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高倉健

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

たかくら けん
高倉 健
本名 小田 剛一(おだ ごういち)
生年月日 1931年2月16日(81歳)
出生地 福岡県中間市
国籍 ファイル:Flag of Japan.svg 日本
民族 日本人
身長 180cm
血液型 A型
職業 俳優歌手
ジャンル 映画テレビドラマCM
活動期間 1955年 -
配偶者 江利チエミ1959年 - 1971年
主な作品
網走番外地』シリーズ
日本侠客伝』シリーズ
昭和残侠伝』シリーズ
幸福の黄色いハンカチ』/『八甲田山
南極物語』/『鉄道員(ぽっぽや)

高倉 健(たかくら けん、男性1931年昭和6年〉2月16日 - )は、日本俳優歌手である。本名は小田 剛一(おだ ごういち)。愛称は健さん

2006年度文化功労者。日本を代表する映画スターの一人で、半世紀にわたり活躍している。また、日本だけではなく中国でも人気がある。

代表作は映画『網走番外地』シリーズ、『日本侠客伝』シリーズ、『昭和残侠伝』シリーズ、『幸福の黄色いハンカチ』、『八甲田山』、『南極物語』、『鉄道員(ぽっぽや)』など。いずれも、邦画史に残る大ヒットを記録している。

身長180cm体重71kg血液型A型[1]。高倉プロモーション所属。

目次

来歴

幼少期から映画スターになるまで

1931年昭和6年)に福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[2]。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシング英語に興味を持った[2]。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった[2]。英語は小倉米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行くなかで覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた[2]福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部第二部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。卒業後、思ったような就職先がなく一旦帰郷した。

1955年(昭和30年)に大学時代の知人のつてで、美空ひばりらが所属する新芸プロのマネージャーになるため、喫茶店で面接テストを受けた。その際、偶然その場にいた東映東京撮影所長で、プロデューサーのマキノ光雄にスカウトされ、東映の第2期ニューフェイスとして入社。同期に今井健二丘さとみ・岡田敏子・五味龍太郎らがいる。当時、ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月、さらに東映の撮影所で6か月の修行期間(エキストラ出演など)を経ることが決められていた。

しかし翌1956年(昭和31年)、すぐに映画『電光空手打ち』の主役に抜擢され、華々しくデビュー。演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人であった高倉が、すぐに主役デビューすることは異例の大抜擢であった。元々俳優を目指していた訳ではないことから、初めて顔に化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。

その後、現代劇映画を中心に、東映東京の主演スターとして活躍を続けたが、まともな演技のトレーニングも受けたこともないまま、出演し続けたことがコンプレックスになっていた。1960年代前半までの、時代劇映画中心の東映では大スターとはいえず、片岡千恵蔵中村錦之助、美空ひばりの映画作品の助演も多かった。

東映ヤクザ映画ブーム

1963年(昭和38年)に出演した『人生劇場 飛車角』(鶴田浩二主演)が、ヤクザ映画ブームの起点となった。

1964年(昭和39年)から始まる『日本侠客伝』シリーズ、1965年(昭和40年)から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝』シリーズに主演し、一躍、日本で最も集客力のあるスーパースターとなる。サラリーマン・職人から本業のヤクザ・当時の学生運動の闘士たちにも大人気となり、オールナイト興行にまでファンがあふれ、立ち見が出た。しかし「飲む・打つ・買う」の映画界にありながら、自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。その肉体美による刺青姿の立ち回りは圧巻で、他のスターとは一線を画した印象を示したことが、この大ヒット連発の一因であった[注釈 1]。たくましい体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、言い訳をせずに筋を通すという高倉健のイメージは、この時期に確固たるものとなり、以後の役柄に現れている。一方でコーヒーと夜更かしが好きで、よく撮影に遅刻することがあり、監督を怒らせることもあった。この頃のイメージと風貌は、劇画ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルになったことでも知られ、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であった[注釈 2]

歌手としても、ドスの利いた渋いノドを聞かせ、人気を得るに至り、『網走番外地』は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが、ミリオンセラー(公称200万枚[3])の大ヒットとなる。『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットとなり、今でもカラオケなどで歌い継がれている。

1970年(昭和45年)、来る日も来る日も同じようなストーリーのヤクザ映画に、休みなく出演し続けることに嫌気がさし、高倉プロを設立する。

1976年(昭和51年)、東映を退社し、独立した。それまで数本の外部作品(ハリウッド映画を含む)への出演もあったが、それらを除くともっぱら東映であり、多数のヤクザ映画に出演。今でもヤクザ映画のシンボル的存在となっている。

独立、ジャンルを超えた映画俳優としての成功

1976年(昭和51年)、東映退社後初の作品『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ/大映映画)にて、東映ヤクザ映画のイメージから脱却。翌1977年(昭和52年)には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の二作品に立て続けに主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演して、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。また、前後してアメリカ映画中国映画などに出演しており、1998年(平成10年)には紫綬褒章を受賞した。

独立以後も現在まで映画スターであり続けている一方で、テレビドラマへの出演は数えるほどしかない。その出演理由も「故郷にいる母親にテレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMの出演は多く、富士通のパソコンFMVのCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦の設定で出演し、コミカルな演技を見せ、2006年平成18年)4月2日の『世界遺産』(TBS)で初めてナレーションを務めた。

近況

2005年(平成17年)、『網走番外地』シリーズで高倉を育てた、恩師である石井輝男監督が死去。翌2006年(平成18年)8月、石井監督の生前の意思により、網走市内の潮見墓園に墓碑が建てられ、遺骨が納められた。“安らかに 石井輝男”と記されたこの墓碑の碑文は、高倉によってしたためられたものである。

2006年(平成18年)11月に行われた天皇、皇后両陛下主催の文化勲章受章者・文化功労者を招いたお茶会に出席して以来、公の場に姿を見せていなかったが2009年(平成21年)10月、同年8月に亡くなった女優大原麗子の墓参りをしていたことが、2010年(平成22年)8月に伝えられた[4][5]

2011年(平成23年)8月、映画『あなたへ』で6年ぶりに銀幕復帰することが発表された。205本目の映画出演となる。

人物

演技

主に硬派な演技、シリアスな演技を得意とし、筋を通す “ 男の中の男 ” を演じるさまは、男女問わず、多くの共感を誘う。本人は滲み出るようなユーモアも備えているといわれるが、映画の中でくだけた雰囲気を出すことは滅多になく、常に一定の緊張感を保っている。幅広い役柄を演じ分けるタイプではなく、同一のイメージの延長線上にあるキャラクターを徹底して演じ続け、それが支持され続けるタイプを代表するスターである。原作ものや歴史上の人物の役が比較的少ないのも、彼自身の色合いの強烈さを物語っている。

役作りに熱心に取り組むのも、プロとして当然であるという信念を崩さない。初の松竹出演となった『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンカツ丼を食べるシーンがある。その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次監督からOKが出た。あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。

祖先・親族

祖先は鎌倉時代執権北条家の一門である名越氏の一族、刈田式部大夫と言われた北条篤時で、篤時の子孫が西国に移り、大内氏に仕えた後に北九州へ向かった[2]。当地で北条の名を捨て『小松屋』の屋号で両替商を営み、後に筑前国藩主黒田家から名字帯刀を許されて小田姓を名乗るようになった[2]江戸時代末期に『東路日記』を記した、筑前国の庄屋の内儀・小田宅子(おだいえこ)は先祖にあたる。

1959年昭和34年)に江利チエミと結婚したが、1971年(昭和46年)に離婚。その後は独身を通している。江利の命日である2月13日には、毎年早朝にひっそり一人で墓前を訪れ、花を手向けている。離婚の原因も不仲ではなく、江利の異父姉によるふたりへの誹謗中傷と夫婦の財産横領が原因といわれている[注釈 3]

人柄

義理がたく、人情が厚く、筋を通す、礼儀正しい人物として知られ、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う[2][5]。高倉にお辞儀されると、監督やプロデューサーも深々とお辞儀を返すので、製作者側、キャスト側で良好な人間関係が築かれている。非常に落ち着いた物腰と態度を持ち、マスコミにまでも礼儀正しく接するので、社会的にも非常に受けが良い。

千葉真一は高倉を “ 一生あこがれの存在で永遠の師匠 ” と公言している[6]。「(千葉が)デビューして間もない頃、健さんが食事によく連れて行ってくれたり、取材向きの洋服がない時に健さんからスーツをもらった[6]」、「役者として少し売れてきた後でも(千葉自身の)撮影がない時には、健さんの付き人をしていた[6]」、「(千葉が)離婚した時に健さんから手紙で励まされ、それが心の支えになった[6]」、「(千葉が)東映労働組合委員長と撮影進行で衝突して、映画界を辞めようと思った時に、健さんが思いとどまらせ、一緒に謝ってくれた[2]」など、「健さんは厳しい人だけど、ちゃんと愛がある。そばにいて、俳優としても人間としても、大切なことをいっぱい教わった[6]」と語っている。

他にも役者として人間として、高倉を尊敬している人物は多く、『幸福の黄色いハンカチ』で共演した武田鉄矢は、100メートルほど離れた所で高倉を発見すると「健さ〜ん!」と叫びながら手を振り、全力疾走で走ってきた[7]石倉三郎小林稔侍板東英二などからもこよなく慕われており、石倉は芸名に「倉」の字をもらい、小林も息子に「健」の名前を付けたりと、影響を受けている。

気持ちの通じ合った共演者に高倉はブライトリングロレックスヴァシュロン・コンスタンタンなどの高級腕時計に、「高倉健」の名前を彫ったモノをプレゼントする習慣があり、千葉真一・田中邦衛渡瀬恒彦・板東英二などが貰っている。田中も高倉をこよなく尊敬し、今も出かける際には、その時計を身に付けている。『ブラックレイン』で共演した松田優作にもロレックス「GMTマスター」を渡すつもりだったが、松田の病状を知らず、旅先で訃報を聞き、帰国後に松田邸まで出向き、夫人の松田美由紀に手渡した。同様に共演したマイケル・ダグラス大阪京橋の野外シーンロケで、日本人のファンが高倉に憧れて接する姿を目撃した。その様子をダグラスは「アメリカではブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見られるのは!」と驚いていた[8]

中国でも年配層に知名度、人気が高い。これは、政治闘争に溢れた文化大革命後、外国映画に飢えていた中、『君よ憤怒の河を渉れ』(佐藤純彌監督)が中国に輸入され、高い娯楽性と華やかな日本の風景などで非常に人気を博したためである。中国人の半分が観たともいわれている[9]。ちなみに、この映画の宣伝のために田中邦衛と訪中した時、宿泊先のホテルには、高倉を一目見たいというファンが大勢詰め掛けた。また、高倉のファンである映画監督・張芸謀(チャン・イーモウ)は、『単騎、千里を走る。』の撮影の際、高倉が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言している[10]。また、2006年(平成18年)4月には、北京電影学院客員教授に就任している

非常に謙虚な人物で、『夜叉』で共演したビートたけしがパーソナリティを務めた『ビートたけしのオールナイトニッポン』での発言によれば、真冬の福井へロケに行った際、高倉は休みの日だったが、ロケ現場へ激励に現れた。厳冬下であったので、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は焚火にあたろうとしない。スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めたところ、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。このため、スタッフだけでなく、共演者も誰一人申し訳なくて、焚火にあたれなかったと発言している。やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃあ、あたらせていただきます」となり、やっと皆で焚火にあたることができた[注釈 4]。また、この『夜叉』の撮影初日が終わり、役者・スタッフの泊まる旅館へ到着し、食堂へ行くと、高倉と監督の前だけ、皆とは違った豪華な料理が並んでいた。これを見た高倉は「自分も皆さんと同じ料理にしてください」と遠慮していた。

「不器用ですから」の台詞が代名詞になるほど、無骨で無口なイメージがあるが、実際の高倉は多弁とのことである。『ビートたけしのオールナイトニッポン』によれば、漫才師から役者業に進出してきたたけしに対抗して、田中邦衛と組んで漫才界に進出しようという話題になったことがあり、田中は「止めといたほうがいい」と制止した。高倉が「それじゃお前は何をやるんだ?」と言うと、田中は「二種免許取ります」と返答したという。たけしは高倉と田中がタクシーの運転手になる可能性を、真剣に検討していることに大ウケした[11]。また、昼間に高倉とたけしが車に同乗して移動していた時に、JR渋谷駅ハチ公改札前近くのスクランブル交差点で信号待ちの為に停車したところ、高倉は窓を開けていきなり「お~い、高倉~!」と大声で何度も車外へ叫び続け、信号が変わり車が走り出すとようやく窓を閉めて元に戻り「いやあ、こんなに沢山の人が通っているのに、誰も気が付かないもんなんだなあ、俺がここに居るって」と独りで喜んでいた。高倉とたけしが車に同乗していることを多数の一般人に知れてしまうと、野次馬で混乱が発生する危険性が容易に予想されたにも拘らず、大都会での他人に対する無関心を逆手にとって面白がっていたと同番組でたけしが語っている。

交友

東京アメリカンクラブのメンバーである高倉は、外国人の友人・知人が多い[2]千葉真一は、高倉に誘われて同クラブへ行った時や、パンアメリカン航空のパーティーへ出席した時に千葉のファンであるフライトアテンダントを高倉から紹介されたりなど、ハリウッド映画出演前から英語に堪能な高倉を、目の当たりにしている[2]

かつて東映内には、千葉真一・梅宮辰夫山本麟一山城新伍など、高倉を慕う人達で集まって遊ぶ「野郎会」というものがあった[2]。会の名の由来は「男ばかり」なのと「何でもやろう」を語呂あわせにしたもので、何か月かごとに集まってその時の監事が決めた遊びをしていた[2]。高倉は酒を飲まないので野球をしたり、山城が監事の時には遊郭に行って、お大尽遊びの真似事をしていた[2]明治大学と東映ニューフェイスの先輩になる山本も、高倉と仲が良く、この集まりに参加していた[2]

プロ野球にはさほど関心を持たないが、元東京讀賣巨人軍長嶋茂雄とは長年に亙る交友関係がある。長嶋の長男である長嶋一茂1999年(平成11年)12月3日に箱根神社で結婚式を挙げた時、高倉が出席したので、思わぬ大物の登場に結婚式取材に駆けつけた取材陣が驚いた一幕があった。また、1990年(平成2年)のロッテ村田兆治投手の引退試合中継を見て感銘を受け、それまで面識も無かった村田の住所を関係者に一通り尋ねて調べ、さらに留守中だった村田の自宅前に、花束を置いて帰ったという話がある[12]オリックス監督の仰木彬は、高校の後輩である。石原裕次郎とも付き合い、「健さん」「裕ちゃん」と呼び合う仲だった。

趣味

趣味は旅・車・乗馬

好きなミュージシャン大塚博堂である。友人にもらったカセットテープを聞いて、自分にない何かがあると感銘を受ける。大塚とよく組んでいた作詞家の藤公之介に、大塚と組んで曲を作ってほしいと電話で頼んだこともあったがこの時は大塚が忙しく、別の作曲家で曲を作るが、その後、まもなく大塚が逝去したため実現しなかった。大塚の曲では『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』『旅でもしようか』『ふるさとでもないのに』を特に気に入っている。直接、会ったことはないが、大塚のメモリアルイベントなどに、一ファンとして何度かメッセージを贈っている。千葉真一野際陽子の結婚10周年記念には『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』をBGMにして、自ら祝辞をカセットテープに録音してプレゼントしており、千葉と野際からとても喜ばれた。

志村けん岡村隆史のファンである。志村には、自ら『鉄道員(ぽっぽや)』の出演要請を出し、「お笑い一本」と決めている志村を口説き落とした。『鉄道員』公開以降に志村の番組のトークコーナーに小林稔侍が出演した際にはVTR出演し、志村の演技を褒める一方、共演歴の長く交友のある小林を「セリフを覚えて来ない、気持ちを引き締めてほしい」などと、苦言を呈する体で茶化してユーモアを滲み出させた。また、岡村とは第23回日本アカデミー賞で同席し、長年のファンであることを伝えた。岡村は「将来は高倉健さんのような俳優になりたい」というスピーチで会場に笑いが巻き起こる中、高倉は立ち上がって拍手を送った。岡村が病気で療養中の際にも電話や手紙でメッセージを送っている。

キリン生茶」のCMで共演した総合格闘家宇野薫によると、高倉は格闘技にかなり詳しく「休憩中に健さんから『UFCの試合をよく観ていますよ。応援しています』と話しかけられ驚きました」と語っている。

世界で一番好きな場所はハワイ。このことについて沢木耕太郎に「ドスを片手に敵地に乗り込む高倉健とハワイの取り合わせは意外なようだが、それは何故か」と問われて、高倉は「人が温かい」ことと、東映時代に過酷なスケジュールをこなしている中で、たまの休みにハワイの海岸で寝て過ごす開放感がたまらなかった、と述懐している[13]

その他

バラエティ番組などにはほとんど出演しない。『スター千一夜』『ズバリ!当てましょう』(フジテレビ)、『土曜大好き!830』(関西テレビ)、『徹子の部屋』(テレビ朝日)、1980年(昭和55年)の『すばらしき仲間』(中部日本放送)で親交のある田中邦衛北大路欣也と3人での語らいが企画された時ぐらいしか、見られる機会は無かった。時代が平成になって以後、出演したバラエティ番組は『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ)ぐらいである。このように、テレビで高倉の姿が見られる機会はごくわずかなため(出演映画の放映は除く)、最近では大変貴重な『SMAP×SMAP』出演は、後日の同番組特番でも、視聴者達からの『BISTRO SMAP名場面リクエスト第1位』に輝いた。

本人は、『オレたちひょうきん族』に出演したかったらしく、ビートたけしに「僕にもひょうきん族出演の機会をください」と署名した写真を渡したことがある。それを聞いた高田文夫は、『タケちゃんマン』に弟子の「ケンちゃんマン」を出そうとギャグを言っていた[14]

受賞

  • 第1回 1978年(昭和53年) 日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『幸福の黄色いハンカチ』
  • 第4回 1981年(昭和56年) 日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『動乱』、『遥かなる山の呼び声』
  • 第5回 1982年(昭和57年) 日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『駅 STATION』
  • 第23回 2000年(平成12年) 日本アカデミー・最優秀主演男優賞 - 『鉄道員(ぽっぽや)』
  • 第20回ブルーリボン賞 1977年度・主演男優賞 - 『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』
  • 第42回ブルーリボン賞 1999年度・主演男優賞 - 『鉄道員(ぽっぽや)』
  • 第32回 1977年(昭和52年) 毎日映画コンクール・男優演技賞 - 『幸福の黄色いハンカチ』
  • 第2回 1977年(昭和52年) 報知映画賞・主演男優賞 - 『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』
  • 第23回モントリオール世界映画祭・主演男優賞
  • 第51回 1977年(昭和52年) キネマ旬報・主演男優賞
  • 第73回 1999年(平成11年) キネマ旬報・主演男優賞
  • 1978年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
  • 1982年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
  • 1990年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
  • 1999年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
  • 2007年度サンディエゴ映画批評家協会・主演男優賞
  • 紫綬褒章 1998年(平成10年)
  • 文化功労者 2006年(平成18年)

出演

映画

東映退社後

※上記2作品により、ブルーリボン賞 主演男優賞受賞

※上記2作品により、日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞受賞

テレビドラマ

CM

ディスコグラフィー

  • その灯を消すな 1958年(昭和33年)
  • 愛のブルース 1959年(昭和34年) 作詞と作曲は江利チエミ
  • 網走番外地 1965年(昭和40年)
  • 男の裏町 1965年(昭和40年)
  • 横顔 1965年(昭和40年) 「男の裏町」B面
  • 唐獅子牡丹 1965年(昭和40年)
  • 男涙の雨が降る 1965年(昭和40年) 「唐獅子牡丹」B面
  • 男の誓い 1965年(昭和40年)
  • 霧の波止場 1966年(昭和41年)
  • 泣かせるぜ 1966年(昭和41年)
  • 男ごころ 1968年(昭和43年)
  • 望郷子守唄 1971年(昭和46年)
  • はぐれ旅 1975年(昭和50年)
  • 朝顔の詩 1976年(昭和51年)
  • 男の忘れもの 1979年(昭和54年)
  • 日本海 1979年(昭和54年)
  • 時代おくれの酒場 1983年(昭和58年)
  • 挽歌 1990年(平成2年) 八代亜紀とデュエット 1991年(平成3年)に三菱ふそう・ファイターのCMで、流された。
  • あの人に似ている 1994年(平成6年) 裕木奈江とデュエット
  • 約束 1995年(平成7年)
  • 旅人 1996年(平成8年)

著書・参考文献

地元九州・沖縄のNHKラジオ第1)でこの中から3作品の朗読が放送された。

CD

出典

注釈

  1. ^ 仕事へのこのような真摯な姿勢は、北大路欣也にも影響を与えた。北大路欣也 「父の眼力」より
  2. ^ 詳細は『ゴルゴ13』の項を参照。
  3. ^ 詳細は江利チエミ波乱万丈の人生の項を参照。
  4. ^ この間、ビートたけしは「健さん。頼むから帰ってくれ」と思っていた。

脚注

  1. ^ 高倉健プロフィール” (日本語). YAHOO! JAPAN 人物名鑑. 日本タレント名鑑 (2010年10月). 2010-10-01閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n JJサニー千葉 『千葉流 サムライへの道』 ぶんか社、2010年、154 - 171頁。ISBN 4821142694 。
  3. ^ 長田暁二 『歌謡曲おもしろこぼれ話』 社会思想社2002年、204頁、ISBN 4-390-11649-5
  4. ^ “高倉健、大原麗子さんの墓参りに来ていた (1/2ページ)” (日本語). 産経ニュース (MSN). (2010-08-04). http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100804/tnr1008040755001-n1.htm 2010-10-26閲覧。 
  5. ^ a b “高倉健、大原麗子さんの墓参りに来ていた (2/2ページ)” (日本語). 産経ニュース (MSN). (2010-08-04). http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100804/tnr1008040755001-n2.htm 2010-10-26閲覧。 
  6. ^ a b c d e 千葉真一 『千葉真一 改め 和千永倫道』 山と渓谷社2008年(平成20年)、82-85頁、ISBN 4-635-34022-8
  7. ^ 『ビートたけしのオールナイトニッポン』 より。
  8. ^ 「プロダクション・ノート」『ブラック・レイン』 より。
  9. ^ 映画パンフレット 『単騎、千里を走る。』 より。
  10. ^ 中国では、大物俳優は現場でも威張り散らしているのがほとんどであるという。
  11. ^ 『ビートたけしの幸か不幸か』(1986年)及び、『ビートたけしの幸せ丸十年』ニッポン放送出版、1990年、p.184
  12. ^ 高倉健 「兆治さんへの花」『あなたに褒められたくて』 集英社、1991年、174頁。
  13. ^ 沢木耕太郎 『深夜特急2』p193~194、新潮文庫ISBN 978-4-10-123506-6
  14. ^ 『ビートたけしの幸せ丸十年』ニッポン放送出版、1990年、p.186

関連項目

外部リンク