考文献

  • 中村粲 『大東亜戦争への道』 ISBN 4-88656-062-8
  • 江口圭一 「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」、『季刊戦争責任研究』第25号、1999年9月 ISSN 13437348
  • 広中一成 「通州事件の住民問題」、軍事史学会編『日中戦争再論』、2008年 ISBN 978-4-7646-0322-6

脚注

  1. ^ 渡部昇一 『日本とシナ:1500年の真実』 PHP研究所、2006年、210-211頁。ISBN 4569648576
  2. ^ 森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』など
  3. ^ a b 寺平忠輔『盧溝橋事件』など
  4. ^ 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』
  5. ^ 岡野篤夫『通州事件の真相』正論1990年5月号
  6. ^ 今井武夫『支那事変の回想』・『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』
  7. ^ 2007年6月25日 網易NetEase1937年通州事变:一场起义伪军对日军民的杀戮張慶餘(1895---1963)1933年任冀東特種警察隊第一總隊隊長。1935年11月改任偽冀東保安隊第一総隊隊長,1937年7月率部起義,転保定、洛陽、西安,於1938年隱居四川金堂県什坊鎮。後被委任為国民党軍委会中将参議
  8. ^ 『東京裁判(上)』朝日文庫
  9. ^ 『各社特派員決死の筆陣「支那事変戦史」』新聞タイムズ編(皇徳泰賛会)昭和12年12月18日発刊
  10. ^ ハンゼン氏病よさようなら(1963) 新道せつ子 主婦の友社 東京
  11. ^ 惨たるかな通州事件

関連項目

外部リンク