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金田正一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

金田 正一
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 愛知県中島郡平和村(現:稲沢市
生年月日 1933年8月1日(78歳)
身長
体重
184cm
73kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1950年
初出場 1950年8月23日
最終出場 1969年10月18日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督歴
野球殿堂(日本)
選出年 1988年
選出方法 競技者表彰

金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - )は、愛知県中島郡平和村(現:稲沢市)出身の元プロ野球選手投手)・監督野球解説者評論家実業家。血液型はB型。

現役時代は日本プロ野球最多となる通算400勝を記録し、引退後はロッテオリオンズの監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。

目次

概説

愛称は「カネヤン」、あるいは「カネさん」。少年時代のあだ名は、その長身から「電柱」、「割り箸」など。

現役時代は国鉄スワローズ読売ジャイアンツで活躍し、日本球界唯一の400勝投手となった。引退後はロッテオリオンズの監督を務めた。現在は野球評論家、千葉ロッテマリーンズ取締役。2009年12月3日まで日本プロ野球名球会(株式会社日本プロ野球名球会)会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。また、2009年11月までは、経営する自身の個人事務所株式会社カネダ企画内に名球会事務局が置かれていた。

実弟は元プロ野球選手の金田高義金田星雄金田留広。息子は俳優金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。

経歴

1933年在日韓国人の子金慶弘(キム・ギョンホン、김경홍)として愛知県に生まれる(1959年、日本に帰化)。名古屋市立大曽根中学校在学中に野球を始め、機械いじりが好きだったことから名古屋電気学校に入学したが[1]、1年の途中で野球の強豪校・享栄商業学校に転校した。ここで出会ったのが、野球部長で監督の芝茂夫である[1]。金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している。コントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となり、1950年3月、2年生の時点で国鉄スワローズ監督西垣徳雄にスカウトされる。享栄商業高等学校のエースとして甲子園を目指したが、1950年夏の予選で敗退するとすぐに高校を中退、シーズン途中に国鉄スワローズに入団した。

現役時代

初登板は8月23日に松山で行われた対広島戦、押し出し四球でサヨナラ負けを喫した。国鉄は17歳の金田を即戦力として積極的に起用し、8月デビューながら8勝を挙げた。野球界が特待生制度の是非で揺れた時期に、自身がかつて各プロスポーツ関係者から特に手厚い待遇を受けていた「特待生の中の特待生」だったことを明かしている。金田の弁によれば、この制度によって様々な経済的援助を受けたことにより、「中学・高校を通して学費を払ったことが一切ない」という程だった。また、金田本人はプロ入り後の収入でそれらの金を返済するつもりだったが、現役時どころか現在に至るまで返済を求める者が現れず、半ばなかったことになってしまったという。

1951年9月5日の対阪神戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成。18歳35日での達成は史上最年少記録。同年は22勝を挙げ、以後14年連続20勝を記録。

1957年8月21日の対中日戦(中日球場)で完全試合を達成。登板の前日に下痢を発症して体調を崩した中での記録達成であった。しかも、達成直前の9回一死でハーフスイングの判定を巡って中日が猛抗議し、43分間の中断があったが、金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共に全て空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。再開時にベンチを出る際、金田はチームメイトに「あと6球で終わりや、帰り支度しといてや」と豪語したという。

1958年4月5日の開幕戦(対巨人後楽園球場)では大物ルーキー長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、長嶋がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」との報道に金田が激怒したという。しかし、結果4連続三振を奪ったものの、試合後、金田は顔をこわばらせ「あの小僧、モノになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と述べている。なお、次の対戦でも最初の打席で三振を奪い、長嶋のデビューから対戦5打席連続で三振に仕留めたことになる。長嶋対金田の対戦は1964年までの7年間で打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打った打者となっている。翌年は王貞治が入団し、開幕戦(1959年4月11日)で当たるがこちらも2打数2三振を奪っている。

1958年6月5日、通算200勝を達成。24歳での達成は史上最年少記録である。更に6月12日には、開幕よりわずか70日の51試合目でシーズン20勝目を挙げた。いずれも史上最速。この時点での成績は9完封を含む20勝2敗(他に13イニング2失点の完投引き分け1)、防御率0.57という圧倒的なもので、連続無失点の日本記録(64回1/3)もこの間に記録している。

1962年9月5日、MLBウォルター・ジョンソンの記録を破る通算3509奪三振を達成。

1963年6月30日、通算311勝を記録。別所毅彦を抜き、プロ野球歴代1位となった。

1964年までに14年連続20勝、通算353勝を挙げた。対巨人戦通算65勝は歴代1位。ただし、国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に対巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている(国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝)。また対巨人戦では通算72敗を喫し、負け越している。

1965年B級14年選手制度を行使して巨人に移籍。金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1962年産経新聞社フジテレビが球団経営に参加した時に遡る。この時の産経・フジのやり方に反発し、国鉄が経営から離れる1965年の移籍につながったと言われている(国鉄は同年5月10日付で産経・フジに球団を売却)。

金田の巨人入団には、巨人ナインも金田に見習ってほしいという監督・川上哲治の思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績はわずか47勝しかないが、選手の意識改革を促しチームの9連覇に貢献した。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、あえて日本シリーズ第1戦先発に何度も送り出した(公式戦の開幕投手も5年間で4回任されている)。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を活かしたい川上の思いに、金田も見事に応えて好投した。そんな金田も、ある試合で本塁打を打った長嶋の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えたところ、チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられた。国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。

1969年10月10日、対中日戦で球界初の通算400勝を達成。同年限りで現役を引退した。また、巨人での背番号34永久欠番に指定された。金田は当初は引退するつもりがなかったが、石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」と諭された。金田は「わしはまだできる」と抵抗したが、石原の「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一だからだ」というセリフに最終的には引退を受け入れたという。このエピソードが『文藝春秋』に石原本人の執筆で掲載されたことがある。またCS日本「巨人の魂」での金田の証言によると、川上が試合前のミーティングで金田に400勝をさせて辞めてもらおうと言ったとのこと。金田がそれに気づいたのは400勝達成の胴上げの際、長嶋が泣きながら「御苦労様でした」と言ってきたことだったという。

引退会見では長年の酷使で左腕が伸びきらないことを披露。この場面は野球漫画「巨人の星」にも描かれた。ただし、引退後に左腕は再びまっすぐ伸びるようになっている[2]

引退後

引退後は日本テレビ及びニッポン放送の解説者(1979年頃、フジテレビプロ野球ニュースの解説者としても出演)を務めた。

1973年から1978年1990年から1991年にはロッテオリオンズの監督を務めた[3]1974年にリーグ優勝・日本一を果たしている。選手として国鉄時代の完全試合達成、巨人時代の400勝達成、監督としてはロッテ初の日本一と所属球団でそれぞれ偉業を達成したが、これらは奇しくも全て対中日戦である。

ロッテ監督時代の1978年に日本プロ野球名球会を設立し、2009年12月まで会長・代表幹事を務めていた。1988年野球殿堂入り。

2008年4月11日から13日までの巨人対ヤクルト戦は「川上哲治/金田正一シリーズ」(永久欠番シリーズ)として開催された。この日付は1965年4月10日、「巨人の金田」としての初勝利を挙げていることにちなんでいる。

現在でも、金田の球歴を知る選手・OB・関係者にとっては畏れ多い存在である。2008年に金本知憲の2千本安打達成記念の名球会ブレザーを進呈するために阪神甲子園球場を訪問したが、阪神側のベンチに座った際も選手は近寄れない様子だった。一方、2006年2月に巨人のキャンプを訪問した際には内海哲也が「カネムラ」と呼び間違えた上、(勝利数を問われて)「300何勝でしたっけ?」といった発言をしたことに、同行した広岡達朗が激怒したことがあった[4]

プレースタイルなど

投球

20年近くの現役生活で多くの記録を残したが、球種は速球とカーブがほとんどであった。その速球の威力は凄まじく、高校時代には金田の投球を捕球出来る捕手がおらず、苦肉の策として投球練習する際には捕手をマウンドの上に座らせ自身がホームベース上に立って投球練習を行ったという。金田がデビューした年、長野における阪神戦で、阪神の主軸打者であった金田正泰が「あいつのボールは速過ぎる。あと、投手と捕手との間隔が短過ぎる」とクレームをつけたためゲームは中断、金田正泰と審判とがメジャーで計ったところ、間隔は規定通りであった。金田本人や当時の選手たちによると「若い頃は間違いなく150km/h台の後半か160km/h台を出していただろう」という。

金田は自身の現役最末期、当時解説者をしていた青田昇の元を訪ね「青さん、ワシと沢村栄治さんと球どっちが速かった?」と尋ねたことがある。青田は「アホ! 沢村さんに決まっとるやないか! お前と比べれるかい!」と一喝したが(金田はその答えに憮然としながら去ったという)、後に「キツイこと言って悪いことしたな。沢村さんのことは大切にしなきゃいかんが、本当はカネやんのほうがすごかったかもしれんなあ」と述懐している。実際、青田は沢村の全盛期の球威は知らず、「戦前のスタルヒン、戦後の金田」と評している。

剛速球と共にカーブを讃える者も多い。有本義明は戦後最高のカーブの使い手として堀内恒夫江川卓と並んで金田を挙げている。佐々木信也は「カネやんのカーブは、真上に投げているのかと思ったら急激に曲がってストライクになった。あんなカーブは他に見たことがない」と、野村克也は「バッターの直前まで頭の高さで球が来て、ボールになるかと思ったらストライクになった。同じ高さでストレートも投げるから簡単には打てなかった。(金田と対戦するとき)バットはグリップエンドから二握り分くらい短く持った」と語っている。金田のカーブは軌道の違いによって5種類あったといわれるが、特に「2階から落ちる」と言われた縦のカーブが武器だった(「モノになるのに10年かかった」という)。しかし、そのカーブは左肘に対する負担が大きく、金田は毎年のように肘の痛みに苦しめられた。入団5年目辺りから引退までずっと肘が悪く、梅雨時や秋口は特に痛かったと本人が証言している。序盤快調だったシーズンでも梅雨時や秋口に1か月くらい勝てないことがよくあった。巨人に移籍後は金田自身の力も落ち、バックの守りが安定していたこともあり、フォークや小さな速いカーブ(スラーブやカットボール気味のボール)、稀にシュートや超スローボールなども投げ、ピンチを技で切り抜けることも多くなった。

記録

記録から見た大きな特徴としては奪三振の多さが挙げられる。1957年、プロ入り8年目にして通算2000奪三振を達成したが、これは金田が第1号である(金田以前にもヴィクトル・スタルヒン、若林忠志野口二郎中尾碩志藤本英雄、別所毅彦、杉下茂などの本格派の大投手はいたが、彼らはいずれも2000奪三振は達成していない)。これは、所属していたスワローズの守備力が弱く、「せっかく凡打に討ち取ってもエラーされては何にもならない」という思いから三振を奪うことに注力した結果であるという。通算400勝と並んで通算4490奪三振も歴代1位であり、来歴の項にある通り当時はMLBの記録をも凌駕していた(後にノーラン・ライアンが更新)。

金田が入団した当時の国鉄は弱く、金田は国鉄時代にリーグ最多敗戦を3度、20敗以上6度、入団以来15年連続(国鉄に在籍した全てのシーズン)で2桁敗戦、通算267敗を記録している。しかし、その弱い国鉄にいながら敗戦数を大きく上回る353勝を挙げている。これはこの間のチーム全体の勝星(833勝)の42%に相当する。また、この間の国鉄の順位は最高で3位が1回あるだけでそれ以外は全て4位以下だったが、最下位は3回にとどまっている。

金田の残した通算400勝の金字塔は、今日の投手にとってはほとんど不可能な数字であり、「今とは時代が違う」ため同様に比較できないといった指摘もある。水道橋博士と雑誌で対談した際にそのことを指摘された金田は「この小童(こわっぱ)が!」と激高した。確かに、先発ローテーション確立前における、先発連投や先発救援兼任も当たり前だった、投手酷使時代の産物ではあるが、そんな中にあって、致命的な故障をせずに長期間勝ち続けた点に金田の真骨頂がある[5]。この時代の投手でも200勝を達成した人間は数える程しかおらず[6]、通算勝利数2位の米田哲也に50勝もの差をつけていることなどから、当時としても圧倒的だった。また、その勝利の約90%にあたる353勝を弱小球団であった国鉄時代に挙げている。当時国鉄と並ぶ弱小球団だった広島との対戦で通算90勝を挙げており、一人の投手が特定の1球団から挙げた勝ち星としては、自身の対大洋戦77勝、米田哲也の対ロッテ戦76勝を抑えてダントツの1位である。広島に対しては通算30敗しかしておらず60の貯金があり、これも山田久志(阪急)が南海を相手に貯めた45(73勝28敗)を抑えて1位である。

現役晩年、400勝と並んで金田が記録更新を目指したのがスタルヒンが持つ通算完封記録。金田の現役当時、スタルヒンの公式な完封数は84とされていた。結局、金田は82完封で引退することになったが、金田の現役引退から数年後に集計ミスが発覚し、スタルヒンの通算完封数は83に訂正されている。仮に前記の集計ミスが金田の現役中に発見されて訂正されていたら、あとひとつまで迫っていただけに記録更新の可能性もあったとする意見がある[7]。なお、勝星を稼ぐために中継ぎ転向を勧められたこともあったが、金田はこの通算完封数の記録更新のために先発にこだわり続けたという。82完封のうち1/4以上を占める23試合で1-0のスコアで勝っており、これは通算1位である(なお、既述のノーヒットノーラン、完全試合ともいずれも1-0である)。また0-1の完投敗戦21も史上1位である。なお1-0での完封勝利の全て、0-1の完投敗戦も20までが国鉄時代に記録したものである。

通算400勝中132勝(国鉄時代は353勝中114勝)がリリーフ勝利だったが、この時代のエース級投手はシーズン中、先発・リリーフの区別なく酷使されることも珍しくなく、稲尾和久は通算276勝中108勝、秋山登は193勝中89勝、杉浦忠は187勝中75勝がリリーフ勝利である。リリーフ登板の多さゆえサヨナラ本塁打を打たれることも多く、通算12本の被弾は歴代1位(2位は稲尾和久の10本)。国鉄時代に対戦相手となったセ・リーグ全5球団の試合で打たれていて、最初の1本は苦手にしていた阪神の吉田義男、最後となる12本目は巨人の長嶋茂雄だった(12本は全て国鉄時代に記録されたものである)。

入団翌年の26年から国鉄在籍最終シーズンの39年まで連続シーズン20勝以上14のプロ野球記録を持っているが、意外にも最多勝タイトルを獲得したのは僅かに32年、33年、38年の3回だけである。

1952年8月9日の対巨人戦で、延長13回裏無死一・三塁から敬遠として投げた1球目が大きくそれてサヨナラ負けを喫したことがある。「敬遠球を暴投してのサヨナラ負け」は、30年後の1982年に阪神の小林繁が記録するまでプロ野球史上唯一の記録であった。入団当初は制球力に難があり、1950年11月4日の対巨人戦で1試合10四球、1952年には与四球197(いずれもセ・リーグ記録)という記録も作っている。先述のノーヒットノーランの試合でも7四球を出し投球数も162に上っている。無四球試合も最初の3年間は1度も記録できなかった。ただし、経験を積むにつれて制球難も徐々に解消され、後年は逆にコントロールの巧みさに活路を見出すこととなった。

打撃

金田は打撃も優れていた。投手として登板しての36本塁打は史上1位。他に代打に起用されて2本の本塁打を記録しており、通算本塁打は38本、入団11年連続で本塁打を記録している。入団年(1950年)に緒方俊明西日本)から、プロ入り初本塁打を記録。17歳2ヶ月での達成は、未だにプロ野球最年少記録である[8]。また、投手でありながら7度敬遠されている。打者としての金田が一番凄いと思った投手は権藤正利で「彼のカーブは凄かった」と語っている。

通算登板数は944試合であるが、代打での出場なども全て合わせると通算1053試合に出場している。投手として登録された選手(現役中に本格的に投手から野手に転向した選手以外)で通算1000試合以上に出場したのは、2リーグ制移行後のプロ野球では金田しかいない[9]

存在感

国鉄時代はその豪快な人柄と圧倒的な実力のため、監督以上に力のある選手だった。先発して大量点を取られたり、審判の判定に不服だと自分から勝手にマウンドを降りてしまうこともあった。別所毅彦は現役時代の金田について「監督を監督していたのはあいつぐらいのものだ」と語っていた。守備でも味方がエラーをするとグラブを叩きつけて罵倒したという。当時捕手の根来広光は後に「金田は機嫌を乱すと本当に荒れた、しかし彼ががんばらなければチームはどうしようもないので機嫌を直すのにとても苦労した」とインタビューで述べている。球場についても文句を言い、狭いことで有名な東京球場での対巨人戦に先発して本塁打を連発された際は「こんな狭い球場で投げれるか!」と叫んだことがある(のちにロッテ監督に就任した際も「あんな狭い球場いらんわい」と発言し、これが東京球場閉鎖につながっている)。

金田のトレーニング、コンディショニング理論

まだスポーツ医学などが発達していなかった当時、自身の経験と知識を元に体作りに関する独自の思想をまとめ上げていたことは有名であり[10]、金田本人にとっても、その後のスポーツ医学の先駆者になっていることは誇りであるという。

コンディション管理

金田はコンディション、特に左腕の状態を維持するために普段の生活から極めて細やかな神経を配っていた。以下はその例である。

  • 就寝時には利き腕の肘を守るためにサポーターを着けて、冷えたりしないよう万全のケアをしてから寝床に入った。
  • 現役時代、乱闘時にはいかに興奮していてもタオルで左手をグルグル巻きにしてから飛び出したり、酒を飲んでいて興奮して机を叩いていても、いつも左手にはおしぼりが巻かれていたという逸話がある程、左腕を大事にしていた。
  • 息子の賢一が「笑っていいとも!」出演時、「父は絶対に左手で子供を抱かなかった」と明かしている。
  • 「一人前の野球選手が自分で車なんか運転したらいかん」と、自らは運転せず運転手付きの車で球場まで通っていた。運転することで神経を消耗するとプレーに影響するというのがその真意。また、車に乗る時は窓を開けた時に吹き込む風で左肩や腕を冷やさないように左側には絶対に座らなかった。
  • ヒゲを剃るときも、指先を切る恐れのある剃刀は使わず、電気シェーバーを使用。また外出時にも、つま先を剥き出しにするサンダルは絶対に履かないなど、普段の生活からケガの防止には人一倍気を遣っていた。
  • マッサージを受ける時は、一部分のみのマッサージはせずに必ず全身をマッサージするように心がけ、また鍼、灸の類は一切しなかったという。
  • シーズンオフの休養の重要性を現在も説いている。金田自身、オフは完全に休養に充ててコンディションを整えている。1958年のオフに父親の死去であまり休養が取れなかった時は、それが祟って以後3年間ベストコンディションに戻らなかったという。この3年間も毎年20勝していたが、1960年と1961年はちょうど20勝で止まった。1960年は残り4試合でようやく20勝目を挙げ、1961年には途中11連敗を喫して2か月以上勝星から遠ざかるなど苦しいシーズンを送った。

トレーニング

下半身強化を重視し(「下半身で野球をやっている人はピンチを招いても力まない。下半身の弱い人はピンチになるとだめになる」とコメントしている)、選手時代はまずランニングを最重要課題としていた。そのトレーニングは極めてハードなもので、オールスターゲームの時に、練習の虫と言われていた阪神の村山実が金田のトレーニングに付き合おうとしたが、あまりのハードな内容に音を上げたという逸話がある。ロッテ監督時代もランニング重視のメニューを選手に課しており、金田の練習と言えば「走れ走れ」と言うイメージが定着している[11]。当時のロッテ投手陣のリーダーであった八木沢荘六が、あまりのハードさにランニングの中止を申し入れると「そう言いにくるのは真剣に走った証拠だ」と褒めちぎったという。ロッテ監督時代の教え子である村田兆治によると「実績のあるピッチャーは投球練習をしなくてもいいから、とにかく走れ」と指導していたという。ロッテに1年間在籍した野村克也もこのことに触れており、「走るだけでピッチングがうまくなるのか?」と疑問に感じた程、金田が投手に課したトレーニングはランニング一辺倒だった。しかし、村田はランニング中心のトレーニングの結果「夏場になっても疲れが溜まらない。まるで高校時代に戻ったみたいに体が軽かった」と語っている。その村田に対して金田は「村田は他の投手よりもよう走った」とお墨付きを与えている。後年、当時ランニングを重視していなかった松坂大輔に対しても「走らないと投球時のバランスを崩すから成績を悪くする」と出演したテレビ番組で指摘。金田の言う通りに松坂の成績が悪くなったため、改めて松坂がランニングなど下半身強化中心のトレーニングに切り替えたというエピソードがある。ただし、走らせることにこだわっていたわけではなく、走ることが逆に選手にマイナスになるような場合には絶対に走らせないなど、状況に合わせた指導は怠っていなかった。江本孟紀によると、「体ができないうちは走りこみをやっても体がつぶれるだけ。体に見合った走りこみをするべき」として、単なる走れ走れ練習を金田は厳しく批判していたという。

効率的なストレッチ運動を行うため、試行錯誤の末「カネヤンダンス」と称される柔軟体操を始め、更にお手製の健康器具を発明・発売していた。

食事

体作りへのこだわりは食にも現れた。「いいものを食べなきゃダメ」が口癖で、キャンプには自ら食材を持ち込んでいた。金田本人の話では、当時のサラリーマンの月給分に相当する額を全て市場での買い物に使い、それをたった3日で食べてしまったという。サムゲタンすき焼きなどの肉・野菜をふんだんに盛り込んだ鍋を毎日作り、チームメイトにも振舞っていた。このサムゲタンは母親仕込みの本格派で、国鉄に移籍してきた豊田泰光はその味に感動し、頼み込んでレシピを教わった。巨人移籍後は、当時まだ若手の土井正三高田繁らが、金田の母親からキムチチゲを始めとする韓国料理の作り方を教わり、体力作りに役立てていた。ロッテ監督時代も特にキャンプでの食事には質量共にこだわり(質の良い肉を選手に食べさせるように球団と自ら交渉したこともある)、1回の夕食を全て食べ終わるのに2時間はかかったと言われる。また、豊田が伴淳三郎から紹介されたという、当時珍しかったミネラルウォーターを金田に勧めて以来、水道の水を飲まずに、高価なミネラルウォーターを飲んでいた。

ロッテ監督時代には、オープン戦で顔面に打球を受けて負傷した木樽正明を自宅に連れて行き、顔面が腫れて満足に食事もできない木樽に無理やり特製スープを飲ませるなどの独自療法を施し、わずか1か月足らずで復帰させた(しかもその月は実働半月で3勝を挙げている)。

独自の調整理論を持っており、必要とする能力から逆算してトレーニングや食生活までを組み立てていた。2003年11月6日放送のNANDA!?テレビ朝日系列)において本人が語った所によると、「肺活量向上のために走るトレーニングを主に行う日は、朝からオートミールなどの消化の良い食べ物を食べる。その日のトレーニング内容によって食事や生活を変えるのは当然だ」とのことだった。共演していたヤクルトの古田敦也も「そんなことはここ10年位でようやく詳しくなってきたことだ。50年前にそこまで考えていたのは凄い」と感心していた。

対戦相手に関する逸話

1955年日米野球で来日したニューヨーク・ヤンキースとの対決で金田が登板した際に、当時主砲であったミッキー・マントルを3打席全て三振に斬って取っている。1962年に、金田がヤンキー・スタジアムで行われたワールドシリーズ観戦に出かけた時に、マントルから握手を求められたことがある。

阪神の本屋敷錦吾に2打席連続本塁打を打たれたことがある。金田はこの試合前の打撃練習で本屋敷の打撃を見た時に、「箱庭ででもやっとれ」というくらい、本屋敷の放つ打球には力がなかった。その打者にいきなり本塁打を打たれ、頭に血が上った金田は続く打席に同じような球を投げ、同じように本塁打を打たれた(本屋敷の通算本塁打はわずか13本しかなく、2打席連続はこの1回だけ)。金田はこのことで「ええ勉強になった。どんな相手にも油断したらいかん」と述べている。

唯一苦手としたのが、球界でも一・二を争う小兵の吉田義男であった(現役通算で打率.267、66本塁打の吉田だが、金田に対しては1953年 - 1969年までで通算打率.310、8本塁打。1960年 - 1965年の6年間は金田との対戦では1回も三振しなかった)。吉田にはよく打たれており、巨人阪神OB戦でも吉田に左翼ラッキーゾーンに本塁打を打たれ、金田は苦笑した。

監督時代

1973年、ロッテ監督に就任した金田は親友の稲尾和久(当時太平洋監督)と相談し、パ・リーグ人気回復策として、ロッテ対太平洋戦を盛り上げようと、互いに悪口の応酬をして「遺恨試合」を演出した[12]。目論見は当り、ライオンズの本拠地平和台球場に観客が詰めかけマスコミも注目、金田とファンが衝突し暴動まで起った。だが、警察沙汰となりせっかくのアイデアも世間の非難を浴びてしまった(ライオンズとオリオンズの遺恨も参照)。

当時人気が低迷していたパ・リーグに話題を提供しようと率先してマスコミに露出し、親会社のテレビCMにも出演している。その豪放磊落な人柄で人気を得たが、激しい気性から様々なトラブルも起こしており、先陣を切って乱闘に参加することも珍しくなかった。こんな時でも手は絶対使わず主に足で相手を蹴飛ばしていた。第二期監督時代の1991年5月19日には、秋田市営八橋球場での対近鉄戦で園川一美の内角攻めに激昂して暴れるジム・トレーバーの顔面にスパイクで蹴りを入れており、この時の映像は何度もフジテレビ系『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』でお茶の間に流された[13]。また乱闘では、足蹴りのほか右腕で殴ったり、バットを持って威嚇したりした。自らの野球人生に汚点を残すこととなった1990年6月23日の西武戦(西武球場)でのパ・リーグ審判員の高木敏昭に対する審判暴行事件も足蹴りである[14]。この暴行により通算7度目の退場処分を受け藤本定義に並び最多退場となる。パ・リーグから罰金100万円と出場停止30日という重い処分を課された。出場停止中には川崎球場のスコアボードの裏からベンチにサインを送っていて窒息しそうになったという。1991年5月10日の日本ハム戦(東京ドーム)で球審(山崎夏生)の判定に対して暴言を吐いたとして通算8回目(国鉄1回、巨人1回、ロッテ監督6回)の退場処分を受ける。2005年5月29日にタフィ・ローズが更新するまで最多記録だった。

気性の激しいイメージが強い一方、実は非常に気が優しく、よく人を気遣っていたという。審判に対しても小声で「すまんがこれから怒鳴るから、悪いがしばらく黙って聞いててくれ」と前置きしてから大声で怒鳴ることも多かったという。金田の第二期目の監督時代、ロッテの主力選手だった愛甲猛によると、監督が金田になるということで猛練習を予期していたが、実際に金田になってみると雨の日は練習を休みにするなど、選手の休養を考えてくれる面があって意外に思ったという。また美味しい食べ物が金田の実家から届いたりすると、それを選手の食事の場で振舞ってくれたりする優しい気遣いの面もあったと愛甲は記している。

投手分業制が確立された現在でも「先発完投こそが王道」が持論であるが、第二期監督時代には多数の投手をつぎ込むことが多かった。伊良部秀輝小宮山悟前田幸長が台頭したが(伊良部は1990年に8勝した後低迷し、本格的に主力投手になるのは1993年)、牛島和彦は故障の上に金田との確執が噂された他、小池秀郎に入団拒否されるなど投手力向上を果たせなかった。

ロッテ監督時代にドラフトで交渉権を得たある投手にロッテ入りを断固拒否され、説得のために裏金を用意したという過去を、退任後に『週刊ポスト』誌上の対談コラム内で明らかにした。それによると、その際金田は娘が運転する自動車のトランクに隠れるという力技でまんまと報道陣の包囲を突破した。しかし間もなくトランクの中が酸欠状態になり窒息寸前に陥り、更に裏金を渡そうとした野球部監督には「選手は金だけでは育たない」と逆に説教され、裏金は渡せずに追い返されてしまった。

球界に対するスタンス

引退後は巨人OBであることを公言しており、解説者を務めていた頃は巨人寄りの発言が多かった。2007年6月11日、巨人V9時代のメンバーとして始球式に参加している。その一方で、国鉄OBであることも公言している。国鉄分割民営化の際に新聞に寄せたコメントの中では、労使が一体となって応援していたことを懐かしんでいた。2001年に開かれた長谷川良平の野球殿堂入りを記念する祝賀会では「俺のふるさと国鉄スワローズはもうない。今でもカープファンの中にいられる長谷川がうらやましい」と、国鉄スワローズに対する思いを吐露していた。また、OBのオールスターゲームに参加した際は、巨人のユニフォームと国鉄のユニフォームの両方を着用したが、長嶋茂雄が参加した場合は国鉄のユニフォームを着ることが多かった。反面、「国鉄スワローズというチームはもうなくなったから」との理由から、国鉄の後身であるヤクルトと関わりを持つことは少なかった。

2000年代に入り、田口周箱田淳丸山完二と共に2001年の国鉄・サンケイ・ヤクルトのOB会組織統一に尽力。2009年1月16日にはOB会総会で挨拶をし、同年5月24日には始球式に出席している。

一方で、自ら監督を務めたロッテについても愛着があり、日本テレビの解説者時代の1989年に行われたオープン戦ではロッテ寄りの解説を行い、興奮して放送席からロッテ選手に対して指示を出していた(ロッテの選手達には伝わっていない)。また、後年千葉ロッテマリーンズがOBデーを開催した時は、有藤道世らと共にOBの一人としてマリーンズのユニフォームを着て出場している。

球界の活性化のためには「巨人はパ・リーグに行くべき」だと主張している。 前述のような出自であるのにも関わらず外国人選手を敵視し現役時代には「日本の野球は日本人のみですべきだ。」 と主張していた。

北京オリンピック野球日本代表の監督を務め、4位に終わった星野仙一について「それだけの力がない。名前が先行しているだけで、大監督なんかじゃないんだよ」「采配見ててもあれしか出来なかっただけの能力の問題。コマーシャルに出演したり、『わしやったら上原を1週間で治してみせる』などと言っていたが、これは完全な驕り。言っちゃいけない言葉を言ったら、神様は勝たせてくれない」と星野を批判した。WBCの監督に関しては若松勉を推薦(理由は人間的にアクがないとのこと)しており、「監督という仕事は何となく愛される男性がした方がいい。ものすごく険がある人間はやらないことだね。(険がある人物とは、との問いに)特に金田、星野はやらない方がいい。典型的にやっちゃいけないのがここにおるがね」と述べている。ちなみに、巨人で400勝達成した時の負け投手は星野であった。

家族

私生活では結婚を二度・離婚一度を経験。初妻榎本美佐江とは1955年3月から同棲生活に入り、榎本の芸能活動引退、金田の帰化・日本国籍取得を経て1960年に正式に結婚。しかし榎本の存在がありながら宝塚歌劇団卒業生・雅章子との関係が生じたうえ金田と雅の間に1961年賢一が生まれる(金田-榎本の間に子はない)事態が発生。1963年8月、榎本と正式離婚を経て賢一を伴った雅と再婚。なお金田-雅の間には賢一の他に女児二人があることを公表している。うち金田幸子は1980年代の一時期タレントとして活動、資生堂の洗顔料「エクボ」のCM(父娘または兄妹共演もした)に出演していた。

影響

横山光輝の漫画「鉄人28号」の主人公である金田正太郎の名は、金田が由来とされる。

・野球漫画・アニメ巨人の星では、主人公の星飛雄馬が最も尊敬する投手として幾度となく登場し、厳しさと優しさをもって星に接する存在感の大きな役柄になっている。たとえばアニメ「巨人の星」133話は金田の現役引退の話であるが、すでに巨人の主力投手になっていた星は金田引退の噂を耳にして驚愕し、金田の家に押しかけ、「金田さん、引退しないでください!」と懇願する場面がある。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1950 国鉄 3020910812----.400727164.213212127--11431393723.941.57
1951 564425402221----.5121488350.025722190--8233331591102.831.28
1952 644123702425----.4901527358.028017197--10269821491263.171.33
1953 473324612313----.6391233303.222210135--82291090802.371.18
1954 533928272323----.5001435345.229019114--6269211281012.631.17
1955 623734932920----.5921565400.027919101283502191791.780.95
1956 682924522520----.5561393367.12222081323165086711.740.82
1957 613525532816----.6361378353.02561793923061088641.630.99
1958 5631221163114----.6891252332.12161660433114063481.300.83
1959 582514412119----.5251187304.12222679533130096862.540.99
1960 573122422022----.4761253320.123827941612843197922.581.04
1961 573223612016----.5561292330.12572781922623088782.131.02
1962 483024112217----.5641342343.126525801082625078661.731.00
1963 533025943017----.6381308337.02342083412872083741.980.94
1964 443122422712----.6921221310.025036695323130100962.791.03
1965 巨人 2817935116----.647542141.2951236401001038291.840.92
1966 191210046----.40034184.172122533582036323.421.15
1967 3322611165----.762698170.01461357731323047432.281.19
1968 32194001110----.524585138.1122217130873057533.451.40
1969 181110054----.55631172.16583510483039344.231.38
通算:20年 9445693658239400298----.573220785526.241203791808857244905511170614342.341.07
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録

年度別監督成績

年度球団順位試合勝利敗戦引分勝率ゲーム差チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1973年ロッテ 2位130704911.5882位・2位139.2643.4340歳
1974年1位130695011.5802位・1位114.2653.1841歳
1975年4位13059656.4766位・2位108.2593.3342歳
1976年3位130635611.5293位・3位99.2582.9643歳
1977年3位130605713.5135位・1位111.2703.1744歳
1978年4位130536215.4615位・3位115.2694.0145歳
1990年5位13057712.44525.0132.2624.2257歳
1991年6位13048775.38433.589.2604.2358歳
通算:8年 101147146872.502Aクラス4回、Bクラス4回
※1 太字は日本一
※2 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は前期、後期順位の順に表示
※3 1973年から1996年までは130試合制
※4 通算成績は実際に金田が指揮を執った試合での成績

タイトル

  • 最多勝:3回 (1957年、1958年、1963年)
  • 最優秀防御率:3回 (1957年、1958年、1965年)
  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):10回 (1951年 - 1953年、1955年、1956年、1958年 - 1960年、1963年、1964年) ※セントラル・リーグでは、1991年より表彰

表彰

記録

プロ野球記録
  • 通算勝利:400勝
  • 通算奪三振:4490奪三振
  • 通算投球回数:5526回2/3
  • 通算完投:365回
  • 通算敗戦:298敗
  • シーズン20勝以上:14年連続14度(1951年 - 1964年、回数・連続回数ともにプロ野球記録)
  • 連続イニング無失点:64回1/3(1958年4月30日 - 1958年5月27日)
  • 最年少200勝達成:24歳309日
  • 公式戦開幕投手:14度(国鉄10度・巨人4度)
セ・リーグ記録
  • 通算登板試合:944試合
  • 通算完封:82回
  • 通算被安打:4120安打
  • 通算与四死球:1808個
  • 通算失点:1706点
  • 通算自責点:1434点
  • シーズン完投:34回(1955年)
  • シーズン与四球:197個(1952年)
  • 1試合奪三振:16個(1967年6月7日)
  • 1試合与四球:10個(1950年11月4日)
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:17回 (1951年 - 1964年、1967年 - 1969年)
  • ノーヒットノーラン:2回
    • 1951年9月5日、対大阪タイガース戦、大阪球場 ※史上最年少記録(18歳35日) 史上17人目
    • 完全試合:1回 1957年8月21日、対中日ドラゴンズ戦、中日スタヂアム ※史上4人目
  • 1000試合出場:1968年7月9日(131人目)
  • 通算退場回数:8回(2005年5月29日に当時巨人のタフィ・ローズに抜かれるまでは日本記録)

背番号

  • 34 (1950年 - 1969年、1973年 - 1978年、1990年 - 1991年)

関連情報

出演番組

CM

著書

脚注

  1. ^ a b 堤哲『国鉄スワローズ1950-1964 400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団』、交通新聞社、2010年、77頁
  2. ^ 2004年にNHK衛星第1テレビジョンで放映された「よみがえる熱球・第7集「二つの引退」」の中で金田自身が示している。
  3. ^ また、金田就任からチームが千葉ロッテになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインした。
  4. ^ 「広岡氏怒った! OB知らない若手に『Gの歴史』を緊急講義」サンケイスポーツ2006年2月14日
  5. ^ この時代に活躍した稲尾和久・権藤博・杉浦忠らには、金田の最高記録(年間31勝)を上回る勝利を挙げたシーズンもあるが、いずれも酷使により故障し、金田よりも短い実働年数で引退している。また本文中にあるように、金田自身も肘の痛みを抱えながら現役生活を続けた。
  6. ^ 1950年代にプロ入りした投手では、金田の他に米田哲也・小山正明・稲尾和久・梶本隆夫・村山実・皆川睦雄の6人。
  7. ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』(講談社、1993年)
  8. ^ スポニチ記事より 日めくりプロ野球 【10月6日】1950年(昭25) もう破られない?金田正一 プロ野球最年少本塁打
  9. ^ 1リーグ時代、野口二郎が野手としての出場も含めて1098試合出場している(投手としては517試合登板で237勝)。
  10. ^巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。  p.44~ 「キャンプでの独自の食事、大の男を背負って坂道を登り降りする足腰の強化法」
  11. ^ なお、ランニングなどによる下半身強化の重要性はメジャーリーグの大投手ノーラン・ライアンも自らの著書「ピッチャーズバイブル」で述べている。
  12. ^ 発端は太平洋球団の取締役だった青木一三が話題づくりとして金田に持ちかけたものだった(青木一三『ダイエー/オリックス球団買収の真相』ブックマン社、1989年)。
  13. ^ ただし、金田自身は「顔面を蹴るつもりなどまったくなく、あれは足を出したところに偶然顔が来てしまった」と言っている。
  14. ^ その後、高木は「こんな奴がいるところでジャッジができるか!」と激怒しシーズン途中で辞表を叩きつけ審判生活に終止符を打った。

関連項目

外部リンク