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養父鉄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

養父 鉄
基本情報
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
出身地 神奈川県鎌倉市
生年月日 1973年6月26日(38歳)
身長
体重
181cm
87kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り NPB / 2001年 ドラフト7巡目
初出場 CPBL / 2001年3月11日
最終出場 CPBL / 2006年5月28日
経歴(括弧内は在籍年)

養父 鉄(ようふ てつ、旧名:小倉 哲1973年6月26日 - )は、神奈川県鎌倉市出身の元プロ野球選手投手)。

目次

来歴・人物

プロ入り前

鎌倉市立第二中学校を卒業。帝京第三高等学校時代に山梨選抜アメリカ遠征で7イニング14奪三振を記録。プロの誘いを断り大学へ進学。亜細亜大学を経て日産自動車と野球を続けたが日本プロ野球から声がかかることはなく、2001年台湾プロ野球界の誘いを受けて兄弟エレファンツに入団。

兄弟エレファンツ時代

27歳にしてプロ野球選手としてデビューする(台湾プロ野球での登録名は養父 鐵)。

レギュラーシーズンでは台湾プロ野球史上初となる1試合16奪三振(その試合では1安打完封勝利)を記録するなど166奪三振で奪三振王、およびゴールデングローブ賞に輝き、212イニングに投げ11勝防御率は2.21など驚異的な活躍を見せた。さらに台湾シリーズでも4試合に登板し、2勝2セーブ、防御率0.87で兄弟の決勝戦(總冠軍)制覇に大きく貢献。シリーズMVPに選ばれた。

この活躍でようやく日本球界に注目され、プロテストを経て2001年ドラフト福岡ダイエーホークスから7巡目で指名を受け入団。

福岡ダイエーホークス時代

念願の日本プロ野球選手となったものの、腰を痛めた影響もあり、一軍登板は無くわずか1年で戦力外通告を受け退団。そこでメジャーリーグ挑戦の夢のため単身でアメリカ合衆国に渡ることになった。

ダイエー退団後

2003年シカゴ・ホワイトソックスマイナー契約。2Aバーミングハム・バロンズで開幕を迎えてわずか10日で3Aシャーロットに昇格した。同年は2Aで29試合9勝8敗2セーブ、防御率3.50の成績を残し、プレーオフでも1試合投げ、防御率0で勝ち投手になった。また、3Aでは3試合に出場し、0勝1敗、防御率4.82だった。同年オフにはリーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナルのパストーラと契約。8試合に登板し防御率2.26。

2004年は2Aで7試合に出場し3勝2敗、防御率2.63。3Aは前年を上回る21試合に出場し、5勝4敗で防御率4.62の成績を残した。8月1日には3Aシャーロットで球団史上初のノーヒットノーランを達成した。オフにはリーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコアルゴドネロス・デ・グアサベと契約。11試合で5勝3敗、投げ防御率4.07。

2005年の春季キャンプで行われたシアトル・マリナーズとの練習試合ではイチロー選手と対戦した。ホワイトソックス傘下の2Aバーミングハムに所属していた5月にドーピング検査で陽性反応を示し、メジャーリーグ機構から15試合の出場停止処分を下された(使用した薬物の種類は公表されず)。成績不振もあって解雇された。オフになってリーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナルのパストーラと再契約した。その後はアメリカ独立リーグニューアーク・ベアーズなどでプレーした。

兄弟エレファンツ復帰 - 引退後

2006年に再び兄弟エレファンツに入団したが、膝の故障などで満足に投げられず4勝に終わり、戦力外通告を受けた。

2007年、メジャー6球団のテストを受けるが、契約に至らずに引退した。

神奈川県の企業に勤務したのち、野球塾「Roots Baseball Academy」を同県内で開校。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2001 兄弟 3126630111010.524847212.0163757051669069522.211.04
2006 990004400.50022148.25931203404030224.071.46
通算:2年 4035630151410.5171068260.222210690820613099742.551.12
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

CPBL

表彰

CPBL
  • ゴールデングラブ賞(金手套奨):1回 (2001年)

背番号

  • 60 (2002年)
  • 18 (2006年)

関連項目

外部リンク