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飛龍 (空母)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ファイル:Japanese aircraft carrier Hiryu.jpg
千葉県館山沖で公試運転中の飛龍
1939年4月28日)
艦歴
起工1936年7月8日
進水1937年11月15日
竣工1939年7月5日
喪失1942年6月6日
除籍1942年 9月25日
性能諸元
排水量基準:17,300トン 公試:20,165トン
全長227.35m(飛行甲板長 216.9m)
全幅22.32m
吃水7.74m
出力153,000hp
最大速力34.5ノット
航続距離7,670カイリ
乗員1,103名[1]
搭載機常用57機、補用16機
1941年12月常用機
零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機:18機
九七式艦上攻撃機:18機
兵装40口径12.7cm連装高角砲:6基12門
九六式二十五粍高角機銃:3連装7基
:連装5基 計31門

飛龍(ひりゅう)は、日本海軍航空母艦。開戦以降、日本海軍の主力空母の1隻として活躍したが、Template:Safesubst:、ミッドウェー海戦にて沈没した。同海戦で沈没した4空母のうち当初は被弾を免れ、山口多聞少将の指揮下、米空母「ヨークタウン」を撃破したことで知られる。

目次

概要

昭和9年度海軍軍備補充計画(通称・マル2計画)で建造された中型空母である。当初は「蒼龍」型の2番艦として計画・建造されていた。だが軍縮条約破棄により設計の自由度が増したため、飛行甲板幅を1m広げ艦幅を若干太くし[2]、さらに第四艦隊事件による船体構造溶接化の破棄[3]、凌波性向上のため艦首1m・艦尾40cm乾舷を高めるなど「蒼龍」とは違う図面で建造された空母となった[4]。文献によっては、蒼龍と同型艦にするか、独立させるかで意見が分かれる。「蒼龍」と同様、少なめに見積もった数値(基準排水量1万トン、全長209.84m、最大幅20.84m)を諸外国に通告している[5]。命名式にはトルコ士官学校生徒も立ち会った[6]

外見上最も目立つ点は左舷中央に島型艦橋を配置している点で、左舷中央付近に艦橋を配置しているのは世界の空母の中でも珍しく、日本では改装後の「赤城」とこの「飛龍」の2隻のみである。

この左舷中央への艦橋設置については、Template:Safesubst:に海軍航空本部長から艦政本部長あての『航空母艦艤装に関する件照会』で定められた「赤城の大改装および、飛龍以後の新造艦からはできるかぎり艦橋と煙突はそれぞれ両舷に分けて設置し、煙突は艦後方、艦橋は艦の中央付近に設置する」に従っている。煙突と反対側に艦橋を設置することによる利点として、船体が左右均等に近くなり造艦上有利となる、士官室からの艦橋への交通が有利となる、格納庫の形状が良好となる、といった点が挙げられていた[7] 。先に煙突の右舷配置が決定し、自動的に艦橋位置も左舷中央となった。従来の日本空母より艦橋が後方に設置されたので、視界確保などの理由で羅針艦橋は「蒼龍」のものよりも高くなっていた[8]

つまり、両艦の完成前はこの位置が艦の指揮・運用上、また造艦上最も理想的だと信じられており、実験的に配置されたわけではない。[要出典]実際に「赤城」と「飛龍」で左舷艦橋を設置したところ、煤煙が艦橋に流れ込む、気流が乱れて着艦しずらくなる等のデメリットが生じた[9]。そのため次級の翔鶴型航空母艦は、建造中に艦橋を右舷前方付近、煙突をその後方に移動するという設計変更を行い[10]、飛龍型に若干の設計変更を加えた雲龍型航空母艦でも、艦橋は右舷に移動している。

防御面では、機関室と舵取機室は駆逐艦の5インチ砲に、ガソリンタンクと弾薬庫は巡洋艦の8インチ砲に耐える装甲を施しているが、飛行甲板の防御は考慮されていない[11]。また、本艦を含め日本空母はダメージコントロール面でも損傷時の対策への装備や設備の甘さなどが目立ち、それがミッドウェーに於ける喪失に繋がってしまった。それ以外の点については概ね良好であり、弾火薬庫の冷却の余りを利用した艦内冷房も一部実施している[12]。以後、日本海軍は「飛龍・蒼龍」を日本空母の原型として設計、建造を行った。本級を拡大させた翔鶴型や、本艦の線図を流用した雲龍型航空母艦が有名である。もっとも防御の脆弱さについて、日本海軍は現状で良いと考えていたわけではない。実際に飛行甲板に装甲を施した大鳳型航空母艦改大鳳型航空母艦が建造、あるいは建造予定であった。

飛行甲板後端には、上空からの識別のために片仮名で「ヒ」の文字が記入されていた時期もある。エレベーターは3箇所あり、前方から16×12m、12×11.5m、10×11.8mである[12]。航空機のサイズの方が大きいため、零式艦上戦闘機九七式艦上攻撃機など、いずれも翼を折りたたみ、エレベーターに乗せられるような設計となっている。本艦の飛行機格納庫は二層にわかれており、このエレベーターで航空機を飛行甲板に運んだ[12]

艦歴

開戦前

ファイル:Japanese aircraft carrier Hiryu 1939 cropped.jpg
1939年7月5日、完成し、艦隊編入を待つ飛龍

Template:Safesubst:7月8日横須賀海軍工廠にて起工。Template:Safesubst:11月15日に進水し、Template:Safesubst:7月5日伏見宮博恭王臨席の元で竣工する[13]。同年11月15日、「飛龍」は「蒼龍」と共に戸田道太郎少将指揮の第二航空戦隊に配属された[14]

Template:Safesubst:4月、「飛龍」は第一航空戦隊と共に中国福建省を爆撃した[15]。9月17日、呉を出港し日本軍のフランス領インドシナに対する北部仏印進駐を支援した[16]。10月6日、日本に戻り11日の紀元二千六百年特別観艦式に参加する。11月15日、戸田少将にかわって山口多聞少将が第二航空戦隊司令官となる[17]。この時点での第二航空戦隊の旗艦は「蒼龍」だったが[18]、12月9日に変更となり、「飛龍」が旗艦となった[19]

Template:Safesubst:2月3日、ベトナムとタイとの国境紛争を調停すべく南方へ進出中、「蒼龍」が第二十三駆逐隊の駆逐艦「夕月」と衝突事故を起こした[20]。両艦とも沈没の危険はなかったが、「蒼龍」は佐世保に回航され[21]、「飛龍」は沖縄県中城湾で待機した[22]。その後、中国沿岸封鎖作戦に参加し、艦載機が沿岸部を攻撃している[23]。3月12日、日本に戻る。

当時の「飛龍」と「蒼龍」は第二艦隊に所属しており、日本近海に進撃してくる米艦隊を夜間雷撃によって損耗させ、その上に戦艦部隊が洋上決戦を挑む方針で訓練が進められていた[24]。これに対し、航空主兵を唱える山本五十六連合艦隊司令長官や小沢治三郎中将達は第一航空戦隊、第二航空戦隊を集中運用する構想を持ち、第一航空艦隊を4月10日に新編成し、「飛龍」も新艦隊に所属することになった[25]

7月10日、日本を出港し、インドシナに対する第二次仏印進駐を支援する[26]。この期間中、艦載機が福建省南平を爆撃した[27]。一連の行動により日本は東南アジアに勢力を拡大したが、米英との関係は悪化の一途を辿った。9月から鹿児島湾や有明湾で真珠湾攻撃の予行演習と訓練を行う[28]。ドック入りした「蒼龍」の航空機を受け入れた際には、右舷に艦橋のある「蒼龍」での着艦に慣れたパイロット達が無意識に飛行甲板左に寄って着艦し、左舷にある「飛龍」艦橋に接触して墜落する事故も起きた[29]

緒戦の活躍

Template:Safesubst:11月26日、「飛龍」と「蒼龍」は第一航空艦隊第二航空戦隊に所属し、第一航空戦隊(空母:赤城加賀)、第五航空戦隊(空母:翔鶴瑞鶴)と共に日本を出撃した[30]。この時点での第二航空戦隊旗艦は「蒼龍」である。本艦の航続距離では燃料を満載しても日本-ハワイ間を往復できなかったため、艦内に200リットル入りドラム缶500本、18リットル入り2万個を積み込んだという[31]山口多聞少将が「決死隊」であることを強調したため[32]、食事は毎日豪勢、奇襲前夜には全員が日の丸鉢巻をしめ、機械にはしめ縄がはられた[33]12月8日真珠湾攻撃に参加し、米軍太平洋艦隊の潰滅に貢献した。

「飛龍」からの真珠湾攻撃参加機
第一次攻撃隊[34]
  • 九七式艦攻18機(水平爆撃隊10機=指揮官:飛行隊長楠美正少佐、雷撃隊8機=指揮官:分隊長松村平太大尉)、零戦6機=指揮官:分隊長岡嶋清熊大尉
第4制空隊 第11小隊 岡島清熊 大尉・村中一夫 一飛曹・ 田原功 三飛曹
第4制空隊 第12小隊 野口毅次郎 一飛曹・原田敏堯 三飛曹・専当哲男 一飛兵
第二次攻撃隊[35]
  • 九九式艦爆18機=指揮官:分隊長小林道雄大尉(発動機不調で引き返し不参加)、零戦9機=指揮官:分隊長能野澄夫大尉(零戦1機、故障で引き返す)
第4制空隊 第11小隊 能野澄夫 大尉・東中龍夫 一飛曹・ 新田春雄 三飛曹
第4制空隊 第12小隊 重松康弘 中尉・ 西開地重徳 一飛曹・戸高昇 二飛曹
第4制空隊 第13小隊 松山次男 一飛曹・牧野田俊夫 一飛曹・千代島豊 一飛兵

本艦から発進した第一次攻撃隊に未帰還機はなかったが、重傷者が1名出た[36]。先に攻撃した第一航空戦隊の水平爆撃や雷撃により米戦艦群が炎上したため「飛龍」雷撃隊は目標視認が困難となり、小艦艇を狙った機が多かったという[37]。第二次攻撃隊は多数の被弾機を出し、九九式艦上爆撃機2機、零式艦上戦闘機1機が未帰還となった[38]。このうち西開地重徳(一飛曹、零戦)は潜水艦回収地点に指定されていたニイハウ島に不時着して数日間生存していたが、最終的に零戦を自らの手で処分した後、住民により殺害された[39]。西開地の死はニイハウ島事件として在米日系人社会に影響を与えた。

真珠湾攻撃では、南雲機動部隊が事前攻撃目標とされていた米空母を撃沈しなかったことが話題になる。実際には、太平洋で航空機輸送に従事していた空母「レキシントン (CV-2)」、「エンタープライズ (CV-6)」を除く主力空母5隻(サラトガ、ヨークタウン、ホーネット、ワスプ、レンジャー)は米本土もしくは大西洋におり、開戦冒頭における米空母の一挙撃滅は当初から実現不可能だった[40]。また山口多聞少将が真珠湾に第三次攻撃を行うことを進言したが[41]南雲忠一中将が却下したことも論議を呼んでいる。これについては、山本五十六連合艦隊司令長官も出席した出撃前の図上演習で第三次攻撃を行わない事が決められており、南雲中将一人の責任ではない[40]

「飛龍」を含めた南雲機動部隊は日本への帰路についたが、この間、開戦と同時にウェーク島攻略に向かった第四艦隊・第六水雷戦隊が米軍の反撃により予想外の被害を出して撃退された[42]。このため南雲機動部隊に上陸支援要請があり、第二航空戦隊(空母:蒼龍、飛龍)、第八戦隊(重巡:利根筑摩)、駆逐艦「谷風」、「浦風」が南雲機動部隊から分離した。「飛龍」は第六戦隊(重巡洋艦:青葉衣笠加古古鷹)と合流したのち、12月21日22日23日第二次ウェーク島攻略作戦に参加する。「飛龍」からは12月21日に第一次攻撃隊(艦戦9、艦爆15、艦攻2)計26機[43]、22日に第二次攻撃隊(艦戦3、艦爆17)計20機[44]が発進してウェーク島と米軍海兵隊を攻撃した。23日にも「飛龍」から計36機(艦戦12、艦爆6、艦攻18)が波状攻撃を行った。対する米軍海兵隊は少数兵力ながら奮戦し、22日には2機だけ稼動状態にあったF4Fワイルドキャット戦闘機が日本軍空襲隊を奇襲して「水平爆撃の至宝」と謡われた金井昇 一飛曹(蒼龍)以下艦攻2機を撃墜している[45]。このF4F隊は田原力 三飛曹の零戦(飛龍制空隊3番機)と空中戦を行って撃墜され[46]、ウェーク島の航空戦力は壊滅した。やがて地上の米海兵隊も日本軍に圧倒され、降伏している。「飛龍」は日本軍の勝利を見届けて12月29日に日本本土に戻った[47]

Template:Safesubst:1月12日、「飛龍」は日本を出撃し、パラオ諸島に向かう[48]。1月21日パラオを出港し、23日・24日にはモルッカ諸島アンボン島州都アンボンを空襲した[49][50]ラバウルなどニューギニアソロモン諸島へ進出する中型陸上攻撃機や輸送機の中継地点を確保する意味合いがあった[51]。1月28日、「飛龍」はパラオに帰投した[52]。この頃米軍機動部隊がマーシャル諸島を空襲し、第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)が東方哨戒のため南西方面作戦から引き抜かれている[52]。2月15日、南方部隊に編入されてパラオを出港[53]2月19日ポート・ダーウィン空襲に「飛龍」から計44機(零戦9、艦爆17、艦攻18)が参加し、零戦1機が不時着・未帰還となった[54]。未帰還となった零戦搭乗員豊島一一等飛行兵はオーストラリア軍日本人捕虜一号となり、後にカウラ事件(集団脱走事件)の指導者となって自決した[55]

2月21日、「飛龍」はスラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾に入港する。2月25日出港し[56]、ジャワ島攻略を支援すべくインド洋へ進出する。任務はジャワから逃走する連合軍艦隊の補足撃滅であった[57]。だがスラバヤ沖海戦の結果、米英蘭連合軍艦隊が全滅したため、南雲機動部隊の出番はなかった[57]。3月1日、戦艦「比叡」、重巡洋艦「筑摩」と共に「飛龍」航空隊が給油艦ペコス」(USS Pecos, AO–6)、駆逐艦「エドサル 」(USS Edsall, DD-219)を攻撃し、撃沈する。「ペコス」に対しては九九艦爆9機が午後4時頃に攻撃し、8機が被弾、1機は着艦時に火災事故を起こして投棄された[58]。「エドサル」に対しては九九艦爆9機が午後6時45分頃に攻撃し、こちらは1機の被弾喪失もなく撃沈している[59]。3月5日、ジャワ島南岸の都市チラチャップ港を空襲して停泊中の船舶を撃沈した[60]。3月7日の索敵攻撃では、オランダ商船を「蒼龍」攻撃隊と共同して撃沈した[61]。3月11日、スターリング湾に戻る。基地訓練のためトラック島に向かったという回想もある[62]。艦攻搭乗員の金沢によれば、トラック島は南方に向かう航空機の重要中継地点のため満足な訓練ができず、「飛龍」と共にペリリュー島へ移動したという[63]。その後セレベス島ケンダリー基地に移動し、搭乗員の間に幽霊騒ぎが起きている[64]

西太平洋方面に連合軍は有力な航空兵力も艦艇も配置しておらず、日本軍攻撃隊は目標の選定に迷い、爆弾の捨て場所に困ったほどである[52]淵田美津雄中佐・総飛行隊長は「戦力に余裕もないのに、こんな道草をしてていいのか」と感じ、淵田が山本五十六凡将論を抱くきっかけとなった[65]

セイロン沖海戦

3月26日、南雲機動部隊はスターリング湾を出港し、作戦目標も明確でないままインド洋作戦に参加する[66]。4月4日、南雲機動部隊はPBYカタリナ飛行艇に発見され、飛龍零戦隊は英軍飛行艇を共同撃墜した[67]。英軍に発見されたことで当初の奇襲予定が崩れたことを司令部から下士官兵に至るまで誰も深刻にとらえず、敵をおびき出すチャンスだと逸っていたという[68]4月5日、他艦艦載機と共に「飛龍」零戦9機、艦攻18機がセイロン島コロンボ空襲を行い、駆逐艦「テネドス」と仮装巡洋艦「ヘクター」を撃沈する[69]。また飛龍零戦隊は南雲機動部隊攻撃に向かっていたソードフィッシュ複葉雷撃機複数機(淵田中佐は12機目撃、公刊戦史10機撃墜、飛龍戦闘詳報8機撃墜、英軍記録6機)を発見・撃墜している[70]。空中戦の総合戦果は、日本側公刊戦史によれば57機(スピットファイア戦闘機19、ハリケーン戦闘機27、ソードフィッシュ10)、英軍記録によればハリケーンとファルマー戦闘機42機が出撃して19機が撃墜され、ソードフィッシュ6機が撃墜、計25機喪失である[71]。スピットファイアはセイロン島に配備されていなかった。この時、淵田美津雄中佐は「第二次攻撃を準備されたし」と南雲機動部隊に打電している[72]。午前11時52分、南雲中将は第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)に魚雷兵装待機中の九七式艦上攻撃機の魚雷を爆弾に変えるよう命じた[72]

午後1時過ぎ、コロンボ攻撃隊の収容中に重巡洋艦「利根」から発進・索敵中だった九四式水上偵察機(四号機)が英軍巡洋艦2隻を発見し、軽巡洋艦「阿武隈」の水上偵察機も英軍駆逐艦2隻発見を報告する[73]源田実航空参謀の主張により第二次コロンボ攻撃は中止され、最初の発見報告から2時間後の午後3時に空母「赤城」、「蒼龍」、「飛龍」から計53機の九九式艦上爆撃機が発進した[74]。「飛龍」からは18機である[75]。午後4時38分、攻撃隊は重巡洋艦「コーンウォール」、「ドーセットシャー」に対して攻撃を開始、約17分間の攻撃で2隻を撃沈した[76]。重巡2隻以上の英艦隊を発見できなかった南雲機動部隊は、セイロン島の哨戒圏を南下して離れ、大きく東に迂回しながら北上した。

4月9日には、セイロン島ツマンコリー軍港を空襲する[77]。「飛龍」からの参加機は零戦9、艦攻18だった[78]。続いてセイロン沖海戦に参加し、飛龍攻撃隊(零戦3、艦爆18)は空母「ハーミーズ」、オーストラリア駆逐艦「ヴァンパイア」、コルベットホリホック」、タンカー2隻を共同撃沈した[79]。また南雲機動部隊を奇襲して旗艦「赤城」に至近弾を与えたウェリントン爆撃機(戦闘詳報や著作によってはブリストル ブレニム[80])9機を飛龍直衛隊が追撃して4機を撃墜したが、熊野澄夫大尉/指揮官が撃墜されて戦死した[81]。さらに空母「ハーミーズ」空襲隊を護衛して帰投中だった飛龍零戦隊3機が残る英軍爆撃機を攻撃して1機を撃墜したが、牧野俊夫一飛曹が撃墜されて戦死する[82]。4月9日の南雲機動部隊喪失機は零戦5、艦爆4、艦攻2(1機不時着救助)で、零戦2、艦攻2が飛龍所属機だった[83]

英軍相手に勝利を収めた南雲機動部隊は日本への帰路についた。4月15日、「飛龍」から零戦5、艦爆4機が第五航空戦隊戦力補強のために移された[84]。4月18日には米軍機動部隊によるドーリットル空襲行われ、日本軍は動揺する。第二航空戦隊は台湾沖バシー海峡で米空母追撃命令を受けたが、距離的に無理のある命令だった[85]。4月22日、「飛龍」は佐世保に帰港した[86]。ドックにてオーバーホール中、南雲機動部隊では大規模な人事異動が強行され、各艦、各航空隊ともに技量が低下してしまう[87]。5月8日、山口多聞少将以下司令部が移乗し、「飛龍」は第二航空戦隊旗艦となった[88]。真珠湾攻撃時の「飛龍」は航続距離延長のため燃料入りドラム缶を大量に搭載したが、今作戦では機械室上部通路や機関缶室に天井まで届くほどの米俵を積載して作戦に備えた[89]。将校から下士官兵に至るまで緊張感が薄れ、ミッドウェー占領後はトラック補給・ニューカレドニア攻略、ハワイ攻略作戦を行うことが噂されていた[90]

ミッドウェー海戦

兵装転換

1942年5月27日、空母「飛龍」は南雲忠一中将指揮のもと、第一航空艦隊(南雲機動部隊)第二航空戦隊旗艦としてミッドウェー海戦に参加すべく日本を出撃した。日本軍の作戦には不備が多かったという。事前の作戦会議で近藤信竹中将/第二艦隊司令官が「ミッドウェー島占領後の補給維持は可能か」と質問すると、宇垣纏参謀長は「補給が不可能なら、守備隊はあらゆる施設を破壊して撤退する」と答え、山本五十六連合艦隊長官は何も言わなかった[91]

日本時間6月5日、南雲機動部隊はミッドウェー島北西海域に到達した。午前1時30分、南雲機動部隊からミッドウェー島への第一次攻撃隊が発進する。「飛龍」から友永丈市大尉指揮のもと、零戦9機、九七式艦上攻撃機18機が参加した[92]。このうち九七艦攻1機がエンジン不調で引き返し、5機(2機不時着)が米軍戦闘機と対空砲火の迎撃で撃墜される[93]。帰艦した機も大なり小なり損傷しており、使用不能機艦攻4、零戦2、修理後使用可能艦攻9、零戦7という状況だった[94]。友永大尉隊長機も右翼のガソリンタンクを撃ち抜かれ、無線機は米軍戦闘機の12.7㎜弾で破壊され、小型黒板を用いて二番機に通信代行を行わせている[95]。米軍は日本軍の攻撃に備えてミッドウェー基地の防備を強化しており、一度の空襲では戦力を失わなかったのである。そこで友永大尉は南雲司令部に対し、陸上基地第二次攻撃の必要性ありと連絡する。南雲司令部は米軍機動部隊出現に備えて待機していた第一航空戦隊(赤城、加賀)の九七艦攻から魚雷をはずし、陸用爆弾に兵装転換することを命じた。第二航空戦隊に対しても、九九式艦上爆撃機の対艦爆弾を陸用爆弾に変更するよう命令している。艦攻搭乗員によれば、ネジの止めはずしに細心の注意を要するため、投下器の交換には通常3時間かかるという[96]

午前5時20分、利根偵察機4号機は、日本軍も誰もが想像していなかった米空母の出現を伝えた[97]。山口少将は「ただちに攻撃隊発進の要ありと認む」と即時攻撃を主張したが[98]草鹿龍之介参謀長と源田実航空参謀は戦闘機の掩護なしでの攻撃隊発進を躊躇し、さらに第一次攻撃隊の収容を優先したため、山口の提案を却下した[99]。第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は雷装九七艦攻の出撃可能時刻を午前7時30分~午前8時に準備可能と報告している[100]。報告にある九七艦攻は友永隊のことで、この時点でまだ着艦していない。

その後、南雲機動部隊はミッドウェー基地から発進した大型爆撃機B-17、急降下爆撃機SB2UビンジゲーターSBDドーントレス、雷撃機TBFアベンジャーの波状攻撃を受けた。午前5時頃の空襲では、「飛龍」から戦死者4名を出した[101]。「赤城」に至っては『飛竜被弾』と誤認している[102]。各空母が直衛零戦の発進と兵装転換に追われる中、米軍機動部隊攻撃隊は南雲機動部隊に接近した。午前7時30分頃、空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」はSBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲により被弾、格納庫内の魚雷・爆弾に誘爆して一挙に戦闘不能となった[103]

飛龍の攻撃

「飛龍」は米軍機動部隊の雷撃隊の攻撃を受け、その回避に追われたため、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」からは離れた位置にいた[104]。南雲機動部隊空母4隻中1隻だけ爆撃を免れた「飛龍」は、山口多聞少将指揮下、反撃を開始する。山口は「飛龍」乗組員に対し「飛龍を除く三艦は被害を受け、とくに蒼龍は激しく炎上中である。帝国の栄光のため戦いを続けるのは、一に飛龍にかかっている」と宣言した[105]。午前8時、小林道雄大尉指揮のもと、九九艦爆18機(250kg通常爆弾12、陸用爆弾8)、零戦6機が発進し、アメリカ海軍空母「ヨークタウン」を攻撃する[106][103]。爆弾3発命中(日本軍記録6発命中)により中破させるが、艦爆13機、零戦4機(不時着1)を失う[107]。被弾による使用不能艦爆1、修理後使用可能艦爆2、零戦1だった[108]。午前11時30分に発進した飛龍第三次攻撃隊は友永大尉指揮のもと、九七艦攻10機、零戦6機が再び「ヨークタウン」を攻撃し、魚雷3本の命中を記録(米軍記録2本)して航行不能とした[109]。そのかわり、友永隊長を含む艦攻5、零戦3(不時着1)が撃墜され、使用不能艦攻4、修理後使用可能艦攻1、零戦3という損害を出す[108]。「飛龍」上空の直衛戦闘でも零戦5機(不時着1)を失い[110]、被弾した三空母から零戦や艦攻を受け入れたものの、「飛龍」の航空戦力は消耗しきっていた。

日本軍は、空母「蒼龍」から発進した十三試艦上爆撃機(艦上爆撃機「彗星」試作機を偵察機に改造した機体)の偵察結果や、第四駆逐隊(有賀幸作司令)の捕虜尋問結果報告から、米軍空母戦力が「エンタープライズ」、「ホーネット」、「ヨークタウン」の3隻であることを知った[111]。さらに飛龍攻撃隊が二度「ヨークタウン」を攻撃した事に気づかず、別の空母を撃沈・撃破したと錯覚したため、残る米空母は1隻と判断している[112]。山口は飛龍第三次攻撃隊を準備させたが、「飛龍」の戦力は零戦10、艦爆5、艦攻4しかなった[113]。昼間強襲をあきらめた山口は、薄暮攻撃を決定し、前述の十三試艦爆が索敵のため「飛龍」飛行甲板で発進準備にとりかかる[114]。「飛龍」の周囲を戦艦榛名」、「霧島」、重巡洋艦筑摩」(第八戦隊旗艦)、「利根」、軽巡洋艦長良」(第十戦隊旗艦、南雲忠一中将乗艦)が囲み、防御を固めた[115]。これに対し、空母「ヨークタウン」偵察機は「空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4」の艦隊発見と位置情報を打電し、米軍攻撃隊の誘導を行った[116]

沈没

日本時間6月5日午後2時3-5分、「飛龍」は空母「エンタープライズ」、「ヨークタウン」(艦載機のみエンタープライズに移動)のSBDドーントレス急降下爆撃機24機の集中攻撃を受け、1,000ポンド爆弾4発を被弾した[117][118][119]。前部エレベーターは最初の命中弾で吹き飛ばされて艦橋の前に突き刺さったが、一種の防護壁となって残る爆弾命中の爆風から艦橋を守った[120]。続いて空母「ホーネット」のSBDドーントレス14機、B-17爆撃機12機が炎上する「飛龍」や護衛の戦艦「榛名」、重巡洋艦「利根」、「筑摩」を攻撃したが、命中弾はなかった[121]。当初「飛龍」はタービン4基正常、ボイラー8罐のうち5罐は正常で、機関科は速力30ノット可能と報告する[122]。ところが舵駆動用モーターが停止し、バッテリーに切り換えたところ、機関室と艦橋との電話が通じなくなる[123]。これは電話と舵取りバッテリーが同じ電源を使っていたためだった[123]。艦橋にいた機関参謀からの最後の電話は「何か言い残すことはないか」であり、機関科員は愕然としたという[123]。戦闘詳報は『機関部は最後迄電話連絡可能にして機関長海軍機関中佐 相宗邦造以下最後迄努力し従容として死に趣く』と表現している[117]。機関科乗組員はなんとか艦上部へ出ようとしたが、通路に積み上げられた米俵が炎上し、艦橋への連絡に失敗している[124]。艦幹部も決死隊を編成して機関室への連絡を試みたが、こちらも失敗したという[125]。火災による熱のため右舷機関は放棄されたが、機関科兵は左舷機関室に移動して任務を継続している[126]。結果的に、艦長は機関の健在を知らぬまま総員退艦を発した。

午後6時30分頃より、第八戦隊(重巡筑摩利根)、第十駆逐隊4隻の放水消火活動が開始され[1]、「飛龍」の艦内部に延焼した火災の消火に手間取っていたところ、午後8時58分に再び爆発が起きた[2]。午後10時、駆逐艦「巻雲」が「飛龍」に横付けして負傷者と御真影(昭和天皇の写真)を引き取る[3]。加来艦長は消火に努力していたが、機関科全滅の報告(誤報)を受けて「飛龍」の放棄を決定した。午後11時50分、軍艦旗降下[2]。6月6日午前0時15分、総員退去命令が出る[4]。生存者は第十駆逐隊の駆逐艦巻雲」、「風雲」に移り、午前1時30分に移乗完了した[4]。午前2時10分、「巻雲」の発射した魚雷2本のうち1本が「飛龍」に命中する[5]。第十駆逐隊は「飛龍」の沈没を見届けず、西方に退避した。機関科生存者の証言によれば命中から沈没まで2時間以上かかったという[6]。戦闘詳報による沈没位置は、北緯31度27.5分、東経179度23.5分である[4][5]

数時間後、山本五十六連合艦隊司令長官率いる第一艦隊の空母「鳳翔」から偵察に飛来した九六式艦上攻撃機が、漂流する「飛龍」と飛行甲板にたたずむ人影を発見し、帰艦後「飛龍に人影があり帽子を振っていた」と報告する。これをうけた軽巡洋艦「長良」艦上の南雲忠一中将は、駆逐艦「谷風」に生存者の救出と処分を命ずるが、同艦は途中米軍機の攻撃により現場到達へ遅延を生じ、「飛龍」も脱出した艇も発見することができなかった。なお、「鳳翔」艦攻が見た人影は、艦と運命を共にした山口と、加来止男艦長だといわれていたが、生還者の証言により池田幸一三等機関兵曹、岡田伊勢吉三等整備兵の両名であることが判明している。機関部から脱出した100名以上のうち、39名(漂流中に5名死亡)は食糧と水を積み込んだカッターで「飛龍」を離れた[6]。日本時間6月6日午前6時6-15分、「飛龍」は左舷に傾きつつ、艦首から沈んだ[7]。機関科脱出者達は15日間漂流したのち、米軍に救助された[8]

ミッドウェー海戦時の「飛龍」に乗り組んでいた実員は不明だが、「飛龍」の定員は准士官以上95名、下士官兵1315名、傭人6名、計1,416名である[9]。これに第二航空戦隊司令部員23名と航空機搭乗員、ミッドウェー基地占領の場合、基地要員として赴任予定の便乗者が乗艦していた。「飛龍」の戦死者は戦闘詳報によると山口司令官、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名であるが[9]、上記の機関科兵34名が米軍の捕虜となった。また2度の「ヨークタウン」攻撃で多くの損害を出した飛龍搭載機搭乗員の戦死者は機上64名、艦上8名の合わせて72名(戦闘機11名、艦爆27名、艦攻34名)に上り、同海戦で日本海軍が喪失した4空母中、群を抜いている(赤城7名、加賀21名、蒼龍10名)[10]。「飛龍」は海戦参加の日本空母中、最も搭載機搭乗員の戦死者が多かった艦となった。

慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。

1999年10月29日、アメリカの深海調査会社ノーティコスが、ミッドウェー沖の海底4,800m付近で、本艦を発見したという。

歴代艦長

艤装員長

  1. (兼)城島高次 大佐:1938年8月10日 -
  2. 竹中龍造 大佐:1938年12月15日 -

艦長

  1. 竹中龍造 大佐:1939年7月5日 -
  2. 横川市平 大佐:1939年11月15日 -
  3. 矢野志加三 大佐:1940年11月15日 -
  4. 加来止男 大佐:1941年9月5日 - 1942年6月6日戦死

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C05110626600「第4012号 11.8.27飛龍」
    • Ref.C05110681700「第5768号 12.11.6 土耳古国海軍学生飛龍命名式見学の件」(土見古はトルコの事)
    • Ref.C08051579100「昭和16年12月~昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書(1)」
    • Ref.C08051579100「昭和16年12月~昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書(2)」
    • Ref.C08051579100「昭和16年12月~昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」
    • Ref.C08030023800「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(3)」
    • Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(4)」
    • Ref.C08030040600「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」

脚注

  1. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.8
  2. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグ。「.E8.89.A6.E9.9A.8A.E8.A9.B3.E5.A0.B1.E5.A3.B142」という名前の引用句に対するテキストがありません
  3. ^ #飛龍生涯451頁
  4. ^ a b c 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.44
  5. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグ。「.E8.89.A6.E9.9A.8A.E8.A9.B3.E5.A0.B1.E5.9B.9B22」という名前の引用句に対するテキストがありません
  6. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグ。「.E5.8B.A4.E5.8B.99204」という名前の引用句に対するテキストがありません
  7. ^ #飛龍生涯469頁、#プランゲ下137頁、#海軍艦隊勤務204頁
  8. ^ #プランゲ下136頁、#海軍艦隊勤務205頁
  9. ^ a b 「戦時日誌戦闘詳報(3)」p.37
  10. ^ 澤地『記録 ミッドウェー海戦』

関連項目

外部リンク