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Uボート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Uボートドイツ語: U-boot英語: U-Boat)は、第一次世界大戦から第二次世界大戦の時期のドイツ潜水艦の総称である。

ドイツ潜水艦隊の華々しい活躍により、Uボートの名はドイツ潜水艦の代名詞として広く普及した。第一次大戦では、約300隻が建造され、商船約5,300隻を撃沈する戦果を上げた。第二次大戦では、1,131隻が建造され、終戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈する戦果をあげ、引き換えに849隻のUボートの損失を出した。

目次

概要

ドイツ語の「U-Boot(ウーボート)」は「Unterseeboot(ウンターゼーボート、水の下の船)」の略語であり、潜水艦を意味する。本来のドイツ語では、U-Bootは時代・国籍を問わず全ての潜水艦を意味する言葉として使われているが、英語でU-Boat(ユーボート)と言った場合は専ら第一次大戦・第二次大戦時期のドイツの潜水艦を意味する言葉として使われる[1]

潜水艦の用兵には、さまざまなものがあるが、第一次第二次の両世界大戦におけるドイツ海軍のUボートは、共に通商破壊を目的として使用された。ドイツ海軍は十分な水上艦戦力をもたないため、水上の制海権は絶えず英国側にあった。そのため、海上封鎖を水上艦では行えず、敵の強力な水上艦隊の勢力下でも作戦行動が可能な潜水艦が、この任に最適だと考えたのである。

潜水艦は「敵に発見されにくく、大型船を撃沈できる魚雷をもち、建造費が大型艦に比べれば安価である」とのメリットの反面「速度が低く、会敵の機会が少なく、接敵できても強力な護衛のつく水上艦との戦闘では不利」とされた。また、潜水艦の隠密性を最大限活用するため、Uボート戦では、商船に対しても無警告撃沈という戦法がとられた。主な標的となったのは、両大戦を通じて、敵国のイギリスなどと、植民地とを往来する商船であった。第一次世界大戦にアメリカが参戦した後は標的にアメリカからヨーロッパへの物資・兵員を積んだ商船が追加され、第二次世界大戦においては援ソ船団も加わった。

第二次世界大戦においては、連合国側は様々な対潜水艦戦略および戦術を展開し、最終的に旧型Uボートは劣勢に追い込まれていった。「対Uボート戦の末期(と初期)では立場が逆になった。狩られるのは商船ではなくUボートになったのである」(チャーチル・世界危機)は、両大戦のUボート戦を端的に表している。

また、通商破壊以外の用途としては、技術や物資の隠密輸送などに使用されたりもした。第二次世界大戦時には、同盟国の大日本帝国海軍に寄贈され複数が運用された他、ドイツの敗戦後大日本帝国海軍に接収された艦もある。

戦役

第一次世界大戦

第一次世界大戦1914年 - 1918年)において開戦時期のUボートの評価はそれほど高いものではなく、あくまでも補助艦艇という位置づけであった。その評価を一変させたのは、開戦から3ヵ月後の1914年9月22日にオットー・ヴェディゲン大尉が指揮するU9が、イギリス海軍の装甲巡洋艦クレッシー級「アブーキア」、「クレッシー」、「ホーグ」の3隻を立て続けに撃沈してからであった。この戦果に各国海軍は驚愕し、取り分けイギリスが受けた衝撃は多大なものであった。ガリポリの戦いではオットー・ヘルジンク大尉が指揮するU21がイギリス海軍の戦艦「トライアンフ」と「マジェスティック」を撃沈しており、Uボートの勇名は世界に轟いた。

これらの戦果に自信を付けたドイツ海軍は、1915年2月にイギリス周辺の海域を交戦海域に指定し、イギリスに向かう商船に対する無制限潜水艦作戦を開始する。その3ヵ月後の1915年5月、ドイツのU20が戦時禁制品の火薬類運送中の英国船籍の豪華客船ルシタニア号を無警告で撃沈し、1,198人の犠牲者を出す。この中に123人のアメリカ市民が含まれており、著名な舞台演出家であるヴァンダービルト家の一人も犠牲になった。この出来事は、イギリス側の外交戦術に最大限に利用され、アメリカ世論を反ドイツへと揺り動かし、連合国側に立って戦争に参戦する重要な要因となってしまう。その為、ドイツは1915年8月に商船への無警告攻撃を禁止する布告を出し、Uボートが活躍する場は大幅に制限される。この布告を巡ってはドイツ首脳陣の間に軋轢が生じ、海軍大臣のティルピッツが辞任する騒ぎにまで発展する。最終的にUボートによる無制限潜水艦戦は1917年1月に認められ、この年の2月から3月にかけて500隻近い商船がイギリス周辺や地中海で撃沈された。しかし、同年にアメリカが連合国側に立って参戦し、更にイギリス首相ロイド・ジョージが強力に推進した護送船団方式と対潜技術の向上でUボートの戦果は急速に低下していく。

だが、イギリスが被った損害は重大で、戦後のヴェルサイユ条約でドイツは潜水艦の保有を禁止された。

第二次世界大戦

第二次世界大戦1939年 - 1945年)においては、終戦に至るまでUボートは大西洋の戦いなど、図らずもドイツ海軍の主力兵器でありつづけ、戦後イギリス首相ウィンストン・チャーチルに「私が本当に怖れたのは、Uボートの脅威だけである」と言わせる働きをみせた。

第二次大戦の開戦の日1939年9月3日、デーニッツは57隻のUボートを擁していた(大西洋に派遣できたのは26隻)。ドイツ潜水艦隊司令カール・デーニッツは1939年9月28日ヒトラーに「Uボートは英国を屈服させられます。しかしそれには300隻(100隻が哨戒、100隻が戦場への往復、100隻が整備)が必要です。しかも早急に」と説いたが、ヒトラーは「ゲーリングが英艦隊を追い回すであろう」と空軍への信頼を語り、イギリス側が備える時間を与えてしまった。

Uボートの建造は開戦後もしばらくは進まなかったが、フランス占領後はトート設営相によりフランスの資源と人員を使った迅速なブンカーの設置がなされ、英国近海をとおらず大西洋へ出撃することができた。ブロック方式で大量の潜水艦が建造され、VII型のみに限っても最終的に1,162隻が就役した。緒戦では一部のUボート部隊が大西洋で通商破壊戦に投入され、イギリスへの商船に対し大きな被害を与えた。その他、アメリカ本土へスパイを送り込んだり、機雷封鎖作戦にも投入された。

作戦に投入されたUボートには様々な種類があり、初期の「丸木舟」と呼ばれた沿岸用II型から大西洋を中心に各方面で活躍したVII型、大西洋を横断できるIX型日本海軍の呂号潜水艦程度)、補給用の「乳牛」と呼ばれる大西洋での潜水艦補給用のXIV型Uボート、ヴァルター・ボートの外形だけを取り入れた、水中での行動が有利な艦型のXXI型、沿岸作戦用のXXIII型などがあった。

ファイル:Stöwer U-Boot Truppentransporter.jpg
撃沈された輸送船とUボート byWilly Stöwer 開戦初期は撃沈した独航船を浮上観察する余裕があった。戦争後期では潜望鏡での長時間の観察さえも撃沈される原因となった。

一部のUボートは、日本軍占領下のマレー半島ペナンなどを基地としてインド洋で英連邦諸国の商船に対して通商破壊戦を行っていた。ヒトラーは、同通商破壊戦を強化するために同盟国日本に協力を呼びかけ、日本がUボートを手本として同様の潜水艦を量産することを期待して日本へ2隻のIX型Uボートを贈与した。1隻が日本に入港して呂号第五〇〇潜水艦として連合艦隊に編入されたが、小型で用兵上の不足があると判断された上に、日本の工業技術では1隻も製作不能とされた。また、日本は伊号潜水艦を5次に渉ってドイツに派遣、ドイツの必要とする工業原材料、技術を交換した(遣独潜水艦作戦)。参加した5隻の内、無事日本~ドイツ間を完全往復できたのはわずか1隻だった。

開戦以来、対潜戦闘に不慣れな英国は膨大な損害を蒙ったが、1942年に入ると、連合軍はUボートに対して

などあらゆる対策を実行した。これらが進展するにしたがって、大西洋の戦いはUボート部隊に不利となっていった。ドイツはとりわけ電子戦において遅れをとっていた。ドイツ側も逆探知装置(メトックスやナクソス)などを開発したが、逆探から出る電波をたどって英軍に爆撃されるなど、絶えず後手にまわった。

対空兵装を強化するなどの策もとられたが、対空戦闘での少しの損害でも潜航不能になり、最終的に撃沈される例が相次いだ。このためシュノーケルの装備などで対抗した。これらの対策を施した潜水艦の大量投入で、一時的に戦果の低下を防ぐことができたが、護衛空母による哨戒が開始されるとUボートの損害は再び増加した。1944年になると在来型のVII型、IX型などは事実上旧式化し、大戦初期の様な戦果は望めなくなった。しかし、大西洋からUボートを撤退させることにより、Uボートに振り向けられる連合軍の資源が都市爆撃や陸軍の戦術支援に回ることが予想されたため、連合軍を海に釘付けにするためにUボートの出撃は続けられた。

最終的な結果として、大戦全期を通じたUボートとその乗組員の損失は、743隻、約3万人に上った。一方、連合軍はその数倍に上る損害を受けたが、ついにUボートによる通商破壊で連合国側を屈服させることは出来なかった。

Uボート戦について、デーニッツは、「1938年から大Uボート艦隊を用いて戦争に入っていれば戦いの推移に決定的影響を及ぼせた(勝利できた)であろう。もし2倍のUボートを生産していても大きな影響を与えられた。しかし、第二次大戦では軍備不十分のまま対英戦に突入した」と戦後総括している。

大戦中にドイツが培った革新的な潜水艦技術は戦後、連合国側に吸収され、世界の潜水艦開発に大きな影響を及ぼした。

戦後のUボート

第二次大戦後(1945年以降)、東西に分裂したドイツは東西冷戦の最前線となり、主権の回復と共に再軍備が認められた他、西ドイツはUボートの保有も認められた。しかし、戦勝国のUボートへのトラウマは全く払拭されておらず、1954年に西ドイツと戦勝国との間で結ばれた軍備制限議定書により、Uボートは大戦中よりも大幅に小型化されたものしか保有が許されなかった。この制限は冷戦の終結まで続き、輸出用のものを除けば排水量500tクラスの小型潜水艦が細々と就役していた。

1990年代半ばに制限が解除されると共に水中排水量1830トンの中型潜水艦212A型潜水艦の建造が開始され、現在2隻が就航している。

種類

第一次世界大戦

第二次世界大戦

以下、型式番号なし

第二次世界大戦後

現存艦

1906年に起工したドイツ初のUボート。第一次世界大戦時、既に旧式艦だったために訓練艦として使用された。第二次大戦時にも破壊される事なく残り、ドイツ博物館に屋内展示されている。[2]
1944年6月、モーリタニア、ブランコ岬沖でアメリカ海軍に拿捕[3]された後、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴにあるシカゴ科学産業博物館に屋内展示されている。
1945年5月5日カテガット海峡にて英国空軍機により撃沈されたもの。[4]1993年に引き上げられ、イングランドリバプール近郊のバーケンヘッドにあるノーチラス海事博物館にて屋外展示されていたが、2006年の閉館に伴い船体を4つに分割し、ウッズサイドフェリーターミナルに於いてミュージアムシップとして公開されている。[5]
1945年5月8日ノルウェートロンハイムで戦傷していたもの。ノルウェー海軍で一時使用された後、キール近郊のラボーにある海軍記念館にて屋外展示されている。
1945年5月4日バルト海にて自沈処置が施され[6]たが、引き上げられ、ホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船にてオーバーホールが施され、試験艦「ヴィルヘルム・バウアー」として1960年-1968年まで運用された後、ブレーマーハーフェンにあるドイツ海事博物館にて屋外展示されている。

現存する沈没艦

2008年、"Adolf Hitler's lost fleet"(アドルフ・ヒトラーの失われた艦隊)と呼ばれる黒海で活躍したUボート3隻が発見されたとのニュースがイギリスデイリー・テレグラフ誌で報じられた[1]

発見の経緯

発見された艦はU-19、U-20、U-23の3隻で、トルコの海洋技師Selçuk Kolayがドイツ海軍の古い記録や当時の生存者からの聴取で沈没地点を割り出し、ソナー調査で発見した。沈んでいた3隻のうちU-23はかつてUボートのエースであったオットー・クレッチマーの指揮していた艦で、この3隻の他に合計6隻が黒海で活躍し、2年間の作戦行動中に沈めた艦船数は50隻、総トン数4万6500トンを沈めたが作戦中に逆襲に遭い発見されたU-19、U-20、U-23以外の3隻が沈められた。1944年8月ルーマニアが連合国側の一員としてドイツに宣戦布告したため黒海から出られなくなり、残った上記3隻は廃棄処分となり同じ場所で自沈した[1][2]

Uボートを題材にした作品

映画

  • 海の底』(原題:Seas Beneathジョン・フォード監督、1931年、アメリカ)
  • 眼下の敵』(原題:The Enemy belowディック・パウエル監督、1957年、アメリカ)
  • 『鮫と小魚』(原題:Haie und kleine Fische、フランク・ヴィスバー監督、1957年、西ドイツ)
  • 『U-47出撃せよ』(原題:U-47 Kapitänleutnant Prien、ハラルト・ラインル監督、1958年、西ドイツ)
  • U・ボート』(原題:Das Bootヴォルフガング・ペーターゼン監督、1981年、ドイツ) ⇒ アカデミー賞の6部門にノミネート、世界的なヒット作になったことで一般にもUボートの名を知らしめた。
  • 『ザ・ラストUボート』(原題:The last U-boatフランク・バイヤー・村上佑三共同監督、1993年、日本・ドイツ・アメリカ・オーストリア合作)
  • U-571』(原題:U-571ジョナサン・モストウ監督、2000年、アメリカ)
  • 『Uボート 最後の決断』(原題:IN ENEMY HANDS、トニー・ジグリオ監督、2003年、アメリカ)

脚注

文献

総論

  • Wolfgang Frank、Non--fictions『Uボート作戦』実松譲(訳)、図書出版社、1970年
  • レオンス・ペイヤール、Non-fictions『大西洋戦争(全2巻)』長塚隆二(訳)、早川書房、1981年
  • レオンス・ペイヤール、Non-fictions『潜水艦戦争1939-1945』長塚隆二(訳)、早川書房、1983年
  • カール・デーニッツ、回顧録『10年と20日間 デーニッツ回顧録』山中静三(訳)、光和堂、1986年、ISBN 4-87538-073-9
  • Robert C.Stern『UボートVII型 ドイツ潜水艦テクノロジーの全貌』津久部茂明訳、1995年、ISBN 4-499-22656-2
  • Edwyn Gray、Non-fictions『潜水艦の死闘 彼らは海面下で戦った』秋山信雄(訳)、光人社、1997年、ISBN 4-7698-0830-5
  • 学習研究社編集部 (Pictorials)『大西洋戦争』、学習研究社、1998年、ISBN 4-05-601784-0
  • デヴィッド・ミラー『Uボート総覧―図で見る「深淵の刺客たち」発達史』、大日本絵画 、2001年、ISBN 4499227526
  • 広田厚志『Uボート入門―ドイツ潜水艦徹底研究』、光人社、2003年、ISBN 4769823835
  • ゴードン・ウィリアムソン『ドイツ海軍のUボート1939‐1945 (オスプレイ・ミリタリー・シリーズ 世界の軍艦イラストレイテッド)』、大日本絵画、2006年、ISBN 4499229154


Uボート視点

  • Edwyn Gray、小説『Uボート西へ』種子島洋二(訳)、白金書房、1975年
  • Heinz Schäffer、Non-fictions『U-ボート 977』横川文雄(訳)、朝日ソノラマ、1984年、ISBN 4-257-17038-7
  • アレクサンドル・コルガノフ、Non-fictions『Uボート、出撃せよ』内藤一郎(訳)、早川書房、1993年、ISBN 4-15-050098-3
  • Peter Kremer、回想録『Uボート・コマンダー 潜水艦戦を生き抜いた男』井坂清(訳)、早川書房、1995年、ISBN 4-15-050181-5
  • ロータル=ギュンター・ブーフハイム『Uボート(全2巻)』松谷健二(訳)、早川書房、2000年、ISBN 4-15-040616-2
  • ギュンター・プリーン『スカパ・フローへの道 ギュンター・プリーン回想録』濱野修(訳)、中央公論新社、2001年、ISBN 4-12-003174-8
  • Jordan Vause、Non-fictions『Uボート・エース The Story of Wolfgang Lüth』雨倉孝之(訳)、朝日ソノラマ、1997年、ISBN 4-257-17317-3
  • ヘルベルト・A・ヴェルナー、回想録『鉄の棺 Uボート死闘の記録』鈴木主税(訳)、中央公論新社、2001年、ISBN 4-12-003108-X C0098
  • エーリッヒ・ギンペル『Uボートで来たスパイ あるナチス・ドイツ諜報員の回想』、扶桑社、2006年、ISBN 4-594-05121-9

連合軍視点

  • D.A.Rayner、小説『眼下の敵』鎌田三平(訳)、西武タイム、1985年、ISBN 4-8275-1233-7
  • Kenneth Poolman、Non-fictions『シーハンター』矢嶋由哉(訳)、朝日ソノラマ、1986年、ISBN 4-257-17071-9
  • Geoffrey Jones、Non-fictions『狼群作戦の黄昏』土屋哲朗・光藤亘(訳)、朝日ソノラマ、1990年、ISBN 4-257-17222-3

軍服

関連項目

外部リンク