関東軍特種演習
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関東軍特種演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは、1941年(昭和16年)7月に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に、関東軍の兵力を増強したこと。独ソ戦に呼応した対ソ牽制行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。
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戦争準備行動
1941年6月22日に開戦した独ソ戦に対し関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張、ドイツ軍と協力して東西からソ連赤軍を挟撃しようとした。
しかし、大本営や閣僚、東条英機陸軍大臣をはじめとする軍部はアメリカによる経済制裁によって生じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由に南方進出を支持した。
だが近衛文麿総理大臣はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では満州工業地帯の防衛が困難であると判断、関東軍首脳部の主張を支持し、在朝日本軍や在台日本軍の動員令を発令した。本土からは14個歩兵師団を弾薬、戦闘車両約300輌、軍馬約400頭、戦闘資料等とともに輸送、戦時定員を充実させることに成功した。その結果、関東軍は74万以上の大兵力となった。
その後
兵力は充実させたが、南方進出方針の決定により、対ソ戦は行わず、満蒙国境警備のみを行うに留まった。その後、太平洋戦争の中期から島嶼防衛のために関東軍から兵力・資材の引き抜きを始めた。末期には本土決戦のために更に兵力・資材を引き抜き、満州在留邦人でその穴を埋めていった(根こそぎ動員)。
結果的に、関特演で集められた兵員・資材は本来とは異なる用法-陸軍の予備兵力としての役目を果たすことになった。
呼称について
独ソの開戦前から、関東軍は大規模な演習を予定しており、この演習は関東軍特別演習と呼ばれていた。対ソ連の開戦準備では、関東軍特種演習と呼ぶ。ちなみに関東軍特殊演習は誤りである。
影響
輸送が莫大な量にのぼったため、学徒などの道府県をまたいだ移動が事実上不可能になり、その結果、第27回全国中等学校優勝野球大会は、予選が一部地域ではじまっていたが、大会そのものが中止された。また、第15回都市対抗野球大会も、出場チームが決定していたが中止となった。




