野間恒
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野間 恒(のま ひさし、1909年4月24日 - 1938年11月7日)は、日本の剣道家で、講談社第2代社長。「昭和の大剣士」と称された。
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生涯
講談社の創始者である野間清治の長男として東京市神田区台所町にて生まれる。尋常小学校卒業後は上級学校へ進学せず、父・清治から直々に独自の教育を受けて育った。講談社の跡取りとして将来を嘱望されていたが、直腸癌により29歳で逝去した。父の死を受けて社長に就任してから22日後のことである。恒の死後、社長には母の左衛が就く。また、妻の登喜子は野間家に留まり、後に高木三吉(左衛の姪の夫、のち講談社取締役)の弟である高木省一(講談社第4代社長)と再婚し、野間家の系譜をつないだ。
剣道家として
努力家で毎朝夕1時間稽古し、休日は千葉、伊香保、伊藤の道場で5、6時間稽古に費やした。また、時間が空くと、高野佐三郎の修道学院に通った。
幕末の剣豪で、戊辰戦争で戦死した森要蔵の門弟野間好雄を祖父に、森要蔵の娘を祖母にもつ。この関係から幼少より剣の道を叩き込まれた。
剣道こそ人格確立と修養の最善の道とした父の言葉にも従っている。1933年(昭和8年)には陸軍武道大会に優勝し、翌年の天覧試合では、同じく要蔵の孫で従弟の森寅雄、藤本薫らと競った。
1938年(昭和13年)、剣道教士になっている。
年表
- 1909年 - 誕生。
- 1922年 - 千駄木尋常小学校卒業。
- 1935年 - 講談社に出社し始める。
- 1938年 - 2月、子爵町尻量基の長女の町尻登喜子と結婚するも、以後病で衰弱し、11月7日永眠。護国寺にて、父の墓の隣に葬られる。
著書
- 『剣道読本』大日本雄弁会講談社、1939年
- 『風詩余禄』大日本雄弁会講談社、1939年
参考文献
- 講談社八十年史編集委員会編『講談社の80年: 1909 1989』講談社、1990年
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